第22話:キミを忘れられない【久我山蓮side】
『私たち、もう終わりにしましょう』
あの日、彼女が告げた言葉が、今も耳の奥に張り付いて離れない。
紬と別れてから、何かが決定的に欠けてしまった気がする。
深夜、誰もいないマンションに帰宅する。
中から彼女が顔を見せることはない。
玄関のセンサーライトだけが、無機質に俺を照らした。
靴を脱ぎ、リビングのドアを開ける。
暗くてそして、寒かった。
紬がいた頃は、どんなに遅く帰っても明かりがついていた。
『おかえりなさい』
あの柔らかい声と、笑顔がここにはあったはずなのに。
あっという間になくなってしまうんだもんな……。
紙切れ一枚の契約。
もともと契約結婚だった俺たちは、役目を終えたら終了。
それ以外は繋ぎとめておけるものがなかった。
彼女の方は完全に片がついた。
だから終わりにしようと言ってくるのは至極真っ当なことだった。
でも……期待してしまった。
あの笑顔で「このまま一緒にいてもいいかも」なんて言ってくれる紬を。
でも現実はそうはいかない。
繋ぎとめたものが切れたら終わるのが契約結婚というものだ。
翌日の会社。
「うん、そういうことなら話を聞くよ」
廊下の先、聞き慣れた声に足が止まる。
視線の先には、紬と、最近入社したばかりの中途採用の男がいた。
男がなにか資料について尋ねているようだ。
紬は困った様子もなく、丁寧に応対しふわりと微笑んだ。
その無防備な笑顔を見た瞬間、胸の奥がざらついた。
そしてその彼も嬉しそうな顔をして言う。
「じゃあ、今日の夜飲みに行きませんか?お酒が入ったほうが話しやすいし」
「え、飲み?」
ぎゅっとこぶしを握り締める。
彼女が他の男から誘われるのは当然のことだ。
仕事もできるし、よく笑うし明るいし……なにより素直でかわいらしさを持っている。
だから別れたらこうなることも簡単に想像はついた。
でも……。
(間近でみるとダメだな……)
「ダメですか?美味しいイタリアン知ってるんです」
引き留めたくなってしまう。
「い、いや会議室でいいんじゃないかな?」
「飲む方が俺……話せるというか……」
割って入り、その男から彼女を遠ざけたい衝動に駆られる。
一歩、足を踏み出しかけて、俺は立ち止まった。
(……俺は、もう夫じゃない)
今の俺はただの社長で、彼女は一社員だ。
俺たちは他人になったんだ。彼女が誰と親しくしようと、誰に笑顔を向けようと、俺に止める権利なんてない。
もう別れたのだから、彼女だって新しい相手を見つけたいと思っているはずだ。
だから紬は別れを切り出した。
そこは受け入れてやらなきゃいけないし、受け入れるべきだ。
俺が出る、幕じゃない……。
俺は二人から視線を逸らして通り過ぎた。
通り過ぎ、これでよかったのだと思いこむ。
(でも……)
これからは俺の知らない誰かが、彼女の隣に立ち。
彼女を守り、彼女に触れる。
そんな想像をしただけで、胸が焼けつくように痛んだ。
クッソ……なんでこんなにイライラするんだろう。
社長室に戻り、ドサリと椅子に座り込む。
ネクタイを少し緩めて、深く息を吐き出した。
「はぁ……」
らしくない。
未練がましく嫉妬して、勝手に傷ついて。
今までの俺はこんなこと、女性に対して思ったことがなかった。
去っていく人間は、追うこともせず、付き合っていた女性にもさほど関心が持てなかった。
それなのに、どうして彼女だけは……こんなに心を動かされるのだろう。
「社長、どうかされましたか?」
ふと声をかけられ、顔を上げる。
秘書が心配そうな顔で立っていた。
「なにがだ?」
「ここ最近、溜息が多いように感じましたので……」
「……」
図星を刺され、言葉に詰まる。
ダメだな。
俺はこの会社を背負っているトップだ。
私情を引きずって、部下に心配をかけるなんて失格だ。
「……すまなかったな。ちょっとリフレッシュしてくるよ」
「はい。お茶を用意しておきますね」
秘書に断りを入れ、俺は逃げるように席を立った。
向かったのは屋上だった。
重い鉄扉を開けると、風が吹き込んでくる。
熱を持った頬を、冷たい空気が撫でていく。
金網に手をかけ、眼下に広がる街並みを見下ろした。
空は高く、どこまでも続いている。
けれど今の俺には、その青さがただ虚しいだけだった。
別れの日の紬の顔が脳裏に浮かぶ。
もしあの時、カッコつけずに本音をぶつけていたら。
契約なんて関係なく、ただ一人の男としてお前が欲しいと叫んでいたら。
……あの時、好きだと言えたら、どうなっていただろう。
「なんて……バカらしいな」
もしも、なんてものはない。
あるのは結果だけだ。
行動をしなかった自分が今そこにいるだけ。
風にかき消された呟きは、誰にも届くことはなかった。
仕事を終えたらもう深夜であった。
秘書は先に帰らせたため、社内にはもう自分しか残っていない。
まだまだ家でやらなければ終わらないな……。
会社の施錠をして家へと足を進める。
しかし、あの暗い部屋に戻るのは気が引けた。
紬と結婚してからというもの、会食以外で飲んで帰ってくることはなくなった。
それは家に帰った方がほっとできるからだ。
そんな場所を紬が作ってくれたのだと思う。
今はすっかり帰りたくない場所になってしまったな……。
俺はそのままの足でBARへと向かった。
ここは紬と最初に対面した場所。
未練がましいな……。
もう忘れないといけないのに、いつまでも彼女のことを考えている。
全くどうしようもなくて呆れる。
そんな中、中へと入っていった時。
見慣れた後ろ姿が目に飛び込んできた。
俺を背にカウンター席で飲んでいる女性。
それはまぎれもなく紬だった。
どうしてこんな時に会ってしまうんだろう。
いつもそうだ。
あの時だってここで会うことがなかったら、俺が紬を契約結婚に誘うこともなかったのに。
マスターは今、カウンターの向こうにはいない。
引き返そうか迷っていた時、彼女はぽつりとひとりごとをこぼした。
「あーあ、どうして結婚しちゃったのかな」
俺と結婚したことを悔やんでいる……?
だとしたら悪いことをした。
簡単に彼女を誘ったが、彼女にとってはバツのつく行為だ。
それを気にする人だって多い。
そうか……後悔しているのか……。
あんなこと言わなきゃよかったな。
もっと彼女のことを考えればよかった。
ぐっと拳を握る。
胸が苦しくなっていた時。
「こんなに好きになるって知ってたら……結婚したりしなかったのに」
俺はとっさに顔をあげた。
今、なんて……?
好きになるって知ってたら?
好きって言ったのか……?
それは、俺を……?
ウソ、だろう……。
考えもしなかった。
もうやめたいから彼女の方から契約解除を言ってきたんだと思っていた。
彼女の言葉は本当だろうか。
彼女の本心が知りたい。
もうあの時のようにこのままで終わらせたりはしない。
俺はとっさに彼女の腕を掴んだ。




