第16話:選択ミス【卓也side】
「おい、斉藤。ここ数字間違ってるぞ」
「あ……?すみません」
「すみませんじゃないだろ。先週も同じミスしてたよな?基本中の基本だぞ」
年下の課長代理にみんなの前で叱責され、俺は唇を噛み締めながら頭を下げた。
周囲からの視線が痛い。
嘲笑、呆れ。
かつて「営業部のエース候補」ともてはやされていた頃の空気は、もうどこにもなかった。
(クソッ……なんで俺がこんな……)
本来なら俺が課長になるはずだった。
でも後から入ってきた後半に営業成績で抜かされ、今はこのありさまだ。
デスクに戻り、キーボードを叩く指に怒りを込める。
前まではこんなミスはありえなかった。
俺が最終チェックをする前に、紬が完璧に資料を整えてくれていたからだ。
『卓也、ここの数字ズレてたから直しておいたよ』
『明日の会議資料、カバンに入れておいたから』
あの頃は、それが当たり前だと思っていた。
それも含めて俺の実力だと思っていた。
だが、紬がいなくなってから、俺の仕事はなに一つうまくいかない。
成績は右肩下がり。
同期はおろか、見下していた後輩たちに次々と追い抜かれていく。
今では、重要なプロジェクトから外され、雑用のような仕事ばかりが回ってくる始末だ。
「チッ……」
舌打ちをして、ディスプレイを睨みつける。
周りの連中が俺を無能扱いするのも、上司が冷たいのも、全部アイツらが俺の才能を理解していないからだ。
イライラを募らせたまま定時を迎え、俺は逃げるように会社を出た。
重い足取りでマンションに帰る。
鍵を開け、ドアを開けるとシーンと静まり返った部屋が出迎えるだけ。
クッソ……!
この部屋見てるとイライラする。
リビングは、足の踏み場もないほど散らかり放題だった。
服が脱ぎ捨てられ、飲みかけのペットボトルがテーブルに放置されている。
ちょっと前まで理子が住んでいたというのもあり、あいつは片付けをしない女なので散らかったままだ。
あの女……出ていくならせめて片付けしてから出ていけよ!!
「クソ女が!」
俺は足元に落ちていたクッションを蹴り飛ばした。
理子は、顔と愛想だけの女だった。家事は一切できない。
金遣いは荒いし、俺が仕事で疲れて帰ってきても、ご飯のひとつさえ作らない。
無理矢理作らせてもあんまりうまくないし、正直全部紬の方が勝っていた。
そして俺の仕事がうまくいかなくなり、羽振りが悪くなった途端、あっさりと俺を捨てて出ていった。
「クソッ、クソッ!」
散乱した雑誌をゴミ袋に放り込みながら、苛立ちが頂点に達する。
そもそも、あいつと付き合ってから俺の歯車は狂いだしたんだ。
紬は違った。
文句ひとつ言わず、家事も完璧にこなし、俺の仕事のサポートまでしていた。
家に帰れば温かい飯があり、部屋はいつもキレイで、俺は仕事だけに集中できていた。
「紬にしていればよかったのに……」
ゴミだらけの部屋の中心で、俺はポツリと呟いた。
なにも出来ない女と付き合うから、こんなことになった。
俺のキャリアも、生活も、めちゃくちゃだ。
「全部、あの女のせいだ……!」
あいつが会社から消えていってから知ったことだが、社長にも手を出していたらしい。
お前みたいな女が社長に選ばれるわけないだろ。
あいつはどれだけ俺の顔に泥を塗れば気が済むんだ。
だいたい……俺は婚約なんて発表したくなかったのに、早い方がいいとか言ってそそのかされて婚約を会社に発表したらこのざまだ。
恥ずかしいったらありゃしない。
『卓也先輩が好きなんです……っ』
あの時選択を間違えていなければ……。
俺はまだ紬と一緒にいられたのに……。
悔しい……っ。
数日後。
今日は新しく入った社員との親睦会の日だった。
「おい斉藤、ビール瓶空いてるぞ。注文してこいよ」
「……はい」
俺が通されたのは、入り口に一番近い末席だった。
人の出入りがあるたびに冷たい風が吹き込み、店員の怒号が飛び交う落ち着かない場所だ。
テーブルを囲むのは、今年の春に入ったばかりの右も左も分からない新入社員たちだけ。
かつて営業部のエースとして、上座でチヤホヤされていた俺の姿は見る影もない。
(なんで俺が、こんなガキどもの世話をしなきゃならないんだ……)
ぬるくなったビールをグラスに注ぎながら、俺は苛立ちを隠せずにいた。
視線を向ける先……部屋の奥にある一番良い席、上座の中心には紬がいた。
「ねえねえ佐伯さん!実際どうなの?社長との新婚生活!」
「私もずっと聞きたいと思ってた~!」
華やかな女性社員たちに囲まれ、紬はまるで主役のように輝いている。
俺の席からは柱が邪魔でよく見えないが、楽しそうな笑い声だけが耳障りなほど響いてきた。
紬は少し困ったように、でも頬を朱に染めて答えていた。
「ううん……家ではすごく優しいよ。私の作った料理もおいしいって食べてくれるし……ご飯作ったら片付けは絶対やってくれて、本当に気を張らないで一緒にいれるかも」
「えーっ!あの社長が!?」
「意外すぎる……!」
「きゃー!きっと佐伯さんのことが好きなんだねぇ」
黄色い歓声が上がり、場がドッと盛り上がる。
(うるせぇな)
「やっぱり会社の顔とプライベートの顔は違うんだねぇ」
「うん、ちょっと違うかも」
紬が照れ臭そうに頬を染める光景を、俺は薄暗い隅の席から睨みつけていた。
グラスを持つ手が震え、中のビールが波打つ。
(クソ、なに幸せそうな顔してんだよ!)
