第88話『夕日の色』
お風呂上がり。
リビングには、ほんのり甘いアイスの匂いが漂っていた。
ストーブの熱。
湯上がりの体。
外は雪景色なのに、家の中だけがやけに暖かい。
「はぁ〜……生き返る……」
瑛太は湯上がりのビールを飲みながら、ソファへ沈み込む。
借りたTシャツと短パンが、心地よい温もりにちょうど良かった。
「どう? 似合ってる?」
「似合ってるよ」
向かい側。
星羅が、バニラアイスを食べながら笑う。
濡れた髪。
火照った頬。
風呂上がりのせいか、いつもより柔らかい空気だった。
「瑠美さん、まだ飲んでるんかな」
瑛太が、ちらっと和室を見る。
向こうでは、蓮と島原の笑い声が聞こえていた。
その瞬間。
星羅の視線が、じとーっと細くなる。
「……」
「ん?」
「……瑛太」
Tシャツの袖を、くいくい。
「はい、あーん」
スプーンが差し出される。
「おっ、くれるん?」
瑛太が笑う。
「あーん」
ぱくっ――
……ではなく。
ぺたっ。
冷たい感触が鼻についた。
「っ冷た!?」
「ふふっ」
星羅が吹き出す。
瑛太の鼻には、バニラアイスがついていた。
「何すんねん!」
「瑛太のばーか」
あっかんべー。
笑いながら立ち上がる。
「待てこの野郎!」
瑛太も立ち上がった。
星羅は、廊下をぱたぱた走っていく。
そして。
自分の部屋の前で振り返った。
「ここだよー」
べーっ。
「煽り性能高いな!」
「ふふふっ」
ぱたん。
扉が閉まる。
「こら、逃げんなって!」
瑛太が近づく。
がちゃ。
少しだけ扉が開いた。
「……瑛太……入って……」
小さな声。
「うん……」
瑛太が部屋へ入る。
ぱたん。
静かに扉が閉まった。
*
部屋の中は、ドアの隙間から漏れる光だけで少し薄暗かった。
星羅が、瑛太の胸へ抱きつく。
「なんかやだ……」
「……どうしたん?」
「瑠美さん見ないで……」
「……」
瑛太が目を丸くする。
抱きつく力が、少しだけ強くなる。
「……なんかやなの……」
小さな声。
「瑛太が瑠美さんを見るのが……なんかやなの……」
瑛太が苦笑する。
「嫉妬か?」
「……ちがう」
「いや絶対そうやん」
「ちがうよ……」
でも。
腕は離れなかった。
瑛太は、小さく笑う。
そして。
そっと、星羅の頭を撫でた。
「大丈夫やって」
「……」
「俺が見てるんは、星羅やし」
「……ほんと?」
「ほんまや」
星羅が、少しだけ嬉しそうに笑った。
「島原さんも、あんな笑顔で笑うんやって、思ってただけ」
「だけど、もう見ないよ」
「うん……」
星羅が、部屋の明かりをつけた。
距離が近い。
風呂上がりの熱が、まだ残っていた。
「……」
「……」
瑛太が視線を逸らし、部屋を見回した。
星羅の部屋は、思っていたより落ち着いていた。
白いカーテン。
木の机。
本棚。
どこか懐かしい匂い。
「……なんか、星羅っぽい部屋やな」
「どういう意味?」
「静か」
「ふふっ、なにそれ」
星羅が笑う。
でも。
その笑顔は、どこか照れていた。
その時。
机の横に、一枚のキャンバスが立てかけられているのが見えた。
「……ん?」
夕日の絵だった。
校舎の窓枠。
オレンジ色の空。
雪の残るグラウンド。
そして、大きく輝く夕日
「これ、星羅が描いたん?」
「あ……」
星羅が少し照れる。
「高校の時の」
「へぇ……」
瑛太が近づく。
「なんか、ええな」
技術の事は分からない。
でも。
見ていると、胸が静かになる絵だった。
「夕日好きなん?」
瑛太が聞く。
星羅は、少しだけ考えてから。
小さく笑った。
「……終わる感じと、始まる感じが一緒にあるから」
「……」
瑛太は、その言葉を静かに聞いていた。
なんとなく。
今の星羅みたいだと思った。
過去が終わって。
でも。
新しい何かが始まっている。
ストーブの音だけが、小さく響く。
外では雪。
でも。
部屋の中は暖かかった。
「……」
瑛太が、ゆっくり星羅を見る。
星羅も、何も言わなかった。
ただ。
少しだけ、恥ずかしそうに笑う。
距離が近づく。
あと少しで、唇が触れそうだった。
その時。
「星羅ー!」
リビングから、蓮の声が響いた。
「アルバム出てきたべー!」
「「っ!!」」
二人同時に飛び上がる。
星羅の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「れん兄ちゃんのバカぁぁ〜!!」
部屋の外から、蓮の笑い声が聞こえた。
「……危な……」
瑛太が額を押さえる。
「ここ、星羅の実家やで……」
「……だね……」
星羅も、真っ赤なままだった。
そして。
小さく視線を逸らしながら呟く。
「……アルバム、見る?」
「……お、おう」
二人は、なんとも言えない空気のまま。
部屋を後にした。




