第三章 一号車の帰り道
泥に強い荷車を作りたい、と持ち込んだ日の夕方には、工房で三人の職人が怒鳴り合っていた。
「車輪を広げれば済む話じゃねえ。曲がれなくなるぞ」
「細いままで沈んだら、曲がる前に止まるだろうが」
「どっちでもいいから、荷台を大きくしてくれ!」
最後の一人は、職人ではなく運び屋だった。カイルは何度も口を開き、そのたびに閉じた。どんな荷が運びにくいかなら話せる。だが、車輪と軸の話になると、何をどう変えればいいのか見当がつかなかった。隣ではヴィオラが話を聞きながら、板切れに何かを書いている。
「俺、必要か?」
「今は黙っていてくれると、とても助かるわ」
正直な答えだった。
だが、日が暮れても設計は決まらなかった。完璧な車輪と、丈夫な軸と、大きな荷台を一台に載せようとするほど、作れなくなる。カイルは、昼に買ってきた釘の袋を机へ置いた。
「これをベルナまで運べれば、一号車は合格にしようぜ」
職人たちが黙った。
「それだけか?」
「最初は。帰りは食い物を少し載せる。泥にはまったら、どこではまったか覚えて帰る。壊れたら、何が壊れたか持って帰る」
「そんな車に乗る奴がいるか」
「俺」
車大工のロウグが、カイルの顔を見た。指の節は太く、爪の間には洗っても落ちない木の粉が残っている。
彼は肩をすくめた。
「失敗したって、俺が歩いて帰れる距離だ。小さく始めようぜ。一号車に全部やらせなくたっていいだろ」
その晩、設計図から荷台が半分消えた。図面を巻く前に、ロウグはもう一枚、紙を置いた。
「試作に使えるのは三日だ。そのあとは注文仕事へ戻る。見習いに払う分まで、夢に突っ込むわけにいかねえ」
工房の奥で、見習いのニルが鉋の刃を研いでいた。話が聞こえているのか、こちらを見なかった。カイルはうなずいた。自分の時間を差し出すのとは、違うのだと思った。
翌日から、カイルは工房と街道を往復した。作業そのものは職人へ任せ、泥の深さを測り、石を運び、ギルドを通して排水溝の掃除人を募った。
泥を運ぶ箱の底が抜けたときには、ニルが仕事の合間に呼び止めてくれた。
「その板、持ってて。釘を増やすだけじゃ、また割れる」
内側へ細い添え木を当て、外から釘を打つ。カイルが手を添えると、ニルは金槌を渡した。
「そこなら、お前の指まで打たない」
「信用ねえな」
「俺も最初にやった」
ニルは爪に白い筋の残る親指を見せた。カイルは笑い、今度は板の端を持ち直した。直った箱を二人で持ち上げると、底はたわまなかった。
「帰ったら、ここへ置いとけよ。明日も使うんだろ」
ニルが作業台の下を足で空けた。それからカイルは、泥を落とした箱を毎夕そこへ戻すようになった。
ただ働きでは人は集まらなかった。町長から出せる金額を聞き、距離を区切り、まずいちばんひどい窪地だけを直すことにした。カイル自身の報酬も、その賃金に加えた。
「それ、あなたの食費も入っているでしょう」
帳面を見たヴィオラが言った。
「少し残してある」
「少し、の意味を話し合う必要がありそうね」
ヴィオラは交渉のうまい人だった。余分な仕事を頼もうとする役場の職員にも、安く買いたたこうとする商人にも、微笑んだまま線を引けた。けれど、その線の内側から自分だけ出ていこうとするカイルには、しばしば本気で腹を立てた。
排水の地図は、二人と一人で作った。エレナには土の中の湿り気が分かった。どこに水が溜まり、どちらへ逃げたがっているか、身体で感じるのだという。ただし、「あっち」と「いっぱい」では職人に伝わらない。そこでヴィオラが目印を決め、カイルが杭を打った。
人影のない夕暮れ、ヴィオラは外套を外し、翼を広げた。少女を伴って空へ上がり、街道を見渡す。カイルは地上で見上げていた。夕陽を受けた藍黒色の翼は、縁だけが細く金色に光っていた。
「上から見ても、あなたの杭は曲がっているわね」
降りてきたヴィオラの第一声に、感想を言う機会は失われた。
一号車ができたのは、その三日後だった。車輪は幅広で、荷台は小さい。新品の木の匂いがした。カイルは荷を積み、見送る職人たちへ手を振った。
最初の窪地は抜けた。二つ目も抜けた。
「どうだ!」
カイルが振り返った途端、三つ目で車輪が斜めに沈んだ。幅広の車輪は泥を抱え込み、荷台が傾いた。釘の袋を守ろうとして、カイルは肩から水たまりへ落ちた。
ヴィオラは笑わなかった。
「怪我は」
「ない。ちょっと心が痛い」
「そちらは自分で治して」
荷を下ろし、車を持ち上げ、板を敷いた。半日かけても、ベルナまでの半分にしか届かなかった。
引き返す途中で雨が降った。エレナは瓶のそばで眠っていた。力を使いすぎたのだ。ヴィオラも口数が減っていた。カイルは、荷車の引き手を握り直した。
「俺がもっと力あればな」
「あなたが二人いても、同じところで沈むわよ」
「ひでえ」
「だから、直せるの」
ヴィオラは濡れた髪を払い、紙を見せた。泥が詰まった場所。曲がった軸の端。坂で荷が前へ寄ったこと。細かな字が並んでいた。
「あなたが弱かった、で終わらせたら、職人に何も渡せないでしょう」
カイルは、しばらくその紙を見た。腰の袋には、荷の数を控える小さな記録帳がある。宿へ戻ったら、濡れた紙の文字をそこへ写そうと思った。どこで転んだか、自分の覚えていることも足して。
町の灯りが見えた頃、エレナが目を覚ました。
「あしたも、みる?」
泥の下を、という意味だった。カイルは頼みかけた。彼女が見れば、次は沈む場所を避けられる。だが、瓶を抱く腕の向こうに街道の石が透けていた。
「明日は休んでくれ」
「でも、くるま、とまる」
「君が寝てると走れない車じゃ、困るだろ」
工房へ戻ると、ロウグは折れた留め具を受け取り、顔をしかめた。叱られると思った。
「なるほど、ここが先か」
男はすぐに灯りを近づけた。だが、次の部品を頼むと、彼は首を振った。
「明日からは荷馬車の修理だ。先に金をもらってる」
「一日だけでも――」
「その一日を待ってる客がいる。お前だけじゃねえ」
カイルは口を閉じた。三日だと言われたのを、もう忘れかけていた。
二号車の作業は五日先になった。壊した留め具と、直しに使う材の代金も残った。カイルは翌朝、ギルドで荷下ろしの仕事を受けた。ベルナで儲けるはずだった日の日銭が、部品代に消えていった。
夕方に工房へ戻ると、作業台の隅だけが空けてあった。カイルは記録帳を開き、壊れた部品と並べた。鍛冶屋も、運び屋も集まった。彼の泥だらけの姿を笑い、次には書きつけと部品を覗き込んだ。
「荷台の傾き、先に直すぞ」
「車輪の泥を落とす隙間もいる」
「次は俺も乗る。こいつの積み方が悪かったかもしれねえ」
「それはあるわね」
ヴィオラが言った。今度はカイルも笑った。
二号車の図面が、一号車の失敗を隠さずに、その上へ重ねられていった。