ムカつく。腹の底から湧き上がるイライラ。
貧乏ゆすりと酒を飲む手が止まらない。
あの笑顔も、照れた顔も。 本当は俺のものだった。
本来なら紬は俺の話をしながら、嬉しそうに笑っているはずだったのに……。
後から来てさらっていきやがった……!
だいたいなんで紬なんだよ!
手を出すなら他の女だったいただろうが!
イライラする……。
俺はこんな吹きっさらしの席で惨めな思いをしているのに、紬は嬉しそうに酒を飲んでいる。
仕事もプライベートも充実している紬。
それに引き換え、今の俺はどうだ?ゴミ溜めのような部屋に一人で帰り、会社では無能扱い。
この差はなんだ?全部、あいつが悪い。
あいつが俺を捨てて、社長に取り入ったからだ。
「……ふざけんな」
プツン、と頭の中で何かが切れる音がした。
俺は勢いよく立ち上がり、グラスをテーブルに叩きつけた。
──ガンッ!!
「……っ!?」
「え、日下部さん……?」
突然の音に、同席していた新入社員が怯えたように俺を見る。
だが、もうどうでもよかった。
俺はふらつく足取りで、店の中央、光の当たる紬の席へと歩み寄った。
「おい、いい加減にしろよお前ら!」
「た、卓也……?」
「騙されてんじゃねえよ!こいつはな、ただの性悪女だぞ!」
俺は大声で喚き散らした。
静まり返る店内。
全員の視線が俺に集まる。
そうだ、俺を見ろ。俺の話を聞け。
「本当は俺と付き合ってたんだ!そのくせ浮気なんかして社長に乗り換えやがって……」
紬がにらみつけるように俺を見る。
そんな顔するくらいなら、俺の仕事を受け持っておけばよかっただろう?
「仕事ができる?笑わせんな!あいつは社長に色目を使って仕事をもらってるだけだ!」
「なっ……」
「俺という彼氏がいながら、裏で社長と寝てたんだぞ!枕営業で今の地位を手に入れた汚い女なんだよ!」
言ってやった。
これでいい。
これで今の紬は立場を失うだろう。
居場所さえなくなれば、後は俺が手を伸ばすだけ。
可愛そうな女を拾ってやった勇者だ。
「……訂正して」
その瞬間、震える声が聞こえた。
ふと紬を見ると、紬が座席から立ち上がり、真っ直ぐに俺を睨みつけていた。
その瞳には強い怒りが宿っている。
「は?」
「訂正してと言ったの。今の発言は……私への侮辱だけじゃない」
紬が一歩踏み出す。
「私の仕事への誇りと社長への侮辱です!!」
その迫力に、俺の方が思わずたじろいだ。
「私が今の評価を得ているのは、誰かに媚びたからじゃない。私が積み上げてきた実績です」
「な、なにを偉そうに……!」
「自分の思い通りにならないからって、ウソで相手を貶めるなんて……最低」
「……っ!」
周りの社員たちが、冷ややかな目で俺を見ているのがわかる。
「だいたい仕事に関しては佐伯さんが頑張ってたのは、誰か見ても分かるのにね」
「ただの嫉妬じゃん……」
ヒソヒソ声が聞こえる。
「だ、黙れ……!お前なんか……!」
言い返せず、俺がさらに声を荒らげようとした時だった。
「騒がしいな。なにごとだ」
空気を凍らせるような、低く威圧的な声が響いた。
入り口に立っていたのは、仕事終わりで遅れて参加したらしい久我山社長だった。
「しゃ、社長……」
ウソだろう……社長は今日参加しないって聞いてたのに。
スーツ姿の彼が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その目は、冷たく俺を射抜いていた。
「日下部。今、なんと言った?」
久我山社長の放つ圧倒的なオーラに、俺は後ずさりすることしかできない。
酔いなど一瞬で覚めていた。
「い、いや……その……俺は紬を社長に取られたから」
「取られた?よく言うな」
久我山社長がそういった瞬間、紬が呆れた顔でいい放った。
