第35話『相方のその先』
喫茶アルデンテのドアを開けると、いつものコーヒーの香りがした。 昼下がりの店内は静かで、窓際の席だけがやわらかい光に包まれている。
星羅は、その席に座っていた。 テーブルの上の水にはまだほとんど手をつけていない。 けれど、スマホを見ているふりをしながら、何度も入口の方を気にしてしまう。
――別に、楽しみにしてたわけじゃない。
ただ、昨日ぶりに会うだけだ。
そう思っていたのに。
「おう」
聞き慣れた声に顔を上げる。 瑛太が立っていた。
眠そうな目。少しだけ跳ねた髪。適当に羽織ったパーカー。
いつも通りなのに、なぜか少しだけ、ちゃんと見てしまう。
「……おはよう」
「おはよう。早いな」
瑛太は向かいに座りながら言う。
「そうかな?」
「うん」
そう言って、少しだけ笑う。 眠そうな目が、笑った瞬間だけ少年みたいになる。
――ずるい。
星羅は思わず、メニューに視線を落とした。
店員が水を置き、瑛太はメニューを開く。 数秒だけ眺めて、すぐ閉じた。
「オムライス」
「早っ」
星羅が思わず笑う。
「まだ開いて3秒だよ」
「決まってるし」
「またオムライス?」
「好きやねん」
眠そうな顔のまま、少しだけ拗ねたように言う。
「好きですけど何か、みたいな顔やめて」
「なんやねん、その顔」
「いや、なんか……かわいい」
言った瞬間、星羅が自分で固まる。 瑛太も、一瞬だけ止まった。
「……は?」
「いや、違っ……そういう意味じゃなくて」
慌てて目を逸らす。 窓の外を、自転車が一台、通り過ぎていく。
なんで今、そんなこと言ったんだろ。
前なら、こんな風に思わなかった。
でも最近、瑛太がふっと笑うたびに、少しだけ調子が狂う。
「……お前、今日なんか変やな」
「変じゃない!」
思ったより大きな声が出て、自分でびっくりする。
瑛太は少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「アハハ。いや、怒んなって」
その笑い方に、また少しだけ胸がざわつく。
――前は、こんなんじゃなかったのに。何か、自分が変だ。
星羅は誤魔化すように、水の入ったグラスに口をつけた。
瑛太はオムライスを待ちながら、ぼんやり窓の外を見ている。 その横顔を見ていると、昨日のことが、また頭に浮かんだ。
「ところでさ」
瑛太がふいに口を開く。
「昨日、勢いで聞いてしまったんやけど……」
少しだけ真面目な声だった。
「相方の話。あれ……ほんまにええんか?」
星羅は一瞬だけ目を瞬かせる。
昨日、自分で決めたことだ。 迷いは、ない。
「うん」
小さく頷く。
「私、あんなに“生きてる”って思ったこと、無かったし」
自分でも驚くくらい、言葉はすぐに出てきた。
「瑛太と漫才するの、楽しい」
瑛太は少しだけ目を丸くして、それから困ったみたいに笑った。
「俺は嬉しいけど……女優の仕事は?」
その言葉に、星羅は視線を落とす。 テーブルの木目を指先でなぞった。
「うん……いっぱい頑張ったよ」
夢中になって、苦しくても、しんどくても。 ずっと、そこに答えがあると思っていた。
「でも……生きてるとも、楽しいとも、思わなかった」
店の中に、少しだけ静かな時間が落ちる。
瑛太は何も言わない。 ただ、真っ直ぐ星羅を見ていた。
やがて。
「……そっか」
やさしい声だった。
「ありがとうな。俺は、嬉しい」
そう言って、瑛太はにっと笑う。 眠そうな目が、その瞬間だけ、子どもみたいにやわらかくなる。
――また、ずるい。
「改めて。よろしく」
そう言って、瑛太はテーブルの上に手を差し出した。
星羅は少しだけ驚く。
でも、その手を見ていると、自然に自分の手が伸びた。
そっと、握る。
大きな手だった。 あたたかくて、少しだけ、ごつごつしていて。
胸の奥が、また少しだけうるさくなる。
「……よろしく」
小さく返すと、瑛太は満足そうに頷いた。
「とりあえず、島原さんにも改めて話に行こうな」
「うん」
窓の外では、春の風がゆっくりと街を揺らしていた。
相方になった。
その言葉だけで、胸の奥が少しだけ、あたたかかった。




