第66話『一人じゃない今』
事務所の窓から、朝の光が差し込んでいた。
机の上には、積み上がった資料。
コーヒーメーカーの小さな音。
まだ始まったばかりの空気が、ゆっくり部屋に広がっている。
「ちょっと資料取ってきます」
瑛太が、別室の棚を指差す。
「はいはい、お願いね」
島原が軽く手を振った。
ドアが閉まる。
部屋の中に、少しだけ静けさが落ちる。
「……」
星羅は、ソファに座ったまま窓の外を見た。
風が、木々を揺らしていた。
「はい」
「熱いうちにどうぞ」
島原がほほ笑みながら。
星羅の前に、湯気の立つマグカップをコトンと置いた。
「……ありがとうございます」
星羅は、そっとカップを持ち上げる。
一口。
温かさが、ゆっくり喉を落ちていく。
「……温かい」
ぽつり、と漏れる。
その声に。 島原が、少しだけ目を細めた。
「……故郷に帰るの、怖いのかな?」
「……」
星羅は、すぐには答えなかった。
窓の外。
揺れる木の影を、ぼんやり見つめる。
「……結果が出たら、帰ろうって思ってたんです」
静かな声。
「でも、全然帰れなくて」
少しだけ、視線が落ちる。
「女優も、辞めちゃったし……」
「……」
島原は、何も急かさない。
ただ、静かにコーヒーへ口をつける。
「結果は、これから出したらいいんじゃない?」
その声は、柔らかかった。
「あなたの人生だもの。誰かが決めることじゃないと思うな」
星羅は、小さく笑う。
でも、その目はまだ揺れていた。
島原は続ける。
「それに……別に、逃げることは悪いことでも何でもないのよ」
「……はい」
小さく頷く。
それから。
少しだけ間を置いて。
「……でも」
星羅が、ゆっくり顔を上げる。
「今回は、帰れそうな気がします」
島原が、少しだけ目を細めた。
「そっか……」
短く。
でも、ちゃんと受け止める声。
「理由、聞いてもいい?」
「……」
星羅は、少しだけ迷う。
そのとき。
別室の向こうから、瑛太の声が聞こえた。
「あっぶな! 風で飛ぶ飛ぶ!」
ガサガサと、紙の擦れる音。
星羅の口元が、少しだけ緩む。
「……今、一人じゃないので」
小さな声だった。
でも、はっきりしていた。
島原は、それを聞いて吹き出す。
「はいはい、ごちそうさま」
「ち、違いますよ……!」
星羅が慌てる。
その反応を見て、島原はくすっと笑った。
「でも、本当に無理はしなくていいと思うよ」
コーヒーを一口飲む。
「結果は、二人で出したらいいんじゃない?」
「……はい」
「それに」
島原は、ゆっくり立ち上がった。
窓の外を見る。
「女優を辞めたわけじゃないでしょ?」
星羅が、顔を上げる。
「今は、“ねこごはんの相原星羅”をやってるだけ」
少しだけ振り返る。
「“女優の相原星羅”は、ちょっと休憩中」
「……」
星羅の目が、少しだけ揺れる。
島原は、小さく笑った。
「星羅」
「あなた、自分じゃ気づいてないかもしれないけど」
朝の光が、窓から差し込む。
「今、とても輝いてるわよ」
「……」
「いい相方に出会えたね」
その言葉に。
星羅は、ゆっくり笑った。
「……はい」
その笑顔は、昨日より少しだけ柔らかかった。
ガチャ。
ドアが開く。
「風強いわぁ〜」
資料を抱えた瑛太が戻ってくる。
「飛ばされるかと思ったわ」
ニッと笑う。
その顔を見て。
星羅も、少しだけ笑った。
瑛太は、そのまま机へ資料を置く。
「島原さん、俺にもコーヒーくださいよ」
「いいよ。そこにあるからご自由に」
「えー、入れてくれへんの?」
「甘えるな」
「冷たっ」
ぶつぶつ言いながら、自分でコーヒーを入れる。
その背中を見ながら。
島原が、ふっと笑った。
「瑛太」
「はい?」
振り返る。
島原は、少しだけ真面目な顔になる。
「星羅を頼んだよ」
瑛太は、一瞬だけきょとんとしたあと。
すぐに笑った。
「あー、そりゃ勿論」
コーヒーを持ちながら。
当たり前みたいに言う。
「俺の大事な相方やからな」
島原が、じっと見る。
「……大事な人でもあるんでしょ?」
「っ……」
瑛太の動きが止まる。
「そ、そりゃまぁ……そうですけど……」
頭をぽりぽり掻く。
その瞬間。
バシン!!
「痛っ!?」
島原が、思いっきり背中を叩いた。
「しっかりしなさい、あなたの大事な人なんでしょ?頼んだわよ」
瑛太は、少しだけ目を丸くする。
それから。
真っ直ぐ頷いた。
「……はい」
短く。
でも、逃げない声だった。
島原は、満足そうに頷く。
「よし」
それから、星羅を見る。
「星羅。あとで、少し話そっか」
星羅は、小さく息を吐いた。
それから。
ゆっくり頷く。
「……はい」
その顔は。
少しだけ、晴れていた。




