第13話:やきもち
「はぁ……疲れた」
玄関のドアを開けた瞬間、ため息がこぼれ落ちた。
今日は一段とハードな一日だった。業務が忙しかったのもあるけれど、なにより精神的な疲労が酷い。
理子ちゃんの当たりが、なぜか今日はいつも以上に強かった気がするし……すれ違いざまに肩をぶつけられたり、聞こえよがしに舌打ちされたり。
はぁ……もう、私理子ちゃんになにかした?
正味心当たりはない。
仕事だってどれだけ彼女のものを肩代わりしていると思ってるのか。
まぁ……でも気にしても仕方ないか。
会社では社長と結婚していることを伝えてから、声をかけてくれる人が増えた気がする。
「お似合いです」って言ってくれたり、「驚きました」って伝えてくれたり、単純に声をかけてくれるのが嬉しかった。
社長と結婚しているということで、やりにくさが出てくるかもなんて思ったけど、そんなこともないし……。
怖がる必要なかったな……。
家の扉をあけ、中へと入る。
「……今日は早く休もう」
靴を脱ぎ、リビングへと向かう。
今日は帰宅が遅かったため、夜ごはんも会社で適当に済ませてきちゃったし……。
着替え終えてからぐったりとソファーでくつろいでいると、玄関の方からガチャっという音が聞こえてきた。
蓮が帰ってきたみたいだ。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
廊下へ出迎えると、ちょうど彼が革靴を脱いでいるところだった。
いつもなら目が合うと少し表情を緩めてくれる彼が、今日は視線も合わせずに短く答える。
その声のトーンが、いつもより低い気がした。
(……あれ?もしかしてけっこう疲れてる?)
彼はネクタイを緩めながらソファに腰を下ろしたけれど、なんとなく空気が重いような気がする。
「今、お茶淹れるね」
私はそう声をかけてキッチンへ向かった。
ハーブティーを淹れ、彼の前のテーブルに置く。
どうしたんだろう?
確かに会社は今忙しそうではあるけれど……。
「どうぞ」
「……ああ、ありがとう」
彼はカップを手に取ったものの、口をつける様子はなく、なにか考え事をしているようだった。
(もしかしてなにかあったのかな……?)
沈黙が少し気まずくて、私は思い切って声をかけた。
「どうかした?なんだか疲れてそうだけど」
「あー……」
彼はバツが悪そうに視線を逸らし、カップをテーブルに戻した。
そして、少し迷うように口を開いた。
「……今日、社員から聞いたんだが」
「うん?」
彼は組み上げた指を見つめながら、淡々と言った。
「紬が、若い男と親しげに歩いていたらしい」
「え?」
予想外の言葉に私は目をぱちくりさせた。
若い男?誰かいたっけ……?
「疑ってるわけではないんだ。実際別に契約結婚なんだから、相手がいたとしても気にすることもないと思ってる」
そう口では言うけれど、蓮と視線が合わない。
っていうか、本当に誰だ?
記憶をさかのぼっていると、蓮が言った。
「スーツを着た男だったそうだ」
スーツの男……。
「あー、達也くんのことか!」
私はポンと手を打った。
先日、街中で大学時代の後輩である達也くんに偶然会ったのだ。
就職して立派なスーツを着ていたから一瞬誰か分からなかったけれど、懐かしくて少し立ち話をしたんだった。
「大学時代の後輩。ゼミが一緒の子で久しぶりに会ったから立ち話しちゃってね」
「そうか……」
私が説明すると、蓮はそう言ったきり無言になってしまった。
えっ?
なんか変なことあった?
「???」
よく分からないという視線をむけていると、彼は眉間のあたりを指で軽く押さえ、小さく息を吐き出した。
「……いや、まわりくどいのは嫌いだ」
そして彼は観念したように私に向き直ると、逃げることなく真っ直ぐに私の目を見据えた。
「正直に言うと……ちょっとやいた」
「……へ?」
今、この人はなんて言った?
妬いたって言った!?
あの冷静沈着な蓮が?私なんかのことで?
信じられなくて彼を凝視すると、蓮はふいっと視線を逸らし手元のカップに口をつけた。
耳元がほんのりと赤い。
「別に束縛をしたいわけじゃないぞ。そういうつもりで言ったんじゃないんだが……単純になんだ。その……」
しどろもどろになっている蓮を見ていると、なんだかかわいく見えてしまった。
私がなにも言わず固まっていると、彼はカップを置いて少し不機嫌そうに呟いた。
「……こんなこと言うはずじゃなかったんだけどな」
(いやもう……しっかり聞いちゃったって)
いつもはすました顔で言ってるくせに。
本当はそんなふうに思ってくれてたんだ。
「ふふっ」
「……なんだ」
「ううん。蓮でもそんなふうに思うんだなって、ちょっと嬉しくて」
私が正直に伝えると、彼はバツが悪そうに唇を尖らせた。
「……でも大丈夫だよ。今は蓮と結婚してるんだから、そんな不義理はしませんよ~私は一途タイプなのでね」
そう言ってえっへんと胸をたたきながら言った。
「まぁ……紬はそういう器用なタイプじゃないしな」
でも改めて思う。
「契約結婚って不思議だね」
「不思議……?」
「うん。もっとさ冷たい関係だと思ってた。一緒に暮らしてるけど別々に暮らしてるみたいで会話もしないで……でもこんなに話したり笑ったりして……本当に夫婦になったみたい」
私の言葉に、蓮がピタリと動きを止めた。
持っていたマグカップをローテーブルに置く。
そして、大きな溜め息をつきながら片手で顔を覆った。
「お前なぁ……」
その声は呆れたようで、でもどこか甘く響く。
指の間から覗く耳が、ほんのりと赤くなっているのが見えた。
(あ、あれ?私なんか変なこと言った……?)
「紬はたぶん、自覚なく男をたらしこむタイプだな」
「えっ、ちょ……それどういう……」
言った後になって、急に自分の言葉の意味を理解する。
本当に夫婦になったみたい、って……。
それってつまり、心も通じ合ってるって言ったようなもので……!
「……っ!」
やばい、無自覚にすごいこと言っちゃった!?
「そ、そういう意味じゃなくて!その、あくまで雰囲気の話というか!」
慌てて弁解しようと手を振るけれど、蓮は顔を覆ったまま、くくっと喉を鳴らして笑った。
「でも……不思議だよね。だって私たち1年経ってお互いに求めているものが解消されたら、離婚するんだもん」
「ああ、そうだな」
蓮は遠くを見つめながら答えた。
(あと一年か……)
あっという間だな。
一年経ったら蓮とは他人。
こんな風に笑いあったり、お酒を飲んだりする時間もなくなっていくのだろう。
それはなんだか……。
(さみしいな……)
私は膝の上でギュッと拳を握りしめた。
ダメだ。そんな気持ちでいたら。
それはただ蓮に甘えているだけじゃない。
先が分かっている結婚を選択したのだから、その選択に責任を持たないと。
終わりがあるからこそ、今の時間が愛おしい。
でも、終わりがあるからこそ、たまらなく怖い。
「……」
「……」
私たちは視線を合わせられないまま、ただ並んで座っていた。
埋められない距離が、もどかしくて切なかった──。




