第21話:お礼と悲しみ
今日はすっかり晴れていた。
あの後、蓮は風邪をひいたりしていないだろうか……。
タクシーとはいえ、乗り場までは少し距離があったし……私なんかに貸さなくてもいいのにな。
そういうところ本当に優しいんだよね。
今日は蓮に返す傘とちょっとしたお礼のお菓子を買って出社した。
蓮に返せるタイミングがあったら返そうと思う。
「佐伯さん、おはようごいざます!」
すると、割とデカめの声で声をかけられた。
それは中途採用でうちに入ってきた柳くんだった。
営業部に中途採用の男性が入ってきたのは、二週間ほど前のこと。
柳誠人くんという名前で私のふたつ下の子。前職も広告代理店で働いていたらしく経験がある。
人当たりのいい彼はすぐに社内に馴染み、私にも遠慮なく距離を詰めてくる。
コピー機の前で資料をまとめていると、彼が近づいてきた。
「佐伯さん、この後空いてます?」
「うんいいよ~!業務のこと?」
「業務のことっていうか、プライベートのことでちょっと相談したくて」
私にプライベートな相談?
同じ年でもないし、私にする意味ある?
でも……柳くんと同じ年くらいの男の人がうちの部署にはいないんだよね……。
それで気軽に話せないのかもしれないし……。
「OK、分かった!この仕事終わったら聞くよ」
「やった!ありがとうございます」
柳くんは顔をほころばせて、人懐っこい笑みを浮かべた。
「じゃあ、今日の夜飲みに行きませんか?お酒が入ったほうが話しやすいし」
「え、飲み?」
相談っててっきり、空いている会議室とかでするものだと思ってたんだけど……。
「ダメですか?美味しいイタリアン知ってるんです」
ぐい、と彼が距離を詰めてくる。
「い、いや会議室でいいんじゃないかな?」
「飲む方が俺……話せるというか……」
なんかグイグイでちょっとめんどくさいかも。
柳くんはそんなつもりないかもしれないけど、距離感とかも近いんだよね。
でも後輩が相談したいって誘ってるのに、断るなんてひどすぎる……?
勢いに押されて私が返事に迷っていると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
コツ、コツ、コツと規則正しい革靴の音。
心臓がドキっと跳ねた。
ああ、たぶん……そうだ。
この足音は……。
反射的に顔を向けると、想像した通り久我山社長がこちらに向かって歩いてきていた。
「お願いしますよ佐伯さん、俺と飲みましょ!絶対楽しいですから……!」
ちょっ、蓮がいる前でやめて……!
そう思っていた時、久我山社長は一瞬だけこちらを見ると、そのまま視線をそらし私たちの横を通り過ぎてしまった。
あっ……。
(そっか………そうだよね)
私、なに期待したんだろう……。
社長が足を止めてくれるんじゃないかって。
あわよくばなにか声をかけてくれるんじゃないかって期待しちゃった……。
バカだなぁ。
私たちはもう他人なのに、いつまでも気になってくれるんじゃないかと期待して……。
「ごめんね、柳くん。やっぱり会議室で聞くよ」
どうしても蓮のことが忘れられない。
あの結婚生活は夢みたいなものだと片付ければいいと何度も言い聞かせてきたのに、蓮を見るたびに全部の感情が戻ってきてしまう。
こんなの……。
(すき、じゃん)
お互いに利害だけの関係だったのに、それを分かって結婚したのに……好きになったらダメじゃんか……。
翌日の業務終了後。
私は社長室の前に立っていた。
手には紙袋を握りしめている。
中には昨日の傘と、お礼の焼き菓子が入っている。
深呼吸をしてノックをする。
「どうぞ」
短い声が響いた。
扉を押し開けると、広い部屋の奥、蓮はデスクに向かって書類にペンを走らせていた。
「失礼します……佐伯です」
「ああ」
私が中に入っても、蓮は手元の書類から目を離さない。
「あの、昨日……傘ありがとうございました。助かりました。風邪とか引かれてないですか?」
「ああ、問題ない。そこに置いておいてくれ」
淡々とした声。
一度もこちらを見ることなく、彼はペンを動かし続けている。
拒絶されているわけじゃない。
でも、その事務的な言葉に胸にチクリと刺さる。
私は指定されたソファの上に傘を置いた。
「あとこれ……お茶菓子です。よかったら」
私の言葉に、蓮の手がピタリと止まった。
顔を上げた社長と一瞬だけ目があったけれど、そらされてしまった。
「ああ……気を使わせてすまないな」
「い、いえ……」
それ以外の言葉はない。
会話は続かず……私は退出するしかなくなった。
「……いえ。それじゃあ、失礼します」
私は逃げるように頭を下げ、足早に部屋を出た。
なんだろう……。
迷惑そうというか……もうまるで関心がないような態度だった。
蓮はもしかしたら、勘違いするなと言いたかったのかもしれない。
社員が困っていたから傘を貸しただけだ。
それを組み違えてはいけない。
パタン、と扉が閉まり、廊下に出た瞬間、堪えていたものが溢れ出した。
「……っ」
涙が頬を伝う。
(やばい……泣いたらダメ)
でも苦しすぎる……。
蓮と別れてからなにもかもうまくいかない。
離れたくなんかなかった。
ずっと一緒にいたかったけれど……。
あの時。
『蓮……今日は、話があるの』
言えなかった。
蓮が好きだから、このまま契約結婚を続けたいということが出来なかった。
私は外に出た。
ぼーっと駅までの道のりを歩くけれど、寂しさは消えない。
このままひとりぼっちの家に帰りたくない。
まっすぐ家に帰る気になれなくて、私は気づけばあのバーの前まで来ていた。
「ジンをください」
カウンターの隅に座ってマスターに声をかける。
すぐに運ばれてきたグラスを手に取った。
蓮と久しぶりに再会した場所だ。
あの時は彼が後からやってきたけれど、今日は誰もいない。
わざわざ彼と出会ったBARに行ってしまうんだから、未練がましいったらありゃしない。
離婚してからしばらくたった。
蓮はいい人がいるだろうか……。
彼ならモテるから、離婚したって聞いたらひっぱりだこだろうし、女性が放っておかないだろう。
それで、また社内で蓮に新しい相手が出来たことを聞くのかな……っ。
そんなの、いやだ……。
氷が溶ける音だけが虚しく響く。
酔いが回るにつれて、胸の奥が苦しくなってきた。
「あーあ、どうして結婚しちゃったのかな」
ぽつりと独り言が漏れた。
契約結婚なんて割り切った関係なら、傷つくこともなかったはずだ。
いつの間にか本気になって、勝手に傷ついて、バカみたいだ。
視界が潤んで、グラスの輪郭がぼやける。
「こんなに好きになるって知ってたら……結婚したりしなかったのに」




