第二十話 『弱さを差し出す夜』
店を変えた。
さっきまでの賑やかさとは違い、今度は静かなカウンター席だった。
グラスの氷が、時折小さく鳴る。
瑛太はしばらく何も言わなかった。
星羅も、無理に笑わなかった。
「さっきは、ごめんな」
ぽつりと瑛太が言う。
「せっかく楽しく飲んどったのにな」
星羅は首を横に振る。
「ううん。気にしてないよ」
少しだけ間が空いた。
瑛太はグラスを指でなぞりながら、続ける。
「あいつな……田中。俺の親友やってん」
星羅は静かに聞いている。
「二人でな、お笑いの世界に憧れて上京してきたんや。売れへん日々も一緒やった。最初は、どんなボケでも拾った。拾わなあかん思てな」
氷が、からりと鳴る。
「でもな……」
一拍。
「俺が完璧を求めすぎて、拾えんボケが増えてきてな」
言葉は多くない。説明もしない。
「間を守らなあかん思うて、必死で拾ってた。そしたらあいつ、俺が全部悪いみたいに言い出してな」
星羅の指先が、そっとグラスに触れる。
「ある日な、“お前より俺を美味しくしてくれる相方見つけるわ”って言われて……」
瑛太は笑わなかった。
「……俺、何も言えんかった。全部、自分の責任やと思ったから」
静かな店内に、空調の音だけが流れる。
「俺な、人を見る目ないんかもしれん」
その言葉は、弱くもなく、強くもなく。
ただ、正直だった。
星羅はゆっくり首を振る。
「そんなことないよ」
一呼吸。
「私……瑛太さんが、私の言葉を拾って、笑いに変えてくれた時」
瑛太の視線が上がる。
「本当に、生きてるって思えたの」
――袖に戻ったあの日。
深く一礼して、息を吐いた彼女。
『……生きてる』
「大げさやな」
かつてそう言った自分の声が、遠くで蘇る。
今は、笑えなかった。
星羅はそれ以上続けない。
柊の名前も出さない。
ただ、氷を静かに揺らす。
沈黙が落ちる。
けれどそれは、逃げるための沈黙ではなかった。
触れそうで触れない距離。
それでも、さっきより少しだけ近い。
瑛太は小さく息を吐いた。
「……ありがとな」
星羅は、ほんの少しだけ笑う。
そして、ゆっくりと口を開く。
「私……」
「うん……」
瑛太は急かさず、ただ頷く。
そのとき、入口の扉が開き、
外から吹き込んだ夜風が、二人をやさしく包んだ。
星羅の言葉は、まだ胸の奥にある。
けれど——
もう、逃げるための沈黙じゃなかった。




