第28話 『同じ席で飲む理由』
暖簾をくぐると、焼き物の香ばしい匂いがふわっと広がった。
グラスのぶつかる音と、誰かの笑い声。
夜のざわめきが、店の中にやわらかく溶けている。
「ここ、落ち着くよな」
瑛太は席に腰を下ろしながら言った。
「はい……なんか安心します」
星羅も向かいに座る。
いつもなら、もう少しだけ明るい声になるはずだった。
店員が水とおしぼりを置いていく。
「とりあえず、何飲む?」
「……ハイボールで」
少しだけ間があった。
「ほな俺も」
注文を終え、グラスが運ばれてくる。
氷がカランと音を立てた。
「お疲れさん」
「お疲れさまです」
軽くグラスを合わせる。
一口。
炭酸の刺激が喉を抜ける。
「はぁ……」
瑛太が息を吐く。
星羅もゆっくりとグラスを置いた。
少しの沈黙。
いつもの沈黙とは、少しだけ違う。
瑛太はその違いに気づいていた。
「……どうしたん?」
視線を上げずに聞く。
星羅の指先が、グラスの縁をなぞる。
「……ちょっとだけ」
言葉を選ぶように、間が落ちる。
「怖いんです」
静かな声だった。
瑛太は何も言わず、続きを待つ。
「さっき……柊さんに会って」
その名前で、少しだけ空気が変わる。
「やっぱり、すごい人で」
グラスに映る自分を見つめる。
「ちゃんとやってきた人って、ああいう人なんだなって思って」
言葉はゆっくりだった。
「私、女優も中途半端で……」
少しだけ、笑う。
「お笑いも、まだ全然で」
視線が揺れる。
「それで……勝てるのかなって」
小さく息を吐く。
「思っちゃって」
言い終えて、少しだけ肩の力が抜ける。
店のざわめきが、戻ってくる。
瑛太はグラスを持ったまま、少し考えた。
すぐには答えない。
それから、ぽつりと口を開く。
「そら、怖いやろな」
星羅の指が止まる。
「初めてやし」
一言ずつ、置くように言う。
「相手もおるし」
少しだけ間。
「勝ち負けつくし」
星羅は、ゆっくりと顔を上げた。
否定されなかったことに、少しだけ驚いている。
瑛太は、軽く笑った。
「俺も怖いで」
「え?」
「普通に」
グラスを一口飲む。
「前、相方と揉めて終わってるしな」
さらっと言う。
「また同じことなったらどうしよって、思わんわけでもない」
少しだけ視線を逸らす。
「でもな」
星羅を見る。
まっすぐに。
「それでも、やるしかないやろ」
言葉は強くない。
けれど、揺れていない。
「勝てるかどうかなんて、やってみな分からんし」
小さく肩をすくめる。
「でも」
一拍。
「今のネタは、ちゃんとおもろいと思うで」
星羅の目が、少しだけ開く。
「少なくとも俺はな」
軽く笑う。
「やってて楽しいし」
その言葉に、さっきの稽古の感覚がよみがえる。
噛み合った瞬間。
止まらなかった流れ。
「……私も」
星羅が、小さく言う。
「楽しかったです」
少しだけ、声に力が戻る。
瑛太はうなずく。
「ほな、それでええやん」
シンプルな一言だった。
「楽しいって思えるネタやったら、戦えるで」
グラスを軽く持ち上げる。
「勝ちにいこ」
星羅は、その言葉を少しだけ噛みしめて——
小さくうなずいた。
「……はい」
さっきよりも、はっきりした声だった。
二人の間の空気が、少しだけ軽くなる。
店のざわめきが、やさしく戻ってくる。
「で、飯どうする?」
瑛太がメニューを開く。
「ささみ、いきます?」
「ええな」
「あと、つくねも」
「頼みすぎちゃう?」
「勝つための栄養です」
「関係あるか?」
くすっと笑いがこぼれる。
さっきまでの重さは、完全には消えていない。
でも——
前を向くには、十分だった。
同じ席で、同じ方向を見ている。
その感覚だけは、確かにそこにあった。




