その14 逃亡
言われてみればクラリッサは前々からちょっと変わった女の子だった。
ローゼマリー会長達に比べるとあまり貴族らしくないというか、平民の俺相手に同じ目線で噛みついてくるようなヤツだった。
クラリッサは平民に対する貴族の令嬢の振る舞いがどういうものか、良く分かっていなかったんだと思う。
そういえば以前部活動でちょっとしたお芝居をやった時、アイツが言った「お金を落とした」という言葉に会長がキョトンとした事があった。
後で聞いたら貴族の令嬢はお金を持ち歩かないんだそうだ。その時は「ふうん」としか思わなかったが、あれも彼女の貴族としての常識の無さから出た発言だったんだろうな。
俺はまだ幼い頃のクラリッサの生活を思い浮かべた。
遠い親戚の家の中、厄介者扱いされながら肩身の狭い生活を送っている少女の一家。
毎日彼女の両親は屋敷の主人に、朝から晩までコメツキバッタのように頭を下げている。
小さな女の子はそんな親の背中を見せられて何を思ったんだろう。
両親の迷惑にならないように、家族に与えられた小さな部屋にこもって窓から空を見上げるだけの生活。
彼女にとって最高の暇つぶしは、空に浮かぶ面白い形の雲を見付ける事だけだった・・・
ドン!
「ちょ、急にどうしたのさ、アルト」
急に机を叩いた俺に、同室のマリオが驚いて声をかけてきた。
「あ、いや、何でもない。悪い。昼間ちょっとイラつく事があってさ」
「・・・ダミアンに何か不満があるなら言った方がいいよ?」
「俺がどうかしたのか?」
ベッドに座り込んでソリティアを遊んでいたダミアンが自分の名前に反応して返事をした。
ちなみにソリティアは俺が教えてやったものだ。
ダミアンはすっかりハマってしまって、最近はずっと一人でこれをやっている。
「お前も少しは勉強しろって言ったんだ。明日からテストだろうが」
「分かってる分かってる。この一回が終わったらするって」
こちらを振り向きもせずに答えるダミアンに肩をすくめるマリオ。
優男のマリオはこういう仕草が妙にさまになるんだよな。
・・・まあダミアンの事はどうでもいいか。
俺は集中力を欠きながらも机の上の教科書に目を落とした。
あの日、部室から走り去ったクラリッサを結局俺は見付ける事が出来なかった。
クラリッサは、俺が「クラリッサは勉強を始めるのが遅すぎた、この学校のレベルには付いて行けないだろう」と本心では考えていた、と思い込んで強いショックを受けたに違いない。
クラリッサにとって俺は平民学科の首席だ。その俺の言葉は彼女にとって、俺が考えていたよりも重い意味を持っていたんだ。
でもそれはアイツの勘違いだ。そもそも首席の成績を取ったのはこの体の元の持ち主であって、中身の俺は2流高校に進学した平凡な男子高校生でしかないのだ。
大体俺は「今回の中間テストには間に合わないが、今のまま頑張れば期末テストまでには追いつけるだろう」と言うつもりだったのだ。
それがどう間違えたのか、部分的に俺の言葉を聞いたクラリッサに勘違いされてしまったのだが。
・・・まあ俺の言い方も悪かったかもしれない。
でもこんな事になるなんて、普通思わないじゃねえか。
部室に戻った俺は会長達に事情を説明した。そうして明日、クラリッサが来た時に一緒に誤解を解いてもらえるよう頼み込んだ。
クラリッサの様子を気にしていた会長達は、二つ返事で俺の頼みを引き受けてくれた。
後は俺がクラリッサに上手く説明するだけだ。
その時の俺はそう考えていた。
――しかし、翌日クラリッサは部室に来なかった。
更に翌日になってもアイツは部室に顔を見せなかった。
俺は会長にクラリッサに部室に顔を出すように伝えてくれるように頼んだ。
翌日、会長は申し訳なさそうに俺に謝って来た。
「休み時間に彼女の教室に行ってみましたが、私の顔を見た途端に逃げ出してしまいましたの」
一応クラスメイトに彼女への伝言を頼んでおいたそうだが、今日も部室に顔をみせていない所を見ると、ちゃんとクラリッサに伝わらなかったか、あるいは聞いたが無視しているかのどっちかなんだろう。
アイツ・・・何やってんだよ。
不機嫌に顔を歪める俺を少女達が不安そうな目で見ていた。
休みも明けて翌日の朝、いよいよ中間テストの初日だ。
俺達はいつものように寮を出て校舎へと向かっていた。
寮生活の何が良いかといえば、家から教室までの距離が近い事だ。
コンビニに行くより気軽に教室に行けるというのは、俺にとってこの異世界に来て一番のカルチャーショックだったかもしれない。
いやまあ日本でも寮のある学校なら、今の俺と同じ経験をしているヤツもいるんだろうけど。
「今日から中間テストか~、半日で授業が終わるのってなんかいいよな~」
ダミアンが馬鹿面を下げながら大あくびをした。
その様子に、歩きながら教科書を読んでいたマリオが苦笑した。
「ダミアンはのんきだね。僕なんて不安で仕方が無いのに」
「おう。やる事はやったからな。人事を尽くして天命を待つ、だ」
「お前ソリティアをして遊んでただけだろうが!」
人事を尽くすが聞いて呆れるわ!
