その6 少女の涙
「部活の終わる時間を早くして欲しいんですの?」
「ええ、一時間ほどで良いんですが」
俺の言葉に不思議そうな表情になるローゼマリー会長。
傾けられた頭から豪華な金髪がサラリと頬にかかった。
「中間テストが終わるまでは。最近少し勉強が遅れ気味なので」
「ああ、そういう事ですの。分かりましたわ」
ローゼマリー会長の表情がパッと明るくなった。実際に俺の勉強は遅れている――というかこの世界の勉強なんてひと月前までした事も無かったからな。周囲に比べて実際に遅れているんだ。嘘はついていないぞ。
「良ければ会長の方からみんなに連絡しておいて貰えませんか?」
「! そうですわね。分かりましたわ」
どうやら部活動の連絡事項を回すというシチュエーションが会長の琴線に触れたみたいだ。
何というか、彼女はこういった仲間内での些細なやり取りに妙な憧れを抱いているんだよな。
そんな訳で、一見高飛車そうな見た目と裏腹に割と付き合いが良かったりする。
こうして”悪役令嬢対策倶楽部”は中間テストが終わるまで短縮時間で活動する事になった。
俺は部活が終わった後の一時間を勉強に当てる事が出来るようになったのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「――という訳だ。今日から部活の後の一時間、毎日お前の勉強を見てやるから」
「どうして一時間だけなのですよ。もっと教えるのです」
俺の前で不満そうな顔をしているのはオレンジの髪のアイドル系美少女、クラリッサだ。
美少女と言ったが、今のコイツの顔はイラッとするな。
部活が早く終わった後の部室に、俺はクラリッサの勉強を見てやるために残っていた。
「勘違いしているようだな。俺は自分の勉強のやり方をお前に教えるだけだ。お前はそれを覚えて帰って寮でも勉強するんだ」
「え~、平民アルトは学年主席なんだから、パパッとアタシに頭の良くなる方法とか教えるのですよ」
・・・何だろうこのこみ上げてくる感情は。誰のためにわざわざ俺が時間を取ってやっていると思ってるんだ?
俺は別にお前が馬鹿なままでも構わないんだぞ?
「文句はやる事をやってから言え、歴史はこの間少し教えてやったから今日は数学だ」
俺は鞄の中から数学の教科書を取り出した。
「・・・よし分かった。お前はまず九九を覚える所から始めような」
「九九って何なんですよ?」
九九も知らないのかよ!
こっちの世界は――って事はないよな、多分クラリッサが子供の頃に勉強をサボっていたんだな。
仕方なく俺は紙に九九の表を書いてやった。
「この1から9までの一桁の掛け算を丸暗記するんだ」
「こんなにです?!」
「語呂合わせで覚えれば直ぐだ。ほらいくぞ、ニイチガニ、ニニンガシ――」
「ブツブツ(ニイチガ・・・ニニンガ・・・)」
仕方なく俺に続いてブツブツと小声でつぶやき出すクラリッサ。
「ダメダメ、ちゃんと声に出せ。口に出すと共に耳でも覚えるんだよ」
声出しというのは案外重要で、もしうろ覚えで変な覚え方をした時に「あれ? 何だか微妙に違う気がする」と違和感を抱くきっかけにもなるもんだ。
「そういうものなのです? ニロクジュウニ、ニシチジュウシ――」
最初はどうなる事かと思ったが、一度始めてしまえばクラリッサは案外素直に俺のやり方に従っている。
そういやコイツは割とこういうヤツだった。
この調子ならさほど心配するまでもなかったかもな。
俺は今の間に数学の教科書からいくつか例題を抜き出して簡単なドリルを作った。
「ククハチジュウイチ。なのです」
「よし、九九は基本中の基本だからな。寮に帰った後も何度も繰り返して絶対に覚えておけよ」
まさかこの年齢で九九も怪しいヤツを見る事になるとは思わなかった。
この世界には義務教育が無く、勉強は親が子供に教えるそうだが、クラリッサは誰からも教わらなかったんだろうか?
「今日は後いくつかの公式を覚えて終わりにしよう」
「まだやるのです? 九九だけでも十分じゃないのですよ?」
「・・・お前さっき俺が勉強は一時間って言った時に何って言ったよ」
ばつが悪そうに目を反らすクラリッサ。
その程度の記憶力はあるらしい。
「これが四角形の面積の出し方だ。三角形の面積の場合はこれを半分にしたものになる。ほら、こうだ」
数学というより算数の勉強だが、クラリッサの学力がその程度なので仕方がない。
とはいえ、説明すれば理解はするので、単に今まで勉強をサボっていただけなのは間違いない。
ちなみにこの学園の数学のレベルは低い。日本で言えば中学生レベルじゃないだろうか。
一応これでも高校生だった俺にとって、ここの数学は楽勝だ。それこそ授業中にずっと寝てても良いくらいだ。
逆に歴史や国語は最悪に近い。
アルトの知識がこの頭に少しでも残っていてくれれば助かるんだがな。
「どうしたのですよ?」
「あ、悪い。え~とどこまで説明したっけか」
俺はクラリッサに小学校で習う初歩の幾何学を教えると、さっき選んだ例題を解かせた。
「簡単なのです! みんな簡単そうに解くからどうやっているのかと思っていたけど、公式さえ覚えてしまえば本当に簡単なのですよ!」
「まあ公式ってのはそういうもんだからな。応用問題になると別の方向で頭を使わなきゃいけなくなるが、あれはある意味パズルみたいなもんだな。なにせ公式で解けない問題は出ないんだから」
と言っても、今コイツが解いているのは、この学園の奴らなら入学前から解けて当然の問題だ。
取りあえずこの辺は押さえておいてもらって、授業で習った所は――
俺はそこで驚きのあまり頭がフリーズしてしまった。
ついさっきまで、テンションアゲアゲで問題を解いていたクラリッサの目から、突然大粒の涙がこぼれ落ちたのだ。
「おい、クラリッサ――」
「簡単な事なのです・・・なのに・・・なのにどうしてアタシは今までこんな事も出来なかったのですよ・・・ 悔しいのです・・・公式さえ知っていればアタシだって・・・アタシだって出来るのですよ」
余程悔しいのか、食いしばった歯から絞り出すように言葉を漏らすクラリッサ。
落ちた涙が質の悪い紙にシミを作り、書かれた数字をにじませた。
俺は勘違いしていたらしい。
クラリッサは、分かってさえしまえばこんなに簡単なのに、どうして今まで出来なかったのかと目に涙すら浮かべているのだ。
そう、こんなに負けず嫌いのクラリッサが理由も無く勉強をサボっていた訳が無いんだ。
――コイツに今まで一体何があったんだ?
俺はその時初めてクラリッサ・シェーラーという少女の事をもっと良く知りたいと思った。




