第18話:終わりの意識
それからというもの、彼とは少し距離が出来てしまった。
(……障害がなくなったら、私たち、どうなるんだろう)
契約結婚の終わりを意識しだしてから、私は無意識に彼を避けるようになってしまった。
蓮の口から「話がある」と言われるのが怖くてたまらない。
その言葉の先にあるのが「契約解消」や「離婚」の二文字だとしたら……。
そう想像するだけで、息が出来なくなるほど胸が苦しくなる。
だから私は、彼と目が合うとすぐに逸らし、二人きりになる時間を極力減らした。
なにか言われそうになれば、「あ、お風呂に入らなきゃ」と逃げ出す日々。
タイミングが良いのか悪いのか、蓮の仕事が激務を極め始めたことも拍車をかけた。
期末決算と新規プロジェクトが重なり、彼は毎日のように深夜帰宅が続いている。
だから私と顔を合わせることもない。
彼が遅く帰ってくるたびにほっとした。
本当は出迎えてあげたったけれど、私は自分の部屋で眠ったふりをした。
「平和」が、今の私には酷く居心地が悪かった。
でも……このまま黙って蓮と一緒にいるのは、ただのわがままになってしまうよね……。
私たちが夫婦でいる理由って、ぶっちゃけもうない。
だとすると切り出さないといけないんだけど……。
「……いや、だな」
私は契約結婚のことをなかなか言い出せずにいた。
終わらせたくないと思ってしまってる。
この贅沢な暮らしをってことじゃない。
蓮と一緒に過ごす日々が終わっていくのが嫌だ。
でもそれは私の単なるわがままだ。
どこかでこの関係を終わりにしないといけない。
「……ただいま」
日付が変わる少し前、玄関から静かな声が聞こえた。
私はリビングで膝にブランケットをかけたまま、読み進めてもいない雑誌から顔を上げた。
「おかえりなさい」
廊下へ出ると、彼は少し疲れた様子でネクタイを緩めているところだった。
目が合う。
いつもならここで「今日はどうだった?」と聞くのが日課だった。
でも、会社の話をしだしたら……理子ちゃんや卓也がいなくなった件を切り出されてしまうかもしれない。
私は言葉を飲み込み、あえて明るい声を作った。
「今日、寒かったでしょう?天気予報より冷え込んだみたいで」
「……ああ、そうだな」
「お風呂、沸いてるから。先に入っておいでよ」
「ああ、そうする」
私は蓮を脱衣所に促した。
彼がいなくなるとほっとする。
この時間だけはまだ契約解除を言われないで済むから……。
それから蓮がお風呂から上がると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いでいた。
「……紬」
コップを持ちなにかを切り出される。
もしかして今、言われる……?
「あ、そうだ!クリーニングに出してたシャツ、戻ってきてるよ。明日着る?今準備しちゃうね」
彼がなにか言いかけたのを遮るように、私は事務的な話題を被せた。
ああ、ダメだ。
こんなのよくない。
「……ああ。ありがとう」
それからも蓮はなにか話をしようとしていたけれど、私は「疲れたからもう寝る」と言って自分の部屋にこもった。
ここにいれば蓮は無理に言ってきたりはしない。
だって蓮は優しいことを知っているから。
私、ズルい女だ。
こうやってズルズル引き延ばしてもなににもならないことを知っているのに……。
それから、私たちの会話は日に日に減っていった。
家に帰っても必要最低限のことしか話さず、お互いに部屋にこもってしまう。
同じ空間にいるのに、まるで透明な壁に隔てられているようだった。
なんかこっちの方が契約結婚ぽいね……。
最初はそうなるのかなと思ってた。
利害だけの結婚だから、会話も最低限で体裁を守るために一緒に暮らしているけど、別々に暮らしているみたいな生活。
でもそうじゃなかった。
帰ってきて、蓮と話をするのも一緒に食事をする時間も大切な時間になっていって……それがなくなるなんて考えたくない。
あーあ。
安直に考えなきゃよかった。
相手はあの蓮だ。
好きにならない保証なんかなかった。
好きになってから……離婚しなくちゃいけないなんて、本当に酷だ。
「私の、バカ……」
蓮はいつでも優しくて、気づけば目で追ってしまうほど堂々としている人で……。
私は高校生の頃から彼しか見えてなかった。
そんな相手と結婚なんかしたらどうなるかなんてわかっていたのに……。
枕に顔を埋めると、視界が滲んでいく。
「……っ、うぅ……」
声を殺して泣くしかなかった。
壁一枚隔てた向こうには蓮がいる。
