第二章 森を買うには
エレナが町で長く過ごすには、泉とのつながりが必要だった。商人を追ってギルドへ現れたときも、泉から離れた彼女の輪郭は薄かった。あのまま外に居続ければ、姿を保てなくなるだろうとヴィオラは言った。
ヴィオラが小瓶を用意すると、少女は水面に手を入れ、一滴の雫を浮かせた。雫は指先ほどの透明な玉になった。瓶へ落とすと、澄んだ音がした。
「これ、もってく」
「遠くへ行くほど疲れると思うわ。つらくなったら、すぐ教えること。無理をしないで」
「ヴィオラも?」
ヴィオラは一拍置いてから、笑った。
「……そうね。私も」
その日の夕方、ギルドの依頼書には解決の印が押された。遭難者たちは家へ帰り、商人は一人で扉をくぐれるようになった。
エレナには、してはいけないことが三つできた。出口を隠さない。人を夜通し追わない。約束していない人を勝手に遊び相手にしない。
「まち、きびしい」
「森でも同じよ」
宿へ戻ると、主人は透ける客をしばらく眺め、それから椅子を一脚足した。
「座れるのか?」
エレナは椅子の上で浮いた。
「すわれる」
「まあ、いいか」
カイルはその主人が好きになった。
夕食を終えると、主人が胡桃の焼き菓子を三つ置いた。ヴィオラは「もう十分いただいたわ」と茶の杯を持ったが、皿が回ってくると、一番きれいに焼けた一つを素早く取った。
「腹いっぱいなんじゃなかったか」
「ええ。食事はね」
「なるほど。菓子は別の勘定か」
琥珀色の瞳が、彼の手元の一つへ動いた。
「食べないなら、その勘定は私が引き受けてもいいわ」
カイルが自分の菓子を半分差し出すと、エレナも真似をして、自分の皿のパンをヴィオラへ寄せた。
「それは、あなたが食べていいのよ」
ヴィオラはパンを戻し、もらった半分の菓子を小さくかじった。
夕食のあと、借りた部屋で彼は言った。
「ヴィオラ。俺、金持ちになろうと思う」
「急な心変わりね。今朝は報酬を見ずに依頼を選んでいたのに」
「森を買う。泉の周りも全部」
窓辺で街の灯りを数えていたエレナが振り向いた。
「かう?」
「君んちが勝手になくならないようにするんだ」
森の縁にあった赤い線は、泉の手前まで続いていた。見なかったことにして町を出れば、秋には何もかも済んでしまうのかもしれない。
少女が現れる前から、木は人に切られていた。少女に名前ができたあとも、それは変わらない。
「町の偉い人になるのでもいい。何をしたら守れるか、明日、聞きに行こうぜ」
ヴィオラは机の上の報酬袋を指で押した。薄い音がする。
「まずは、何を守ろうとしているのか調べましょう。森の持ち主も、町の事情も」
翌朝、役場の記録室で、カイルは初めて二百年前の紙に触れた。荷継ぎ場で束ねていた送り状とは違い、端へ指をかけるだけで崩れそうだった。頁の下へ掌を添え直した。
北の森は、かつて旅人守護林と呼ばれていた。その中の泉で水を汲み、道中の無事を祈ってから旅立つ習わしがあった。
書記官が、別の帳面を開いた。そこには、宿屋で働いていた少女が水汲みに出たまま帰らなかった、と書かれていた。母親は何年も泉へ通った。娘が戻ったときに腹をすかせていないよう、パンを持って。
最後の記録は、母親の葬儀だった。
カイルは、書記官が次の頁をめくるのを手で止めた。エレナは帳面を覗き込んでいた。
「そのこ、エレナ?」
ヴィオラはすぐには答えなかった。
「分からないわ。似ていることは多いけれど」
「おかあさん、いた?」
「その子には、いたのね」
エレナは古い文字を指でたどった。触れているのか、紙を透かしているのか、見分けはつかなかった。
「パン、もってきた」
「ええ」
「すきだったんだね」
ヴィオラはうなずいた。何も言わなかった。エレナも、それ以上は聞かなかった。ただ、その日から宿の主人にパンをもらうと、すぐには食べず、両手の上に載せてしばらく眺めるようになった。
記録室を出る前、エレナがヴィオラの袖を引いた。
「そのこ、かえりたかった?」
「……そうかもしれないわね」
少女は自分の瓶を覗いた。
「エレナ、でかけたい。パンのまちも、ほかのとこも」
カイルがうなずくと、彼女は急いで付け加えた。
「でも、おうち、なくなるのは、いや」
閉じこもっていたいわけではなかった。出ていったあとも、帰る場所があってほしいのだった。
町長が記録室に来たのは、昼前だった。仕立てのいい上着を着ていたが、袖口は擦り切れていた。話を聞き終えると、彼はため息をつき、別の帳簿をカイルの前へ置いた。
「森を保護するだけなら、紙に書けばいい。だが、薪が足りなくなった家へ、私は何と言えばいい?」
帳簿には橋の補修費と、徴収できなかった税と、冬に備える穀物の量が並んでいた。
「北の森は町有地だ。秋の市のあとに、橋の修理で借りた金の返済が来る。金貸しも、もう一年は待てんと言う。森を売れば返せる」
「切ったら、泉はどうなる?」
「分からん。だから私も、まだ印を押していない」
「秋まで待ってくれるのか」
「待つだけならな。森を守ると言って、冬に人を凍えさせるわけにはいかん。薪と返済、その両方の当てが必要だ」
カイルは反論しかけた。しかし、机の隅に置かれた町長の昼食を見た。硬そうなパンが一つ。宿で自分が食べたものより、小さかった。責める言葉が、喉から出てこなくなった。
「じゃあ、町を元気にしよう」
町長は顔を上げた。
「森を売らなくてもいいくらいに。みんな、困ってるんだろ。エレナだけ助けようとしても、うまくいかねえんだな」
ヴィオラはカイルを見たあと、机の脇に立ててあった地図を引き寄せた。
中央にリーベル。その周りに四本の街道。東は穀物と畜産のベルナ。北は森と木工のノルド。南は職人の町ファーレン。そして西には、王都へ通じる大きな商業都市があった。
「こんないい場所なのに」
カイルのつぶやきに、町長が苦く笑った。
「地図の上ではな」
東の道は泥に沈み、西の橋は傷み、北には失踪の噂があった。南の職人は、わざわざ小さな市場へ来る理由がない。
エレナが北の道を指した。
「ここ、もう、かくさない」
町長は少女を見て、初めて少し笑った。
「それは助かる」
「ひとも、きていい」
エレナは今度、泉に指を置いた。
「おみず、のんで。かえっていい。また、きてもいい」
町長は地図のそばに置いてあった赤い鉛筆を取った。しばらく考え、それを戻して、黒い鉛筆で泉までの道をなぞった。
カイルは東へ指を動かした。
「俺たちは、まずここを何とかしよう」
外では、空の荷車が広場を横切っていた。車輪が石の割れ目にはまり、御者が一人で押している。カイルは窓からそれを見下ろした。話の途中だったが、椅子を立った。
「ちょっと待っててくれ」
ヴィオラは止めず、窓辺へ寄った。青年が駆けつける。荷車が動く。御者が手を上げる。
「……ああいう男なのか」
町長が言った。
「ええ」
ヴィオラは窓枠へ指を置いた。
「困ったことにね」




