第六章 南の部屋
市場の最初の屋根は、広場の半分にも届かなかった。それでも雨の日、濡れずにチーズを選べることを、人々は喜んだ。
ミラが、初めて自分で荷車を連れてきた。ノルドの若い職人は、木皿が売れるたびに、そんなものが欲しいのか、と不思議そうにした。
靴屋のいた角は空いていた。カイルはそこを通るたび、歩幅が少し小さくなった。
カイルは仕事を探して広場を歩いたが、たいがい誰かがもう始めていた。
「次は南だな」
「仕事がなくて寂しいの?」
「違う。……ちょっとは、そうだけど」
ヴィオラは笑い、エレナは遠足だと喜んだ。
「かえりは、いつ?」
エレナが聞いた。
「十日を目安にする。もっとかかりそうなら、そこで一度戻ろう」
今度は、旅袋を持つ前に決めた。
ファーレンは音の多い町だった。金属を叩く音。刃が木を削る音。機織りの規則正しい響き。店先に置かれた品は、どれもカイルの持ち物より上等に見えた。
椅子に座ると腰が楽だった。卓上の灯りは、覆いを動かすだけで手元を明るくした。窓の留め具は、片手で静かに閉まった。
「全部欲しい」
「買えるものを選びなさい」
「ヴィオラも、その枕さっきから離さないじゃん」
「品質を確かめているの」
良い品を作る職人たちは、忙しそうに見えて、そうでもなかった。
「十年前に椅子を買った客が、十年ぶりに来る。壊れねえからな」
家具職人は、誇らしさと困惑の混じった顔で言った。
「外へ売ればいいのでは?」
ヴィオラが聞くと、男は工房の奥を指した。
「前に運ばせた。傷がついた。それで半値だとよ」
別の職人は、商人へ渡したあと、いくらで売られたか知らなかった。さらに別の職人は、客が何に困っていたか聞いたことがなかった。
作る場所と、使われる場所の間に、遠い空白があった。
カイルは、その晩の食卓を見回した。灯りが料理を照らし、椅子が身体を支え、棚に皿が納まっている。
「品物を並べるんじゃなくて、この部屋を持って帰りたいな」
「宿ごと?」
「部屋の使い方ごと、だよ」
ファーレンの職人たちは、翌日の提案を最初は笑った。リーベルの市場に、壁のない部屋を作る。そこで飯を食い、椅子に座り、棚から皿を取る。気に入ったものを注文してもらう。
「椅子に座るだけで帰ったら、どうする」
「次の日、また座ってもらう」
「買わねえぞ」
「そしたら、何が嫌か聞ける」
ヴィオラが続けた。
「値段か、運び方か、大きさか。作り直すべき場所があるのか、それとも説明が足りないだけなのか、分かるでしょう」
職人は黙った。
すぐに全員が賛成したわけではない。一人が椅子を出し、別の一人が棚を出した。灯りの職人は三日考え、壊したら弁償だと念を押した。カイルは請書に名前を書いた。字が曲がったので、ヴィオラに笑われた。運ぶ車には、家具を傷つけない仕切りがついた。四号車だった。
最後に立ち寄った刃物工房で、カイルは包丁を握った。剣とは違う薄い刃。軽いのに、手の中で落ち着く。
「これ、ベルナで使ってもらおうぜ」
「狩り用ならノルドにも合うわね」
試しに数本を送ると、ベルナからは、よく切れるが濡れた手では滑る、と返事が来た。ノルドからは、柄だけが箱いっぱい届いた。厚い手袋用。脂で滑りにくいもの。小さな手用。長く使っても指が痛くなりにくいもの。
刃物職人は一本を握り、親指で木目を撫でた。
「ここ、まだ削れるようにしてある」
「仕上がってないのか?」
「俺に合わせろってことだ」
男は箱を抱え、仕事台へ戻った。
「返事、明日まで待て」
刃物職人は、リーベルへ返す品の箱まで並べ始めた。
リーベルに部屋ができた日は、朝から人だかりがした。ノルドの木皿に、ベルナのチーズ。ファーレンの包丁で切って、リーベルのパンへ載せる。
最初の客は、何も買わなかった。二人目も買わなかった。
夕方、一人目の客が妻を連れて戻ってきた。
「この椅子だよ」
その一言に、家具職人が背筋を伸ばした。
南から戻った三人を、町長が待っていた。エレナを見つけると、彼は屈み、一枚の紙を見せた。
「森を保護する決議が通った」
カイルは、紙より先に町長の顔を見た。
「本当に?」
「全員賛成ではなかった。薪代が上がったらどうする、という声は最後まで残った」
町長は紙の端を持ち直した。
「秋の返済は、市場から入った金と、使わなくなった町の馬小屋を売った金で届く。森を売る申し出は断った。ただ、次の修繕を頼める蓄えまでは残らん」
紙には、伐採を認めない範囲が書かれていた。薪には落ち枝と手入れの木を使うこと。泉の掃除をギルドへ定期的に頼むこと。市場の使用料の一部を、その費用にすること。
範囲の線は、最初の案より広がっていた。エレナが呼んだノルドの老人は、雨の日を選んで森へ来た。泉の縁だけでなく、上の斜面の土も水を蓄えていると、泥のついた杖で示した。薪に回せる枝の量は、町の木こりと一緒に数えた。
誰にも困らない約束にはできなかった。保護の費用を出すため、市場の使用料も少し上がった。ミラは決議の紙を読み、しばらく考えてから、自分の荷の運び賃を一枚書き直した。
カイルは、最後までゆっくり読んだ。エレナが彼の袖を引いた。
「おうち、ある?」
「ああ」
声が少しかすれた。
「あるぞ」
「エレナも、いった」
「ああ。あの爺さんを呼んだのは、君だ」
少女は紙の斜面のところを指でたどった。ヴィオラが横から紙を支えた。カイルの指が、思っていたより震えていた。
広場では、椅子を買った夫婦が受け渡しの日を相談していた。食べ物を売る声と、木を削る音が混じる。森を守ると決めた日も、町はいつもどおり、明日の商売をしていた。