もし私の泣き声に気づいて優しくされたら、きっと全てを吐き出してしまいたくなる。
『本当の夫婦になりたい』
そんなことを言えば、彼はきっと困った顔をするだろう。
真面目な彼のことだ。
『すまない。その気持ちには応えられない』と、誠実に断るはずだ。
彼を縛り付けたいわけじゃない。
蓮にはもっとぴったりの女性がいると思ってる。
だからこそ、私が……自分から終わりを告げないとダメなんだ。
(このままでいいはずがないもの)
いつまでも彼の優しさに甘えていてはいけない。
私といる時間は彼にとって足枷でしかないのだから。
「……ふぅ」
重たい息を吐き出して、私は濡れた頬を乱暴に拭った。
覚悟を決めなきゃ──。
翌日。
私は会社で午後休をもらい、その足で区役所へ向かい離婚届をもらってきた。
誰もいないダイニングテーブルで、自分の欄にだけ署名と捺印をする。
ペンのインクが滲んで見えたのは、きっと気のせいだ。
その紙をテーブルの真ん中に置き、私は彼の帰りを待った。
心臓が嫌な音を立てている。
ああ、いいたくない。
今日は帰ってきてほしくない。
そう願ったって叶うものじゃない。
──ガチャリ。
玄関のドアが開く音が聞こえてきた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
私は玄関までいかず、リビングで彼を出迎えた。
リビングに入ってきた蓮が、私を見て足を止めた。
いつもと違う雰囲気に気づいたようだった。
「蓮……今日は、話があるの」
私がそう告げると、彼の視線がテーブルの上へ落ちた。
そこには、離婚届が置かれている。
それを見た彼は長い長い沈黙のあと、こう答えた。
「そうだな。話さないといけないと俺も思ってた」
時計の秒針の音が、やけに大きく響く。
やっぱり蓮も離婚しようと言いたかったんだ。
私が避けてしまったから、なかなか言い出せなかったんだろう。
自分が言い出したのもあって、自分から切り出せなかったのかもしれない。
申し訳ないことをした。
私は唇を噛み締め、必死に笑みを作った。
今にも泣きだしそうで涙をこらえるので精一杯だった。
ここで泣いてすがったりしたら、彼の重荷になるだけだ。
最後くらい、潔く終わりたい。
「お互い意見が一致してるなら……ここに書いて、すぐに終わらせよう?」
急かすようにペンを差し出す。
これ以上、彼の目の前にいたら泣いてしまう。
一秒でも早く、この場から逃げ出したかった。
蓮は差し出されたペンを見つめ、一瞬だけ私を見た気がしたけれどすぐに俯いた。
「……ああ、そうだな」
彼は短く答え、ペンを取った。
サラサラと、紙の上をペンが走る音。
それが、私たちの関係を断ち切る音に聞こえた。
彼は署名を終え、ペンを置く。
これで、終わったんだ。
「……じゃあ私、もう寝るね。明日は役所に行ってくるから」
「……いや、取りに行ってくれたしこれは俺が出しておくよ」
「うん、じゃあお願いします」
事務的にそれだけ告げると、私は一度も振り返らずにリビングを出た。
背後で彼がなにか言おうとした気配がしたけれど、今の私には立ち止まる余裕なんてない。
自室に入り、ドアを閉めて鍵をかける。
その瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
「……うっ、く……」
膝から崩れ落ち、声を押し殺して泣いた。
嫌だ。別れたくない。
本当はずっと一緒にいたかった。
でも、彼はそうじゃないから……。
『俺も言おうと思っていた』
彼の言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返され、その度に胸が引き裂かれるようだった。
声が漏れないように口元を手で強く押さえ、私は一人、泣き続けた。
「ぅ、う……っ」
つらい。
今までの失恋なんか非じゃないくらいつらかった──。
それから私は、できるだけ早く引っ越しの準備を進めた。
『次の家が決まるまで、ゆっくりでいい。その間はここを使ってくれて構わないから』
蓮はそう言ってくれたけれど、甘えて長居すればするほど、情が残ってしまいそうで怖かった。
だから、私は急ピッチで荷物をまとめた。
幸いにも、というべきか、蓮の仕事が急激に忙しくなったこともあって、準備をしている期間はほとんど顔を合わせることがなかった。
彼は土日もぶっ通しで出社したり、会食に行ったりしていた。
会社が新しいことをやろうとしている期間だからすごく忙しいんだけど、あんなに働いて、体調は大丈夫なのかな?
