第6話:特別な存在【久我山蓮side】
佐伯紬は、俺の中では変わった存在だった。
高校時代の俺は、今よりもずっと世界を冷めた目で見ていた気がする。
久我山家の跡取りという立場は、幼い頃から俺に「完璧」であることを強いた。
勉強もスポーツも、期待される以上の結果を出すのが当たり前。
周囲の人間は、俺の背景にある「久我山家」という看板しか見ていない。
「蓮さん、荷物お持ちしますよ!」
「蓮くん、なんでもやるから頼ってね」
すり寄ってくるのは、なんらかの利益を求めているか、俺の父親の立場に興味があるのか。
そのどちらかだ。
そんな環境で育った俺が、他人に期待などしなくなるのは当然だった。
誰も俺という人物を見るものはいない。
友達になろう、なんて笑顔で寄ってくるが、自分の立場をよくしたいというのが見え見え。
少なくとも俺と一緒にいれば、注目される存在にはなるだろう。
それが見え透いたからか、俺は誰ともかかわろうとはしなかった。
そんな時、俺の前に現れたのが佐伯紬という存在だった。
彼女は、俺がこれまで会ったどのタイプの人間とも違っていた。
「久我山くん、次のテスト、絶対に負けないから!」
はじめて彼女にそう宣言されたのは、高校一年の春、中間テストの結果が張り出された日の放課後。
廊下で突然呼び止められ、何事かと思えばライバル宣言だ。
俺は学年一位。
彼女は二位でそれを悔しがっていた。
普通俺に対抗してくるか?
みんな俺が通ると道を開けようとする。
それなのに、その道を阻もうと挑んでくるやつなんか一人もいなかった。
その時に少し興味が湧いたのを覚えている。
「……好きにすればいい」
俺がそっけなく返すと、彼女はムッとしたように頬を膨らませた。
「なにその余裕!見てなさいよ、絶対に見返してやるんだから!」
そう言って走り去っていく後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
(変なやつ……)
それからというもの、彼女は事あるごとに俺に勝負を挑んでくるようになった。
定期テストはもちろん、体育の授業での持久走、果ては文化祭の準備での段ボール運びの個数まで。
なに一つ、俺に勝てる要素などないのに、彼女は毎回必死で全力で挑んできては、全力で悔しがった。
「うっそ、また負けた……!信じらんない!」
「次こそは絶対……!」
(バカだな。次も俺が勝つつーの)
気づけばこの勝負を楽しんでいる俺がいた。
俺の周りには、計算高い人間しかいなかった。 笑顔の裏でなにを考えているか分からない連中ばかりだ。
だけど、佐伯紬は違う。
彼女の感情はすべて顔に出ていて、思っていることが分かりやすくて……うーん、なんだ。
かわいらしい?とさえ思えた。
そんな純粋な彼女だったから、いいように使われることも多かった。
ある日の放課後。
帰ろうとした俺の視界に、教室の隅で男子生徒に呼び止められている彼女の姿が入ってきた。
「なぁ佐伯さん、悪いんだけど日直の仕事変わってくれない?今日大事な用事があってさ、頼む!」
調子のいい声で頼み込む男子生徒に、彼女は少し考えたあと、あっさりと頷いた。
「大事な用事なら仕方ないよ……分かった、いいよ」
彼女は人を疑うことを知らない。
純粋なんだ。
だから悪意を持った人間に使われてしまうことがある。
俺はカバンを持ち直すと、二人の間へと割って入った。
「それくらい、自分でやったらどうだ?」
突然のことに男子生徒がギョッとして振り返る。
「え、く、久我山……」
「日直の仕事もやれないような用事なら、私用じゃなくて先生に言えばいいだろ。正当な理由なら認められるはずだ」
冷ややかな声で告げると、男子生徒は明らかに動揺した。
ただ遊びに行きたいだけの「用事」なのは明白だったからだ。
「っ!……わかったよ!自分でやるよ!」
彼は焦ったように黒板消しを掴んだ。
あ然として立ち尽くす彼女が、俺を見上げている。
「……久我山くん?」
なにも知らなそうな顔。
これからこういう悪意ある人間に使われないといいが……。
なんて、なんで俺が思ってるんだろう。
もともと極端に人に興味が薄かった。
誰がなにをしてようが、興味がない。
好きだとか伝えられても、好意を向けられてもなんとも思わなかった。
それなのに佐伯紬だけは違った。
気づけば自分から目で追っている。
なんでだろうな……。
その問いを解決する間もなく俺たちは卒業することになった。
連絡先を交換することもなかった俺たちは、お互い別々の進路に進むともう会うこともなかった──。
それから十年近くの時が過ぎた。
俺は大学卒業後、単身でアメリカへ渡った。実力主義の国で経営を一から学び、成果を上げ、誰もが認める実績を引っ提げて日本に戻ってきた。
多忙な日々。相変わらず周囲は敵と計算高い人間ばかり。
そして、親戚からの執拗な結婚への圧力。
「身を固めろ」「跡取りを」
年を取る度に周りの声は大きくなっていく。
うんざりしていた。
そんな矢先のことだった。
社長就任の初日。
全社員のリストに目を通していた俺の指が、ふと止まった。
『営業部 佐伯紬』
見間違いかと思った。
だが、人事ファイルにある顔写真は、間違いなく彼女だった。
高校時代よりも少し大人びてはいるが、あの真っ直ぐな瞳は変わっていない。
まさか、俺が就任するこの会社にいるなんて……。
運命などという不確かなものを信じるつもりはないが、この時ばかりは自分の巡り合わせの良さに口角が上がったのを自覚した。
タイミングが合えば話せるだろうか。
そんなことを考えながら、仕事の帰りふと馴染みのバーに立ち寄った。
扉を開け、中に入るとカウンターの隅に彼女――佐伯紬を見つけた時、俺の胸がドキっと音を立てた。
彼女がいる。
俺は声をかけるタイミングを伺っていた。
だからまさか、この後……。
『結婚しないか、俺と』
自分がこんなとっぴょうしもない提案をするとは思わなかった。
形だけの期限付きの契約結婚。
彼女もなにを思ったか同意してくれて、とんとん拍子に進んでいった。
同じ屋根の下で暮らすことは想像出来なかったが、少しずつ彼女が俺の生活の一部になっていく感覚は、想像以上に心地よかった。
誰かが家にいるっていいな。
こうして話して笑い会える時間があるっていいな。
これから先のことは分からない。
この契約がどうなるかは今はまだ考えられないが、家に帰れば彼女がいるというこの奇妙な生活を楽しんでいる自分がいるのは確かだった──。