俺達がそんな馬鹿話(馬鹿な部分は主にダミアン)をしながら歩いていると、校舎の入り口に黒服の細身の男が立っているのが目に入った。
人目を良く引くその男はローゼマリー会長のところの執事のゼルマだ。
平民校舎なんかに一体何の用だ?
ゼルマの方も俺を見付けたらしく、一直線にこちらに歩いて来た。
ダミアンとマリオの表情が緊張感に引き締まった。
俺はすっかり慣れていて忘れがちだが、やはり俺達平民にとって貴族やその関係者というのは特別な存在らしい。
らしい、としか言えないのは俺の中身が日本人のせいなんだが。
俺がそんな事を考えている間に、ゼルマは俺の前に立った。ゼルマは良く通るハスキーな声で言った。
「アルト。念のために聞きますがシェーラー様の行方に心当たりはありませんか?」
「どういう事だ? クラリッサがどうかしたのか?」
ゼルマによるとクラリッサは今朝から行方不明だと言うのだ。
最初に彼女の不在に気が付いたのは寮監だった。
彼女はここ数日様子のおかしいクラリッサの事を気にかけていたらしい。
朝食の時間になっても姿を見せないクラリッサを心配した寮監は、合鍵を持ってクラリッサの部屋を訪れた。
部屋の鍵は開いていて、クラリッサの姿は何処にもなかったんだそうだ。
制服に着替えて出て行った様子があるため、犯罪性は低いと思われた。しかし、今も念のために何人かで捜索している最中なんだそうだ。
ゼルマもメイド共々ローゼマリー会長に言われて捜索を手伝っているらしい。
てかアイツ一体何やってんだよ。
「やはりアルトの所にも来ていませんでしたか・・・」
ゼルマは踵を返すと貴族学科の方へと去って行った。
俺はゼルマの姿が見えなくなると、持っていた鞄をダミアンに押し付けた。
「おい!」
「俺の机に突っ込んでおいてくれ。ちょっと用事が出来た」
「アルト! どこに行くの?! テストに遅れるよ?!」
俺はマリオの声を背中に受けながら走り出した。
もちろん目指すのは貴族学科だ。
クラリッサめ、みんなに迷惑をかけてんじゃねえよ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
彼女は今朝からずっと一人でここに閉じこもっていた。
そろそろテストが始まる時間だ。
彼女の心は情けなさと悔しさと惨めさで押しつぶされそうになっていた。
目の前の景色がジワジワと涙で滲んでいくのを感じた。
真面目な彼女は今まで授業を休んだ事さえなかった。
そんな彼女がテストをサボるなどと考えた事すらなかった。
それは酷く冒涜的で背徳的な行為にすら思えた。
今まで感じた事のない後ろめたさに、彼女は自分がひどく穢れてしまったように感じた。
もう仲間と笑いあっていたあの日には戻れないだろう。
自分の馬鹿な行いが全てをぶち壊してしまったのだ。
そう思った時、彼女の涙腺がついに崩壊した。
彼女は幼い頃よくそうしていたように声を押し殺して泣いた。
体ばかり大きくなっても、自分はあの頃とちっとも変わっていない。
他人の家で泣いてばかりで両親を困らせていたあの頃と。
彼女の涙はとめどなく流れ続けた。
ガチャ!
突然大きな音をたててドアノブが回された。
驚いて心臓が止まりそうになる少女。
「やっぱりここか! おい、クラリッサ! そこにいるんだろう! 開けろ!」
その声は彼女の良く知る男子の声だった。
つい先週まで放課後に毎日聞いていた男子の声。
男子――アルトは乱暴にドアを叩いた。
ダン! ダン! ダン! ダン!
「おい、開けろ! いるのは分かっているんだ! いい加減にしないと鍵をぶっ壊すぞ!」
少女――クラリッサは慌てて大声で叫んだ。
「何でアルトが部室棟の女子トイレにいるんですよ!」
クラリッサの声にドアを叩く音が止んだ。
「ボッチが逃げ込む先なんて、保健室かトイレに決まってるだろうが! パターンなんだよ! てかこれだけ個室が空いててわざわざ三番目のトイレを選ぶって、おまえはトイレの花子さんにでも会いに来たのかよ?!」
自暴自棄になって三番目のトイレを選んだのは確かだ。
アルトに自分の考えを言い当てられた事で、クラリッサは羞恥のあまり耳まで真っ赤になった。
「う・・・うるさいのですよ! この平民アルト!」
その時、一限目の開始を告げる鐘がトイレに鳴り響いた。