前にオフィスですれ違った時、疲れていそうだったし……。
って、もうそんなこと、私が心配することじゃないよね。
これからは、彼が自分で選んだ人と一緒に生きていくんだから。
「これで、よし……」
そして、蓮の家から出ていく日。
私は荷物をまとめた。荷物はほとんどなくて、蓮の家に居候していたような状態だったから、家具とかがついているマンスリーマンションを借りることにした。
おかげで持ち物もすくないから、身ひとつで引っ越しが出来る。
蓮は今日、仕事で不在だと聞いているから……もう出ていこうかな。
そう思ってスーツケースを引いて玄関に向かうと、ガチャリと鍵が開く音がした。
あれっ。
ドアを開けて入ってきたのは、蓮だった。
彼をみると、少し息を切らしている。
仕事に行っていたはずなのに、どうして……。
彼は私の足元の荷物を見て、小さく息を吐いた。
「……行くのか」
「うん。今までありがとね」
「待て。送るよ」
「えっ、でも……」
「そのために切り上げてきたんだ。最後くらいいいだろう?」
「うん」
彼は私の手からスーツケースのハンドルをとると、車に乗るように促した。
いいのかな……。
彼がマンション前に車を止めてくれて助手席に滑り込み、ドアを閉める。
車が静かに走り出した。
蓮は運転しながら私にたずねた。
「必要なものは全部うちから持っていってもよかったのに、本当にそれだけで大丈夫なのか?」
ハンドルを握る彼が心配そうに眉を寄せる。
「うん、一旦マンスリーのマンションを借りたからね」
「そんなに急ぐことなかっただろ」
「でも蓮だって早く新しい人探した方がいいでしょ?時間は無駄にはできないからね」
「そうか……」
会話はそこで途切れた。
流れる景色を眺めているうちに、車は目的のマンションに到着する。
「困ったら連絡してほしい。援助とかできることはこっちもするから」
蓮は神妙な表情で言う。
「もう!そんなんじゃダメじゃん、私たちはもう他人なんだから」
蓮にしてもらうことなんてない。
だって契約結婚中だって私はとっても幸せな時間を送れた。
貸し借りなんてなにもないんだ。
茶化すように言うと、蓮はなぜか悲しそうな顔をした。
そんな顔しないでよ……。
なんか私まで悲しくなるじゃん。
胸が締め付けられるのを無視して、ドアノブに手をかける。
「ここまででいいから」
降りようとしたその時、腕を強く掴まれた。
「……っ!」
びっくりして振り返る。
至近距離にある彼の瞳に、心臓が大きく跳ねた。
な、なに……?
すると彼は静かに言った。
「元気でな」
そう言って、拘束はあっけなく解かれてしまった。
逃げるように車を降り、荷物を抱えてエントランスを抜けた。
新しい部屋の玄関で、自分の腕を握りしめる。
「……びっくり、した」
彼に触れられた場所があつい。
あとすこし、一緒にいたらもっと一緒にいたいと言ってしまいそうになった。
危なかった。
あの瞳に見つめられたままだったら、決意なんて簡単に揺らいでいた。
彼のために身を引くと決めたのに、自分の弱さに呆れてしまう。
外から聞こえるエンジン音が。
遠ざかっていくその音に、胸の奥が痛んだ。
もう、社長とその部下でしかないんだな……。
特別な関係はもう終わり。
私はここから自分の人生を踏み出さないといけない。
彼のいない人生を──。




