第25話 『笑ったもん勝ちや』
二人は並んで歩きながら、しばらく何も言わなかった。
足音だけが静かに重なり、一定のリズムを刻んでいる。
昼のやわらかい風が、二人の間をすり抜けていく。
どこか少しだけ温かくて、けれど心の奥に残る余韻を揺らすような風だった。
さっきまでの空気が、まだ少しだけ残っている。
言葉にしなくても伝わる何かが、二人の間に静かに漂っていた。
やがて、瑛太が口を開いた。
「……うまかったな」
ぽつりと落ちた言葉に、空気が少しだけ動く。
星羅はくすっと笑う。
小さく息がこぼれ、肩の力がほんの少し抜けた。
「でしょ」
少し間があく。
その間を埋めるように、風が一度、通り過ぎる。
「ええ店やった」
「うん」
また沈黙。
けれどそれは、さっきまでの張りつめたものとは違う。
どこかやわらかく、心地よい沈黙だった。
言葉がなくても、隣にいることが自然に感じられる距離。
瑛太は軽く背伸びをする。
骨が鳴るような、小さな音がひとつ。
「……よし」
その一言に、少しだけ気持ちが切り替わる。
「稽古、頑張ろか」
星羅は横を見て、小さくうなずいた。
視線が一瞬だけ瑛太に向き、すぐに前へ戻る。
「うん」
ほんの少しだけ、口元がゆるむ。
その表情は、自分でも気づかないくらい自然なものだった。
「頑張ろ」
風が吹く。
二人の髪が同じ方向に揺れる。
歩幅が、知らないうちに揃っていく。
足音も、いつの間にか同じリズムになっていた。
二人はそのまま、同じ方向へ歩いていった。
稽古場へ向かう足取りは、自然と揃っていた。
*
稽古場に着くと、瑛太は鍵を借りに向かった。
その背中を見送りながら、星羅はその場に残る。
建物の前。
日陰に入った途端、空気が少しひんやりと変わった。
さっきまでの温もりが、ほんの少し遠くなる。
そのときだった。
「あら……意外なところで会ったね」
振り向いた先に、柊が立っていた。
ヒールの音が乾いた床に響き、静かな空間に輪を広げる。
「柊さん……」
「ふふっ……あかねちゃんでもいいよ」
その柔らかい声に反して、星羅の肩がわずかにこわばる。
指先が止まり、呼吸が少し浅くなる。
胸の奥に、過去の記憶がわずかに触れた。
そこへ、後ろから声が重なった。
「柊さん、探しましたよ、カギ借りてきましたよ」
「ん?あんた瑛太といてた……」
「あら、知り合いなの?」
星羅は答えられない。
言葉が喉で止まり、視線だけが揺れる。
ほんの一瞬の沈黙。
そのとき——
「おーい、星羅いくぞ」
振り向くと、瑛太が手を上げていた。
いつもと変わらない、軽い調子の声。
その声に、胸の奥の緊張がふっとほどける。
星羅は小さく息を吸い、そちらへ駆け寄る。
足音が少しだけ速くなる。
「星羅、あれが柊か?」
こくりと、うなずく。
瑛太はちらっと二人を見て、
ふっと肩の力を抜いたように言った。
「何か見たことある奴とつまんなそうな女やな」
「えっ、もしかして、この前何処かの田中くんが自慢気に言ってた柊さんってあれか」
わざと聞こえるような独り言。
視線だけをわずかに流す。
そして、少しだけ声を落とす。
「星羅、お前はあんな香水臭い女より、頑張ってきた」
ぽん、と頭に手が乗る。
そのまま軽く撫でる。
触れられた瞬間、星羅の呼吸が止まりかける。
「星羅……自信を持て、勝ちにいくぞ」
まっすぐな声だった。
星羅は一瞬だけ目を見開いて——
胸の奥に、じわりと熱が広がる。
「うん」
小さく、でもはっきりとうなずいた。
背後で、空気が揺れる。
ヒールの音がわずかに乱れる。
「な、何よあれ」
「田中さん、あれがあなたの元相方?」
その言葉に、瑛太は振り返る。
一拍置いて、口元を緩める。
そして、軽く笑った。
「元相方?いやいや、元気だけが取り柄のツッコミです」
「でも今はこっちの星羅ちゃんが主役なんで」
星羅は少し戸惑いながらも、笑う。
さっきまでの緊張が、ゆっくりとほどけていく。
「あ……ありがとう」
柊はわずかに眉をひそめた。
「野蛮な人、行くわよ田中さん」
二人の足音が遠ざかる。
ヒールの音が、少しずつ小さくなる。
静けさが戻る。
瑛太はその背中を見送りながら、
わずかに息を吐く。
(よし、笑いながら撃退成功……)




