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第73話 『優しい手』

風呂場の扉が閉まってから、 しばらく。

部屋には、 シャワーの音だけが響いていた。

「…………」

瑛太は、 テーブルにネタ帳を開く。

ペンを持つ。

「えーっと……」

書けない。

って言うか頭に入らん。

シャー……

一定の水音。

それだけなのに、 妙に意識してしまう。

「…………」

「……ちゃうちゃう」

瑛太が、 ぶつぶつ呟く。

「何考えてんねん俺は」

ペンを走らせる。

『北海道あるある』

止まる。

シャー……

「…………」

顔を覆った。

「無理やろ……」

誰もいない部屋で、 小さく呟く。

そのとき。

ガチャ。

「……お先に…」

「っ!!」

瑛太、 勢いよく振り返ってしまう。

そして固まった。

「…………」

星羅は、 ホテルの部屋着姿だった。

薄い色のTシャツに、 ゆるいショートパンツ。

風呂上がりのせいか、 白い足がいつもより目に入る。

髪はまだ濡れていて、 肩にタオルを掛けていた。

いつもの星羅なのに。

いつもより、 ずっと近く感じた。

「……瑛太?」

「あ、あぁ!!」

瑛太が、 慌てて視線を逸らす。

「お、おかえり!」

「……ただいま」

星羅は、 少し視線を外しうつむく。

そのまま、 ソファへゆっくり座った。

「足、大丈夫か?」

「うん。だいぶ楽」

「なら良かった……」

言いながら。

瑛太の視線が、 どうしても濡れた髪へ行く。

水滴が、 毛先から落ちていた。

「ちゃんと乾かさな風邪引くで」

「……うん」

星羅が、 テーブルの上のドライヤーを見る。

それから。

少しだけ迷うみたいに、 視線を揺らした。

「……ねぇ、瑛太」

「ん?」

「髪……乾かしてくれる?」

「…………え?」

瑛太の動きが止まる。

「足、まだちょっと踏ん張りにくいんだよね…」

星羅は、 タオルを押さえながら、 困った顔で言った。

「だから、その……お願い」

「…………」

数秒。

瑛太は、 思いっきり顔を逸らした。

「嫌?」

「嫌ちゃう!!」

即答だった。

「嫌ちゃうけど!!」

「……けど?」

「その……なんや…… 胸元が…目に毒やねん!!」

「…………」

星羅は下を見る。

(胸元……あっ)

慌てて、 タオルを押さえた。

「………えへへっ…」

星羅は、 少し照れ笑いをして。

そのまま、 少し視線を外しうつむいた。

「………」

「……はいはい。乾かしますよ、お嬢さん」

瑛太は、 わざとらしくため息を吐いた。

「ふふっ、ありがとう」

星羅が、 少し嬉しそうに笑う。

その笑顔に、 また心臓が跳ねた。

「はい」

瑛太が、 ソファの後ろへ回る。

コンセントを差し、 ドライヤーの電源を入れた。

ぶおっ――

温風が広がる。

「熱かったら言いや?」

「うん」

瑛太は、 恐る恐る髪へ触れた。

「…………」

柔らかい。

シャンプーの匂いがする。

近い。

近すぎる。

「…………」

無言になる。

ドライヤーの音だけが、 静かに部屋へ響いていた。

ぶおっ――

風が、 濡れた髪を揺らす。

その瞬間。

肩に掛けていたタオルが、 ふわっと浮いた。

「っ!?」

瑛太、 ものすごい勢いで後ろを向く。

「み、見てへん!!」

「…………」

「いや違うねん!! 今のは事故や!! 風が胸元を!! ドライヤーが悪いねん!!」

慌てて、 タオルを押さえる。

「……瑛太のエッチ…」

星羅は、 少しイタズラっぽく瑛太を見る。

「…………」

瑛太は、 耳まで真っ赤なまま固まっていた。

その姿を見ていると、 星羅まで、 なんだかおかしくなる。

「ふふっ……あはは」

部屋に、 柔らかい笑い声が広がった。

緊張していたはずなのに。

気づけば、 少し肩の力が抜けていた。

「……瑛太」

「な、なんや」

「瑛太の手って優しいね」

「っ……!」

瑛太の手が、 一瞬止まりそうになる。

「そ、そら髪引っ張ったら痛いやろ」

「ふふっ。そういうとこ」

「…もしかして…俺からかわれてる?」

「半分ぐらいかな?」

「半分は何やねん……」

「何だべかねぇ」

「知らんわ」

瑛太が、 困ったみたいに笑う。

そのあと。

濡れていた髪が、 少しずつ乾いていく。

指が、髪を整えるたび、 柔らかな感触が指先に残る。

近い。

でも、 嫌じゃない。

むしろ。

離れたくないと思ってしまう。

「……よし。こんなもんかな」

ドライヤーの音が止まる。

静かになる。

「ありがとう」

星羅が振り返る。

距離が近かった。

お互い、 少しだけ動きが止まる。

窓の向こうでは、 札幌の夜景が静かに光っていた。

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