第90話『小樽の夕焼け』
深夜。
北海道の夜は静かだった。
窓の外では、街灯に照らされた雪が、ゆっくり落ちている。
静かな家。
ストーブの音だけが、小さく響いていた。
*
「……喉乾いた」
布団の中で、瑠美は小さく呟いた。
少しだけ火照った身体。
お酒の余韻が、まだ残っている。
なんとなく、胸の奥がふわふわしていた。
瑠美は、静かに布団を抜け出す。
廊下は暗い。
でも。
台所だけ、明かりがついていた。
「あれ?」
そこには、蓮がいた。
「起きてたの?」
「んー、ちょっとな」
蓮が笑う。
「瑠美ちゃんこそ」
「喉乾いちゃって」
「水?」
「うん」
蓮は、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
「はい」
「ありがと」
瑠美が、こくりと水を飲む。
冷たい。
気持ちいい。
「瑠美ちゃん、お酒強いねぇ」
蓮が、感心したみたいに笑った。
「家系かも」
瑠美が、くすっと笑う。
「私、鹿児島だから」
「両親ともザルなの」
「だから、わたしも……ね」
「ふふふ」
「へぇ〜」
蓮が、楽しそうに頷く。
「まだ飲める?」
「うん、ちょっとなら」
その瞬間。
蓮が、にやりと笑った。
「よかった」
「とっておきあるよ」
「え?」
「じゃーん」
冷蔵庫から、緑色の瓶が出てくる。
「地ビール?」
「しかもこれ」
蓮が、少し得意そうに笑った。
「俺と仲間で会社興して作ってるやつ」
「えっ、すごい!」
瑠美の目が輝く。
「はい、これ」
差し出された名刺。
瑠美が、目を丸くした。
「ほんとだ……」
「すごいじゃん」
「早く飲もうよ♪」
「ははっ、急かすなって」
蓮が笑う。
「お姉さんはお酒にはうるさいからね」
瑠美が、にやりと笑った。
「お手柔らかに」
蓮も笑う。
そして。
琥珀色のビールが、ゆっくりグラスへ注がれていく。
とくとくとく――
灯りに照らされた液体は、やけに綺麗だった。
「……わぁ」
瑠美が、思わず声を漏らす。
「綺麗な色」
「でしょ?」
蓮が、嬉しそうに笑った。
「この色出すの、めっちゃ大変だったんだ」
「イメージは、小樽の夕焼け空」
「……夕焼け」
瑠美が、グラスを見つめる。
たしかに。
オレンジと金色が混ざったみたいな、優しい色だった。
「うん」
「綺麗な夕焼け空の色してるよ」
蓮が、少し照れたように笑う。
「ありがとう」
その笑顔を見た瞬間。
瑠美の胸の奥が、どくんと鳴った。
嬉しいような。
飛び上がりたいような。
なんだか、変な気持ち。
「……」
なんでだろう。
ちょっと、ドキドキしていた。
「さっ」
瑠美が、気を誤魔化すように笑う。
「今度はお姉さんが注いであげよう」
「おっ、お願いします」
グラスへ、ビールが注がれていく。
蓮は、その泡を見るふりをしながら。
ちらっと、瑠美を見た。
視線が重なる。
「……な、なによ〜」
瑠美が、照れ笑いする。
蓮が、少しだけ真面目な顔になる。
「いや……」
「綺麗だなって」
「っ……」
瑠美の顔が、一気に熱くなった。
「お、大人をからかわないの」
「からかってないって」
「ほら!」
瑠美が、慌ててグラスを持ち上げる。
「乾杯!」
「乾杯」
こつん。
グラスが触れ合った。
そして。
ごく、ごく、ごく――
二人同時に飲み干す。
「「美味しい」」
ぴたり。
声が揃った。
「「……あっ」」
一瞬。
見つめ合う。
次の瞬間。
「「ふふっ、アハハハ!」」
夜の台所へ、笑い声が広がった。
*
その頃。
二階。
布団へ入っていた星羅のスマホが震える。
『瑛太』
表示を見て、少しだけ笑った。
「もしもし」
『起きてた?』
「うん」
『俺も寝れん』
小さく笑い合う。
その時。
瑛太が、ふと声を潜めた。
『……あれ』
「どうしたの?」
『誰か起きてる』
瑛太が、そっと階段の方を見る。
そして。
『あっ』
「え?」
『蓮兄ちゃんと瑠美さんや』
「えっ!?」
思わず声が大きくなる。
『しーっ!』
「ご、ごめん!」
慌てて小声になる星羅。
瑛太は、階段の隙間から、そっと下を覗いていた。
『うわ……』
星羅が、小さく呟く。
『なんか、いい雰囲気』
「だね」
蓮と瑠美の笑い声。
楽しそうな空気。
静かな夜。
なんだか、見てはいけない気もするのに。
見てしまう。
『……ねぇ』
星羅が、ぽつりと言った。
『好きって、あんな感じなんかな』
「……」
瑛太が、少し黙る。
下では。
蓮と瑠美が、自然に笑い合っていた。
暖かい家。
誰かの隣。
それだけで、嬉しそうな空気。
『……なんか』
星羅が、少し照れながら笑う。
『私達みたい』
瑛太の心臓が、どくんと鳴った。
そして。
気づけば、口が動いていた。
『……今もやろ』
『……え?』
「いや……」
急に恥ずかしくなる。
「なんでもない」
『ふふっ』
でも。
星羅は、少し嬉しそうだった。
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
暖かい家。
好きな人の声。
北海道の夜は、まだ終わりそうになかった。




