第7話:契約結婚の発表日
この日の帰宅後。
私より後に帰宅をした蓮がネクタイを緩めながら言った。
「それで社内での結婚の公表はいつにする?」
蓮が着替えをしながら尋ねてくる。
そうなんだよね……。
いつ結婚の報告をするかが大事だ。
蓮の方は親戚だけに留めてもいいと言ってくれているんだけど、蓮は社長だし……いつかは周りに知られるわけだから。
だったら隠さずに会社のみんなに言った方がいいと思う。
でも……。
「うーん、大丈夫そうならまだちょっと待ってほしいかも」
正直、まだ勇気が出せない。
だって社長の妻が私だって知ったらみんなどう思うだろう?
なぜ?ってなるに決まってるよね……。
私がいけるなら自分も行けるって思われちゃっても嫌だし……(泣)
もう少しだけ勇気を出せるようになってからがいいんだよね……。
って、そんな日来るのかって感じだけど。
「無理に言わなくてもいいんだぞ?俺の方は問題はない。ただ……」
「ただ……?」
「紬の方がまだ関わって来てるだろ?そういうのも含めて発表する方がけん制にはなると思うがな」
卓也のことか……。
たしかに、社長と結婚していると発表すればあんな風に仕事を押し付けてくるようなことはないだろうし、もう関わって来てほしくない私にとってはポジティブなことが多い。
だから後は自分の勇気しだいなのよね……。
「ちょっと考えてみるね」
「分かった」
もう少しだけ、ちゃんと心の準備をしよう。
契約結婚をしたということはお互いに対等でいる必要がある。
蓮に色んなことをしてもらってばっかりは嫌だもん。
「あっ、お風呂湧いてるから入ってきていいよ」
「そうか……ありがとう」
蓮にお風呂を促すと、彼はまっすぐに脱衣所に向かう。
私はしばらくリビングでテレビを見ながらくつろいでいた。
すっかりお風呂を沸かすクセがついちゃった!
一人の時はいつもシャワーだけだったから、お風呂沸かして旦那さん待ってるってなんか結婚してるみたい。って結婚してるんだけど!
なんて浮かれていた時、ふとあることに気がついた。
(あ、そういえば……)
洗面所のタオル棚、さっき空になっていた気がする。
洗濯して畳んだタオルは、リビング横のリネン庫に入れたままだ。
このままだと蓮が上がった時に困るかもしれない。
ちょっと時間経っちゃったけど、お風呂ってじっくりつかるものだし……。
「……今行けば、大丈夫だよね」
私は新しいバスタオルを抱え、洗面所へと向かった。
そっとドアノブを回して開ける。
ささっとタオルを置いてすぐに帰ろうとした時。
──ガチャ。
奥の浴室のドアが開き、白い湯気と共に人が出てきた。
「――っ!?」
「……わっ」
そこには、腰にバスタオルを一枚巻いただけの蓮が立っていた。
や、やばい……タイミングが悪すぎた!
髪からは水滴が滴り、湯気が立ち上っている。
思考が真っ白になる。
見ちゃいけない。
私はバッと顔を背け、慌てて後ずさりした。
「ご、ごめん!タオルがなかったかもと思って……っ」
てんぱりながらも焦って一歩下がった時。
そこはわずかに水で濡れていて……。
「あっ……!」
──ツルッ。
私は足を滑らせ、バランスを崩した。
「危ない!」
するとその時、蓮がグイッ、と強い力で私を支えた。
「……っ、大丈夫か?」
恐る恐る目を開けると、私は蓮に抱きしめられていた。
(ち、ちかい……っ!)
鼻先をくすぐる、お風呂上がりの石鹸の香り。
触れている肌から伝わってくる熱。
「だ、大丈夫……っ」
大丈夫なんだけどおおお!
(……蓮って、こんなに筋肉質だったっけ!?)
