第17話:すべてが片付いた日
あれから2週間がたった。
社内は驚くほど静かで、穏やかな空気が流れている。
あの騒動からすぐに卓也は懲戒解雇処分となった。
横領の証拠があまりにも明白だったため、弁解の余地もなかったそうだ。
あの後蓮はちょっと後悔していた。
「みんなの前で言うのは酷かとも考えたんだが、あの状況ならああするしかなかった」
きっとみんなは私のことを信じてくれたけど、少なからず卓也の言葉を信じてしまう人がいるかもしれないという考えの元だったのだろう。
蓮は私を一番に考えた結果、あの場での公表を行った。
あの後、すぐに社長と卓也は会社に戻ることになり、社長は場を悪くしたお詫びだとお金をかなり多く置いていってくれた。
周りへも配慮してくれたおかげか、歓迎会はあの後盛り上がって楽しい会になった。
厳しい対応だったかもしれなけれど、毎回私に突っかかってきていたし……みんなの前であんなことを言ってきたんだ。
それはお互い様だと思ってほしい。
「斉藤さん、大変みたいだよ」
給湯室で会った同僚が、声を潜めて教えてくれた。
彼女の話によると、卓也の現在は散々なものらしい。
横領した金額の返済を求められ、貯金は底をついた。
身元保証人である両親にも連絡がいき、実家からは勘当同然の扱いを受けたという。
さらに住んでいたマンションも家賃滞納で追い出されたそうだ。
「この業界じゃもう働けないってウワサだしね」
そう、一番の打撃はそこだった。
「社員の侮辱と横領でクビになった男」
そのレッテルは、あっという間に業界内に広まってしまった。
再就職先を探そうにも、経歴に傷がついた彼を雇う企業はない。
どこへ行っても門前払いだと聞いた。
「昨日、駅前の工事現場で交通整理をしてるのを見たって子がいてさ」
「えっ……」
「やつれてて、全然気づかなかったって」
かつてはブランドスーツを着こなし、営業部のエース気取りだった彼。
プライドの塊だった彼が、今は日銭を稼ぐのに必死になっている。
自業自得だ。
そう思うけれど、胸の奥が少しだけ冷えるような感覚があった。
同情ではない。
あんな男に人生を捧げようとしていたかつての自分が、哀れに思えたからだ。
(でも、もう関係ない)
私は窓の外に広がる青空を見上げた。
私を縛り付けていた鎖はもうない。
今は目の前のことを頑張ればいいんだもん。
足を引っ張ろうとする人も、仕事を押し付けてこようとする人もいない。
平和そのものだ。
自分の努力が、正当に評価される環境。
それがこんなにも清々しいものだなんて。
「失礼します。社長、例の資料をお持ちしました」
「入れ」
扉を開け、社長室へと足を踏み入れる。
広い執務室には、書類に目を通す蓮の姿があった。
仕事モードの彼は、家で見せる顔とは違い、冷徹で切れ者という言葉が似合う。
私はデスクの前まで進み、作成した企画書を差し出した。
蓮はそれを受け取ると、素早い視線の動きで内容を確認していく。
緊張の一瞬。
ダメ出しは遠慮なく飛んでくるからなぁ……。
「……悪くない。要点がまとまっていて見やすいな」
良かった……。
「ありがとうございます」
「この方向で進めてくれ」
「はい!」
私が返事をすると、蓮はその書類にサインをした。
これで報告は終わり。
一礼して退室しようとした、その時だった。
「……そうだ」
呼び止められて、私は足を止めた。
振り返ると、蓮がさっきのキリとした表情から柔らい表情に変わって言う。
「今日の夕飯だが……外で食って帰らないか?」
「え?」
「たまには、その……夫婦らしいことも必要だろう」
「はい!」
美味しい食事を終えて店を出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。
隣を歩く蓮の横顔を盗み見る。満足そうに目を細める彼は、会社にいる時よりもずっと柔らかい表情をしていた。
ああ、なんか今……幸せだなって思える。
するとその時。
「キャハハッ!パパ、待ってー!」
不意に、楽しげな笑い声が聞こえた。
視線を向けると、幼い男の子が両親の手を引いて歩いている姿があった。
繋がれた手と手。
向けられる無償の愛。
それは、絵に描いたような幸せな家族の光景だった。
「……いいな」
無意識に、言葉が漏れていた。
あんなふうに笑い合える未来が、私にもあったら……。
隣には蓮がいて、蓮や私に似た子どもが笑っている。
もしそんな光景があったとしたらどれだけ幸せを感じるだろう。
そんな妄想をして私ははっと我に返った。
なにを言ってるの?
私と蓮はただの契約結婚だ。
蓮と私に未来はない。
未来があるとすれば別れてお互いに別々の道に進むということだけだ。
その事実に気づいた瞬間、背筋がスッと冷たくなった。
(しかも解決して……しまった)
理子ちゃんも卓也もいなくなり、会社に嫌なことをしてくる人はいなくなった。
平和な世界。
私の方の問題はもうなにもない。
『守る』という名目がなくなれば、私がここにいる理由は……?
(私たちの役目は、終わったということ?)
さっきまでの満たされた気分が、波が引くように消えていく。
問題が片付いた今、契約を解消するという話が出るかもしれない。
「お互いの問題は解決したな。なら、もうこの茶番は終わりだ」
そんな蓮の言葉を想像してしまい、胸がギュッと締め付けられる。
怖い。
平和になったことが、こんなにも不安だなんて。
明日にも「さよなら」が来るかもしれない。
そう考えただけで、街の明かりが急に色あせて見えた。
苦しい……。
契約で繋がった結婚だから、自分の気持ちが伝えられないことが。
引き留めることはできないのが苦しい。
そうか私……。
(……好きになっちゃったんだ)
ストン、と。心の中にその言葉が落ちてきた。
認めたくなかった。
認めてしまえば、この関係の終わりがもっと辛くなるから。
でも、もう誤魔化せない。
最初はただの同級生だったはずだ。
次は利害の一致しただけの契約結婚。
そして私を守ってくれる頼もしい夫。
いつの間にか、彼の存在が私の中で大きくなりすぎていた。
守られるだけじゃ嫌だ。
対等なパートナーとして隣にいたい。
ウソの夫婦じゃなくて、本当の夫婦になりたい。
「……紬?」
不意に名前を呼ばれて、ハッと顔を上げる。
私が立ち止まっていることに気づいて、蓮が振り返っていた。
「どうした?足が痛いのか」
「あ……ううん、なんでもない」
心配そうに覗き込んでくる瞳。
その優しさが、今はなによりも切ない。
(言えない……)
もしも私が「好き」だなんて伝えたら。 蓮は困るだろうか。
契約違反だと突き放されるだろうか。
それとも、気を遣って「ごめん」と謝られるだろうか。
どちらにしても、今の穏やかな関係は壊れてしまう。
それが怖くて、私は湧き上がる想いを必死に喉の奥へと押し込んだ。
「早く帰ろう?少し冷えてきたから」
「ああ、そうだな」
私は逃げるように歩き出した。