「本当……呆れます。私が仕事でいない間に、理子さんを家に連れ込んで……浮気してたくせに!」
「っ……!?」
その言葉に、会場が大きくどよめいた。
「え、浮気?」
「日下部さんが?」
「やっぱり怪しいと思ってたんだよ!」
周りの声が、針のように突き刺さる。
「ち、違う!あれは……!あの女が悪かっただけで」
「そうやっていつまでも人のせいにするつもりですか?別れたことも、仕事で成果が出来ないことも全部」
紬の目はもうとっくに冷めていた。
昔俺に笑いかけてくれた「頑張ろう」って励ましてくれた紬はもういないんだ。
俺は言葉を失った。 顔から血の気が引いていくのがわかる。
久我山社長は俺を一瞥もしないまま、紬の隣に並んだ。
そして、社員全員に聞こえるようにはっきりと言い放つ。
「訂正するまでもないが、彼女は彼女の実力でのし上がっている。仕事の成果に私情は関係ない。今日まで努めてくれているみなであれば分かると思う」
その堂々とした宣言に、周囲から安堵の声が漏れた。
クッソ……クッソ、クッソ……。
これじゃあ俺だけ悪者みたいじゃねぇか!!
「最低……」
誰かが呟く。
「自分が浮気してたくせに元カレってだけであんなこと言うなんて、気持ち悪……」
「まだ自分のこと好きだとでも思ったの?」
「ダサすぎ」
「あんな席で飲んでたからって、僻みもいいとこでしょ」
周囲から突き刺さる冷ややかな視線。
軽蔑の言葉。
俺は顔を上げることができなかった。
そして久我山社長は再び俺に視線を向けた。
「根拠のないデマで社員の名誉を傷つけ、あまつさえ公衆の面前で私の妻を愚弄するとはな」
「ひっ……!」
「今日、キミの勤務実態を全て洗い出させてもらった」
久我山社長が懐から折り畳まれた書類を取り出す。
そこには俺の行動記録がびっしりと記されていた。
「え……?」
「直近三ヶ月の営業日報と実際の行動ログだ」
久我山社長が淡々と読み上げ始める。
「A社への訪問予定時刻にキミは駅前のパチンコ店にいたな?GPSデータが一致している」
「なっ、それは……!」
「B社への直行とある日は漫画喫茶に四時間滞在。これが営業活動か?」
言い逃れのできない証拠。背中から嫌な汗が噴き出してくる。
バレていないと思っていた。
外回りなんて適当にサボっていても数字さえ作れば文句はないはずだと。
だが、今の俺にはその数字すらない。
「それだけじゃない」
久我山社長の声がさらに低くなる。
「経費の不正流用。接待費の水増し請求にタクシーチケットの私的利用」
「……っ!」
「少額だからバレないと思っていたか?塵も積もれば山となる。総額でかなりの金額だぞ」
俺はガタガタと震え出した。
ただのサボりなら怒られるだけで済むかもしれない。
でも金の使い込みとなれば話は別だ。
「仕事はしない。会社の金は横領する。その上で同僚への誹謗中傷と暴言」
久我山社長が書類を俺の目の前に放り投げる。
パラパラと散らばる紙切れが、俺の破滅を告げる通知書に見えた。
「我が社にキミを置いておく理由は一つもない」
「ま、待ってください……!出来心で……!返します!金は返すから……!」
俺は無様に床に額を擦り付けた。
プライドもなにもない。ここを退職させられたら困る……!
それに警察沙汰にだけはなりたくなかった。
「懲戒解雇の手続きを進める。横領分についてはきっちりと返済してもらうから覚悟しておけ」
「そ、そんな……」
目の前が真っ暗になった。
職を失い、借金を背負う。
問題行動となるとこの業界ではウワサが広まるのは早い。
転職活動も上手くいかなくなるかもしれない。
俺の人生……ここで終わり?
くすくすと周りからの笑い声が響く。
俺は遠くなる意識を必死で保つことしかできなかった。