スーツの上からじゃ分からなかった。
細身でスマートに見えるのに、私を支えている腕はがっちりとしていて、筋肉質で……。
鎖骨を伝って滑り落ちる水滴。
密着した身体から、心臓の音が直接響いてくるようで恥ずかしい。
「ご、ごめんっ!」
私はあわてて離れて逃げるように脱衣所を後にした。
ドキン、ドキン、ドキンと心臓がうるさく音を立てている。
「びっくりした……っ」
あんな筋肉質だなんて知らないし……考えたこともなかった。
でも……私たちは今、夫婦だ。
もし……蓮から求められたら……体の関係になることだってあるんだよね。
そんなことを想像してしまい顔が真っ赤になる。
なに変なこと考えてるの!
私たちは契約結婚なんだからそんなことがあるわけないに決まってるじゃない……っ。
(だって相手はあの久我山だ……)
高校時代、勝負をしてきたライバルの久我山よ。
思い出すのよ……。
意識したらダメだ。
だって……意識したらなにかが変わってしまいそう。
リビングで水を飲み、なんとか高鳴る鼓動を鎮めようとしていた時だった。
「……おい」
「ひゃっ!?」
背後から声をかけられ、変な声が出た。
振り返ると、Tシャツにスウェット姿に着替えた蓮が立っていた。
首にはまだタオルがかかっている。
(ふぅ……ちゃんと服着てる……)
当たり前のことに安堵しつつ、さっきの光景がフラッシュバックしてまた顔が熱くなる。
「さっきは悪かったな。驚かせて」
「う、ううん!私が勝手に入ったのが悪いし……」
気まずい沈黙が流れる。
なんか変な空気になっちゃったじゃん……っ!
なにか話さなきゃ。
そう考えるたびにさっき考えていたことが頭から離れない。
契約結婚とはいえ、男女が一つ屋根の下に暮らすんだもんね。
この先、そういう間違いが起きないとも限らないし……。
「あの、私たちって結婚したけどその……」
言葉を濁すと、蓮はまっすぐに私を見た。
視線が絡む。
う……言いにくい。
しどろもどろになる私を見て、蓮が面白そうに口元を緩める。
「プラトニックな関係でいいのかどうか聞きたいのか?」
「っ……!」
図星を突かれ、心臓が大きく跳ねた。
なんで全部分かるのよ……。
「お前はもう少し考えてることを隠す顔を作った方がいいぞ?」
「そんな高度なことできない……」
っていうか、言葉にすると急に生々しい。
「あ、あくまで確認というか!ほら、詳しくは決めてなかったじゃん?蓮はどっちに思ってるのかなぁって」
私が言いかけると、蓮はゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。
一歩、また一歩。
そのたびに威圧感が増していく。
後ずさりしようとしたけれど、背中はすぐに壁にぶつかった。
「ちょっ、なに……?」
目の前に蓮の顔がある。まだ濡れた髪から、水滴が滴り落ちた。
「それは誘われてると思っていいのか?」
低く、甘い声が鼓膜を揺らす。
蓮の手が伸びてきて、私のサイドの髪をさらりと掬い上げた。
「……っ」
かあっと顔の体温が上がっていく。
至近距離で見つめられ、このままキスされるんじゃないか。
なんて予感が脳裏をよぎる。
(ちょっ、本気にしてる……?)
私はパニックになった。
「ち、違う!そんなわけないでしょ!」
私は真っ赤になりながら、蓮の胸をドンと押し返した。
蓮は抵抗せず、可笑しそうに喉を鳴らして笑った。
「……ふっ、冗談だ。お前はいい反応するからいつもからかいたくなる」
「や、やめてもらえませんか?」
心臓もたないから……っ。
去っていく蓮にほっと胸を撫でおろすと、彼は少し歩いてぴたりと足を止めてから言う。
「まぁ、誘われたら俺は断るつもりはないがな」
えっ。
今なんて……!?
聞き返そうとばっと顔をあげると、彼は確信犯のようにその場を去ってしまった。
私が誘ったら断らない……!?
ちょっ……なんて爆弾置いて去っていくのよ!
契約結婚ってこんなにドキドキするものだっけ?
ちゃんと契約結婚の意味を思い出すのよ私……。
この日は自分の部屋でそんなことをずっと言い聞かせているのだった──。




