第34話 『夜にほどける、ふたりの呼吸』
名前が呼ばれた瞬間のことを、まだうまく思い出せない。
店の扉を開けた瞬間――
まだ、さっきの拍手が耳の奥に残っていた。
あたたかい空気と、賑やかな声が流れ込んでくる。
「お疲れさまですー!」
「準優勝おめでとう!」
「いやー、よかったで今日のネタ!」
言葉が次々と飛んでくる。
瑛太は少しだけ照れたように笑って、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
星羅も、隣で小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
店の奥の席へ案内される。
テーブルにはすでに料理が並び、グラスがいくつも置かれていた。
「とりあえず、乾杯いこか!」
誰かの声に合わせて、グラスが持ち上がる。
「乾杯!」
軽やかな音が重なる。
炭酸が喉を抜けていく。
ようやく、終わった。
そう思った瞬間、全身の力がふっと抜けた。
「……はぁ」
星羅が小さく息を吐く。
その横顔を見て、瑛太も少しだけ笑った。
「……終わったな」
ぽつりと呟く。
「うん……」
星羅が頷く。
「なんか、まだ信じられない」
騒がしい店の中なのに、二人のまわりだけ少し静かだった。
「でもさ」
瑛太がグラスを指先で回す。
「今日、めっちゃ楽しかった」
星羅は少しだけ目を丸くして、それから笑う。
「……うん。私も」
短い言葉。
でも、それだけで十分だった。
そのとき。
「……二人だけ、空気違わない?」
柔らかい声が落ちてくる。
顔を上げると、島原マネージャーがグラスを片手に立っていた。
少し楽しそうに、二人を見ている。
「すみません」
瑛太が苦笑する。
「別にいいけど」
島原は肩をすくめる。
「でも、打ち上げなんだから。ちゃんと周りとも話してきなさい」
そう言いながらも、その目は優しかった。
「今日のネタ、よかったわ」
「ちゃんと、二人だった」
その言葉に、二人の空気が少しだけ変わる。
瑛太が、ゆっくりと息を吐いた。
星羅も、静かに頷く。
「……ありがとうございます」
島原は小さく笑う。
「ただし」
少しだけ、表情が鋭くなる。
「ここから先は、もっと大変よ」
現実を告げる声。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
「次は、“良かった”だけじゃ足りない」
二人は同時に頷く。
「はい」
迷いのない返事。
島原は満足そうに笑って、別の席へ向かっていった。
再び、ざわめきが戻る。
誰かが大きな声で笑って、遠くでグラスのぶつかる音がした。
その騒がしさの中で、二人のまわりだけが少し静かだった。
瑛太はグラスを指先で回しながら、ふっと笑う。
「……なんか、変な感じやな」
星羅が顔を上げる。
「なにが?」
「いや。昨日までと、そんな変わってへんはずやのに」
そこまで言って、言葉が止まる。
星羅は少しだけ視線を落として、それから小さく笑った。
「……うん」
短い返事。
でも、その声は少しだけ照れていた。
視線が合う。
ほんの一瞬。
でも、どちらも先に逸らせなかった。
舞台袖で交わした言葉が、まだ二人の間に残っている。
星羅はそっとグラスを持ち上げる。
「……これからも、よろしく」
小さな声。
けれど、はっきりと。
瑛太は少しだけ目を丸くして――それから、照れたように笑った。
「こちらこそ」
軽く、グラスが触れる。
小さな音。
それはもう、“約束”というより――
自然に隣にいる音だった。
店の外では、夜風がゆっくりと街を抜けていく。
笑い声と、グラスの音。
その中で、二人は並んで座っていた。
昨日までと同じ距離。
でも、少しだけ違う。
その違いを、まだうまく言葉にはできなかった。




