第8話:決意の夜
「ありがとうございます!では、その日程で調整しますね」
電話を切り、受話器を置く。
ふぅ、と息を吐くと同時に自然と頬が緩んだ。
(よしっ……!)
デスクの下で小さくガッツポーズを作る。
また一つ、大きな案件が決まった。
最近、仕事が怖いぐらい順調だ。
以前は卓也に押し付けられた雑用やミスの尻拭いばかりで、毎日が憂鬱だったのに。
今は違う。
自分のことに集中できて仕事が増えて、周りからも評価されるようになった。
「佐伯さん、この前のプレゼン資料、クライアントから大絶賛でしたよ!」
通りがかりの後輩が、笑顔で声をかけてくれる。
「本当?よかったぁ」
「さすがです。私も見習わなくちゃ」
同期の子がそう言って、自分の席に戻っていった。
嬉しいな……。
これもプライベートが充実してるおかげだったりして……。
でも誰と一緒にいるかって本当に大事なんだって実感するんだよね。
自分を肯定してくれる人がいたり、後ろから押し上げてくれるような……そんな人に出会えてから今の私の人生だって楽しいなって思える。
午後の仕事を終え、給湯室でコーヒーを入れていると、背後から声をかけられた。
「おい、ちょっといいか」
振り返ると、卓也が立っていた。
また……?
手にはなにも持っていないが、前も仕事を押し付けてきたからできるだけ話したくない。
「……なに?」
私が警戒して距離を取ろうとすると、彼は鼻で笑って一歩踏み込んできた。
「いやぁ~この前は社長に邪魔されちゃったけどさ、やっぱり頼むよ。お前がいないとなかなか資料作成が出来なくてさ」
やっぱり……またこの話。
もういい加減にしてほしい。
もともと自分でやるものを人に押し付けるなんて。
強く言わなくちゃ、これがずっと続くことになる。
今日こそはハッキリ言う。
「言ったでしょ!もう私がやる義理はないし、浮気して裏切っておいてよくまたやっ
てくれって頼めるよね!」
「そんなこと言わないでさぁ~俺たち仲良くやってたろ?あ、ほら……理子のやつがお前に仕事押し付けてるだろ?それ、俺の入れ知恵なんだよね~それさ、注意しておくから変わりにやってくれよ」
……やっぱり。
もとから理子ちゃんは責任感がないタイプではあったけれど、卓也に浮気されてからというもの、仕事を押し付ける頻度が増えていた。
おおかた卓也が私に任せれば楽だとか言ったんだろう。
私はいら立ちながらも言った。
「あのさ、もうどうでもいい。関わらないでほしいの。卓也となんか喋りたくない」
冷たく突き放すと、卓也の頬がひくりと引きつった。
少しは効いただろうか。
なんて思っていた時。
「お前さぁ……調子乗んなよ!」
突然、彼が声を荒げた。
「俺が下手に出てりゃいい気になりやがって」
抵抗しようとした私の耳元で、彼は低く吐き捨てる。
「大体さぁ、お前の取柄って、仕事することくらいしかないんだからつべこべ言わず俺の言うこと聞けよ!俺がなんで付き合ってやったと思ってんだ?俺がなんの取柄もないお前を拾ってやったんだ!感謝しろよ!」
「……っ」
その言葉は、何よりも深く胸を抉った。
そうだね……私はなんの取柄もない。
それは昔から分かっていた。
頑張ることでしか1番を取れなくて、普通に生きていったら誰の目にも止まらない。
分かっていたからずっと努力してきたんじゃない。
私は泣きそうになるのをぐっとこらえた。
「とりあえず、後でファイル送るから頼んだぞ!仕事できるなら誰も文句は言わねぇんだからさ」
そして卓也は満足げに「頼んだぞ」と言い捨て、給湯室を出て行った。
惨めだった。
元カレに仕事しか価値がないと言われ……仕事があるからお情けで付き合っていたと言われる。
そんな風に言われて、言い返せなかった自分が情けない。
(……もっと自信が持てたら、こんなことにはならなかっただろうか)
視界が滲みそうになる。
私、全然あの頃から変わってない。
その時。
ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
涙を堪えて画面を見る。
それは蓮からだった。
【今日の夜食事でもしないか?ずっと行きたいと思っていたレストランの予約が取れた】
たった一行。
でも、それを見ただけで私の心が救われていく。
なんでだろう……。
この人だけがいつも私のヒーローなんだよね。
困った時、声をかけてくれるのも、あげてくれるのも蓮なんだ。
【うん、行きたい】
私はすぐに返事をした。
ようやく仕事を終えると、19時過ぎだった。
会社の駐車場で待ち合わせをして蓮の車に乗せられ、連れていかれたのは、普段の私なら絶対に行かないような高級フレンチ。
「すごい……ステキ」
そこは窓から夜景が見られるようになっていた。
奥の席に通される。
「お飲み物はどうされますか?」
黒服の店員さんが、恭しくメニューを広げた。
ちょっと緊張する……。
なんて思っていると。
「ワインでいいか?」
「うん」
蓮が慣れた様子で注文してくれた。
すぐにボトルを持ったソムリエがやってくる。私の目の前で、透明なグラスに液体が注がれた。
「乾杯」
「……ん、乾杯」
カチンと軽くグラスを合わせる。一口飲むと、ふわっと果物みたいな香りがした。
「おいしい……」
「気に入ったならよかった。購入もできるから1本家に持って帰るか」
「ええっ」
いや、いくらするか分からないし……。
戸惑っている私をよそに蓮は近くの店員さんにもうワインを持ち帰り用に頼んでいた。
は、はや……。
「でも今日はどうしたの?食事なんて」
話しながらも前菜が運ばれてくる。一口サイズに切られた前菜。
美味しそう……。
「いや、お前とゆっくり食事をしたことがなかったなと思って」
「たしかにそうかも」
家だとテレビみながら話したりとかばっかりだしね。
「急に食事に誘ってしまったが、今日は……なんか元気がなさそうだな」
「えっ」
蓮はこっちみながら言った。
すごいな、蓮……。
隠せているつもりだったんだけどな。
思わず苦笑いがこぼれる。
そういうのも気づいてくれるの、見てくれてるって思えて嬉しいな。
「仕事のことか?」
蓮は優しい口調で尋ねてくる。
食事をとりながら、たぶんあえて私の目を見ないで話を聞きだしてくれてる。
そっちの方が話しやすいもんね。
「ううん。なんか私って取柄ないな~って思っちゃってさ。蓮みたいに全然すごくないし、ずーっと普通でこんな人をこれから先選んでくれる人がいるのかなって思っちゃったんだ」
お魚を一口サイズに切りながらそんなことを言う。
すると、蓮が手を止めて私を見ながら言った。
「俺が選んでる」
「えっ」
「俺が選んだだろう?紬のことを」
「そ、それはそうだけど……」
選んだっていうか、契約結婚だし?
