第76話 『雪の朝、コーヒーの匂い』
朝。六時。
キッチンから、 コポコポと音が聞こえていた。
窓の外は、 白い雪景色。
朝日が反射して、 世界が少しだけ眩しく見える。
その香りに誘われるように、 瑛太はゆっくり目を開けた。
「……コーヒー……」
ぼんやりした声が漏れる。
「あっ、おはよう瑛太」
振り向いた星羅が、 少し嬉しそうに笑った。
「おはよう…… 早起きやな」
「うん。 コーヒー淹れてた」
湯気が、 ふわりと揺れている。
「飲む?」
「頼むわ」
「ふふっ、はーい」
その返事が、 妙に優しくて。
瑛太は、 まだ少し眠そうな顔のまま笑った。
しばらくして。
「はい」
星羅が、 マグカップを差し出す。
「ありがとう」
受け取ったカップは、 じんわり温かかった。
コーヒーの香りが、 ゆっくり部屋に広がっていく。
静かな朝だった。
瑛太は、 ソファーへ腰を下ろす。
その隣へ、 星羅も自然に座った。
「おはよう。 良い夢見れた?」
瑛太は、 一口コーヒーを啜る。
「星羅と漫才してる夢見てたわ」
「夢まで漫才なんだね」
「職業病やろなぁ」
「あははっ」
星羅が笑う。
そのあと。
そっと、 瑛太の肩へ頭を預けた。
「静かだね……」
「せやな」
窓の外では、 雪が静かに降っている。
まるで、 別世界みたいだった。
瑛太は、 左手をそっと伸ばす。
星羅の髪へ触れた。
昨日。
ドライヤーをしていた時の感触が、 ふと思い出される。
もっと触れたい。
そんなことを思った自分に、 少しだけ照れながら。
瑛太は、 星羅の髪をゆっくり撫でた。
やわらかな感触が、 指先へ残る。
「……私、 頭撫でられるの好きなんだ」
「俺も…… 星羅の頭撫でるの好きやな」
「…………」
星羅が、 少しだけ目を細める。
安心したみたいに。
「幸せだな……」
小さな声だった。
でも。
その言葉は、 静かな部屋の中で、 やけに優しく響いた。
「…………」
瑛太は、 何も言わずに、 もう一度だけ髪を撫でる。
星羅は、 少しだけ身体を預けた。
「ねぇ、瑛太……」
「うん?」
「私ね…… こういう幸せは、 もう来ないと思ってた」
瑛太の手が、 少しだけ止まる。
窓の向こう。
白い雪が、 静かに降っていた。
「実はね…… 私、芸能界辞めようと思ってたんだ」
星羅は、 瑛太の肩へ頭を預けたまま、 小さく笑う。
「いっぱい無理して、 いっぱい笑って…… もう限界だなって思ってた」
「…………」
「そんな時に、 瑛太に会ったの」
ゆっくり顔を上げる。
涙が少しだけ滲んでいた。
「無理して笑ってるって…… 見抜かれた」
「…………」
瑛太は、 少し照れくさそうに笑う。
「まぁ…… 俺も同じやったからな」
「えっ……?」
「相方おらんなって、 舞台にも立てへん時期やった」
瑛太は、 ぽんっと、 星羅の頭へ手を置いた。
「せやから、 分かったんやと思う」
「…………」
「無理してる顔」
その瞬間。
星羅の目から、 涙がこぼれた。
瑛太は、 そんな星羅を、 そっと抱き寄せる。
宝物みたいに。
「……俺も、 星羅と出会えて良かったよ」
優しい声だった。
その言葉だけで。
ずっと張っていた何かが、 ゆっくりほどけていく。
「……瑛太、大好き」
胸へ顔を埋めたまま、 星羅が小さく呟く。
瑛太の心臓が、 また大きく跳ねた。
「俺も……」
「ちゃんと言って」
「…………」
瑛太は、 耳まで赤くしながら笑った。
それから。
照れ隠しみたいに、 星羅の頭を軽く撫でる。
「俺も…… 星羅が大好きやで」
「うん」
満足そうに、 星羅が笑った。
窓の向こうには。
朝日を浴びた雪景色が、 静かに光っていた。




