第20話:もう他人
新しいマンションから見る景色は、なにもかもが知らない街のそれだった。
慣れない地下鉄の乗り継ぎに手間取る。
満員電車に揺られながら、私は小さく溜息をついた。
たった一瞬で変わってしまった。
一人の生活がこんなに苦しいものだとは思わなかった。
もともと寂しがりやとかでもなんでもなくて、一人の時間が欲しいタイプだったはずなのに、急にできた一人の時間はさみしさと退屈以外に感じない。
「はぁ……」
会社の最寄り駅で降りて、ヒールの音を響かせて歩く。
オフィスのエントランスを抜け、私はオフィスに向かった。
デスクに向かっても、指先が思うように動かない。
いつもの業務のはずなのに、頭に霞がかったように重かった。
気晴らしにコーヒーでも淹れようと、席を立つ。
給湯室に近づくと、ひそひそとした話し声が漏れてきた。
「ねえ、今日の社長見た?」
「見た見た!指輪してなかったよね」
足を止めて、壁の陰に身を隠す。
「えー、やっぱり離婚?」
「あんなにハイスペックなのに、やっぱり家庭はうまくいってなかったのかな」
「だってさ、佐伯さんも外してたよね」
「やっぱり社長との結婚生活って難しいのかな~」
無邪気な詮索が、鋭い棘になって胸に突き刺さる。
そっか……蓮。
もう外したんだ……。
私だって外して出てきたんだから、彼が外すのは当たり前だ。
なのに、心のどこかで期待していた。
蓮なら、そういうことに無頓着だから着けたままにしてくれるんじゃないかって。
そんなわけないのにね。
お互いに契約結婚が終わったのだから、もう他人。
気持ちがあるなんて思ったらダメだ。
逃げるようにその場を離れ、デスクに戻った。
定時を過ぎた。
少し仕事があるものの、今は誰も仕事を押し付けてきたりしないし、もうぼちぼち帰れそうだ。
でも……。
(こんなに早く帰ってもしょうがいなよね……)
わざとゆっくりと片付けをする。
ひとりの家に帰る時間を少しでも遅らせたかった。
オフィスの人がまばらになった頃、ようやくバッグを持つ。
社内での移動のため、私はエレベーターホールでボタンを押した。
到着を知らせるチャイムが鳴り、ゆっくりと扉が開く。
「……あ」
中に乗っていた人物を見て、私は息を呑んだ。
蓮だ。
しかも、他には誰も乗っていない。
一瞬、足がすくんで動けなくなる。
でも、ここで乗らなければ逆に不自然だ。
私はギュッと拳を握りしめると、逃げ出したい衝動を抑えて足を踏み入れた。
「……失礼します」
「ああ」
扉が閉まり、密室に二人きりになる。
動き出したエレベーターの微かな振動だけが、静寂の中に響いていた。
(なにかしゃべらないと……)
隣に立つ彼から、懐かしい香水の匂いが漂ってくる。
その香りが、無理やり封じ込めたはずの記憶を呼び覚まそうとして、胸が張り裂けそうになる。
「……元気か」
不意に静寂を破る声が聞こえた。
心臓が大きく跳ねる。
恐る恐る横目で見ると、蓮は前を向いたまま、無表情で立っていた。
「……はい。おかげさまで」
「そうか」
「社長は……いかがですか」
「変わりない」
他人のような事務的な会話。
それがたまらなく寂しくて、そして悲しい。
蓮の横顔は少し痩せたように見えた。
目の下には薄っすらと隈がある。
激務が続いているのだろうか。
以前なら「無理しないでね」と声をかけられた。
でも今の私には、そんな資格はもうない。
「……なら、いいんだ」
蓮がポツリと呟いた時、チン、と到着音が鳴る。
永遠にも感じられた時間が終わりを告げた。
「失礼します」
「……ああ」
私は逃げるようにエレベーターを降りた。
背後で扉が閉まる音を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、力が抜けてしまいそうになる。
(これでいい……これでいいんだ)
遠ざかっていく彼との距離は、もう二度と縮まることはない。
私はきゅっと唇をかみしめ、会社を出ていった。
それからしばらく時間が経った。
当然だけど私と蓮が連絡を取り合うこともなければ、すれ違うこともなくなった。
それほど手の届かない存在だったということだ。
社長と一般社員の距離なんてそんなものだよね……。
私は重たい足取りでオフィスの廊下を歩いていた。
仕事は定時で終わったけれど、気持ちは少しも晴れない。
家に帰ってもちっとも楽しくなくて気を紛らわすために飲む酒も、切なさを増幅させるだけだ。
こんなこと、いつまで続けるんだろうな……。
一歩踏み出さねばと思うけれど、そんな気持ちにはなれない。
それに……。
(……お母さんたちに、いつ言おう)
カバンの中でスマートフォンが重く感じられる。
私はまだ両親には離婚したことを伝えられていない。
「実は離婚しました」なんて言ったら、どれだけ悲しませるだろうか。
その罪悪感が、鉛のように心にのしかかっていた。
(考えても仕方ない……帰ろう)
憂鬱な気分を振り払うように頭を振り、ロビーを出る。
その時だった。
「……うそ」
ざあざあと、アスファルトを叩く音が響いている。
呆然と空を見上げた。予報では降らないって言ってたのに、まさかの土砂降りだ。
「はあ……」
ため息が白く曇って消える。
傘はロッカーにあるけれど、今さら取りに戻る気力もない。
駅まで走るか……そう思って、一歩踏み出そうとした時。
「……傘、持ってきていないのか?」
横から不意に声をかけられた。
──ドキン。
心臓が大きく跳ねる。
その低くて落ち着いた声、間違えるはずがない。
声のする方を向くと、そこには蓮が立っていた。
「蓮……」
思わず、名前で呼んでしまってはっとする。
ダメだ。もう蓮と呼んでいい間柄ではない。
蓮は手に持っていた黒い傘を見つめ、それから私を見た。
「風邪、ひくぞ」
蓮が短く言った。
その瞬間、彼は持っていた傘を私に押し付けた。
「え?」
「これ、使え」
柄の部分が、私の手に触れる。
「で、でも……社長はどうするんですか?」
私が尋ねると、蓮は淡々と答える。
「俺はすぐ其処でタクシーを拾うからいい」
「でも申し訳ないです。濡れてしまいますし……」
「いいから」
有無を言わせない口調。
「じゃあな」
「あっ……待っ……」
蓮はスーツの襟を立てると、土砂降りの雨の中へ飛び出していく。
「……っ」
遠ざかっていく広い背中が、あっという間に雨に濡れて色を変えていく。
追いかけたかった。
結婚していた時なら、一緒に傘の中に入ることが出来ただろう。
でも今は社長と社員。
それが出来る関係じゃないんだよね……。
手の中に残された傘を、ぎゅっと握りしめる。
「……あたたかい」
柄には、さっきまで蓮が握っていた体温が残っていた。
じんわりとした温もりが、冷え切った指先に伝わってくる。
それがどうしようもなく泣きたくなるほど優しくて、残酷だった。
蓮が遠い……もう手を伸ばして届くような存在じゃない。
なんて、昔からそうだったよね。
たまたま私と結婚して、手を伸ばせば届く存在になってくれただけ。
あの結婚生活が特別だっただけだ……。
「……行かなきゃ」
一歩踏み出すと、革靴が濡れた地面を叩く音がした。
雨粒一つ当たらない傘の中。
体がしっかり守られているはずなのに、心の寂しさは増幅する気がする。
私はそんな中、ひとり家へと帰った。