お互いに利害が一致したから結婚を持ち掛けただけで……蓮こそ相手がいなくて結婚したいって思ってる女性だったら誰にでも話しかけたんじゃないの?
蓮は品よくお魚を切り分けながら言う。
「もし誰にでもいいそうだと思われているなら心外だな。俺は、紬を選んだ。誰でもよかったわけじゃない」
それは私が都合がよかったから……?
高校の頃から知っていて、話が早そうだったからとかじゃないの?
「なにか不満か?」
彼は広角をあげてたずねる。
「わ、私はさ……昔からずっと自分に自信がないの。なんの取柄もなくて、頑張ってようやく1位を取れる人間だったから」
「頑張れるってことは取柄なんじゃないのか?」
「えっ」
「普通人間はどこかで諦める。できないことに直面した時にそこから逃げたりする人だっているだろう。でも紬はいつもそれをしない。それって十分取柄なんじゃないのか?」
「そ、それは……」
「少なくとも俺はすごいって思った。毎回努力して勝負を挑んできて、だからこそ俺も絶対に手を抜かないと決めていた。お前と同じ土俵で勝負をするために」
「蓮……」
「そう自分を悲観的に見なくていい。紬にはいいところがたくさんある。言い出せば切りがなくなるほどにな」
どうしてこの人はこんなに欲しい言葉をくれるんだろう。
なんていつも私を励ましてくれるんだろう。
蓮の方が圧倒的にすごい人なのに。
全然私が届くような人じゃないのに、そっと隣にいてくれる。
そんな感覚を覚えてしまう。
「なにを言われた知らないが、俺は味方だってことは覚えておいてくれ」
その言葉が弱った心に染みる。
「ありがと……蓮」
私、蓮と出会えてよかったって思う。
たとえ契約結婚が終了しても、この時の結婚生活のことを忘れたりはしない──。
それから、最後のデザートを食べ終える頃にはさっきまでの嫌な気分もどこかへ行っていた。
幸せだなぁ……。
食後のコーヒーを飲みながら浸っていると、蓮が言う。
「今日はもうひとつ、あげたいものがあるんだが……」
「えっ」
そう言って、蓮はカバンから小さな箱を取り出した。
テーブルに置かれたその箱を、パカッと開ける。
そこにはダイヤモンドが光る指輪があった。
「……えっ」
驚いて、言葉が出ない。
「これ、どうしたの……?」
やっとの思いで尋ねると、蓮は少し照れくさそうに言った。
「結婚したのに指輪もなしっていうのはなと思って勝手きたんだ」
そんな……。
こんなステキなものを用意してくれたなんて……。
「でもいいんだよ?私たちただの契約結婚だし……」
終わりが来るかもしれない関係なのに。
そんな高価なもの、申し訳なくてもらえないよ。
私が躊躇していると、蓮は真っ直ぐ私を見て言った。
「俺が選んでやりたかったんだ」
その言葉に、胸がトクンと鳴る。
義務とかじゃなくて、蓮が私のために選んでくれた。
それがすごく嬉しかった。
「どうだ?お望みならプロポーズでもするか?」
蓮がにやりと笑って聞いてくる。
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。
プロポーズかぁ。
されてみたい気もするけど……。
「ううん、大丈夫」
そういう大事なことは、本当にお互いの心が通じ合った時にとっておきたい。
それが蓮なのか別の人なのかは分からないけど、まだ今は、その時じゃない気がするから。蓮は箱から指輪を取り出すと、私の左手を取った。
スッと薬指にはめられる。
「……ぴったりだ」
キラキラしてて、すごくキレイ。
私の指じゃないみたいだ。
指輪を見つめていると、不思議と力が湧いてくる気がした。
こんなにしてくれているのに……いつまでもうじうじしていちゃダメだ。
私には、こうして味方になってくれる人がいるんだから。
もっと強くなろう。
胸の奥で、カチッとスイッチが入ったような音がした。
私は顔を上げて、目の前の蓮を見る。
「ねぇ……蓮、私……今ので決意できた」
「ん?」
「次の週に職場で結婚したこと発表しよう」
蓮は一瞬きょとんとして、それからふっと優しく笑った。
「ああ、わかった」
その笑顔を見たら、もう迷いなんてなくなっていた。
きっと蓮だったら私が不安になっても前を向ける言葉をくれるんだろう。
だから大丈夫だと思えたんだ──。




