第一章 いちばん困っている人
森を切る仕事には、森で消えた六人を捜す仕事より、高い報酬がついていた。
二十歳のカイルは、ギルドの掲示板へ身を寄せ、並んだ二枚の紙を見比べた。額に落ちた栗色の短いくせ毛を払う手には、荷紐の擦り傷と、昨日、迷い猫に引っかかれた新しい傷がある。日に焼けた頬をこすり、擦り切れた上着の袖をまくった。
ギルドで仕事を請け始めて、まだ日が浅い。動きやすい旅装は身体になじんでいても、自分の稼ぎで買った中古の片手剣は、腰で揺れるたびに気になった。護身の型はいくつか習ったが、剣を握るより荷紐を結ぶほうが、ずっと気は楽だった。
一枚には、北門外の森林の伐採と搬出。小さな字で、秋の市のあとに売却が決まれば着手、とある。もう一枚には、北街道。旅人六名、行方知れず。
「先に人を見つけねえと、木だって切れないだろ」
「そう言うと思ったわ」
隣でヴィオラが、深い葡萄色の長い髪を肩の後ろへ払った。端正な横顔に、琥珀色の瞳。口元だけに笑みを浮かべ、依頼書を眺めている。カイルの旅の相棒であり、厚い外套の下に藍黒色の翼と、同じ色の細い尾を隠したサキュバスだった。
人が横を通ると、彼女は外套の裾を押さえた。カイルは半歩ずれ、通りがかりの肘が当たらないだけの隙間をあけた。琥珀色の瞳がちらりと彼を見て、掲示板へ戻る。
「六人ね。昨日は猫一匹で手こずった人が、今日は六人まとめて助けるつもり?」
「助けようとしただけなんだ。なのに、猫にはどうも嫌われる」
「昨日の子も、あなたが追うのをやめたら帰ったものね」
カイルは傷のある手を引っ込めた。
「……帰りたくても帰れない人なら、放っとけねえだろ」
「ええ」
ヴィオラはもう、彼の手を見ていなかった。報酬の欄を通り越し、その下の小さな注意書きを指でたどっている。
「生きて戻った人がいるそうよ。何があったか、聞けるわね」
カイルは捜索の紙へ手を戻した。地方の小さな荷継ぎ場で荷運びや雑務をしていた頃、荷が一つ遅れるだけで困り果てる人を、何人も見てきた。知らない土地でも役に立つ仕事をしてみたくて旅に出たが、報酬の数字だけを見て選ぶ気にはなれなかった。
「一番困ってる人を助けに来たんだ。俺はこっちにする。付き合ってくれるか」
「もちろん。そのために、まず話を聞きましょう」
ヴィオラは先に帳場へ向かった。カイルは依頼書を外し、彼女の隣へ並んだ。
以前、街道沿いの交易宿で、カイルの荷運び代を巡って話がこじれたことがある。代筆や帳簿整理で交易路を渡り歩いていたヴィオラが契約の行き違いをほどき、カイルが積み替えの現場を説明した――一緒に旅するようになったのは、そのあとだった。
宿場町リーベルに着いて、三日目の朝だった。四つの街道が交わる町だと聞いていた。だが宿の食堂には二人のほかに客がなく、広場の空いた露店には洗濯物が干されている。窓の外を、空の荷車が一台通った。
カイルが依頼を告げると、受付の女性は紙の角を押さえた。反り返った端には、古い画鋲の穴がいくつも開いていた。女性は二人を見てから、奥の部屋へ目を向けた。
「生還した商人が一人います。奥で休んでいるけれど、まだ一人では外へ出られません」
「怪我は?」
「それが、ないの。ほかの六人も襲われたところは見ていない。ただ、森から出ようとすると、必ず同じ場所へ戻ってしまったそうです」
案内された部屋で、商人は椅子の背を両手でつかんでいた。
「笑う声がするんだ」
カイルが名乗る前に、男は言った。
「若い娘の声だ。後ろから聞こえる。振り向くといない。走ると、また笑う。寝ようとすると、耳のそばで――」
男の唇が止まった。カイルの背後へ、目が向く。
「みつけた」
ヴィオラの指先に、淡い藍色の光が灯った。カイルも剣の柄へ手をかけた。しかし、抜く前にヴィオラがその手首を押さえた。
「待って。敵意がない」
空気の中へ水を一滴落としたように、景色が丸く揺れた。
そこに少女がいた。淡い髪が頬にかかり、裸足のつま先が床の少し上に浮いている。透けた身体の向こうに、椅子の脚が見えた。少女はカイルを見上げ、ヴィオラを見上げた。
「きれい」
「あら。見る目はあるのね」
「ヴィオラ、今そこじゃないだろ」
「分かっているわ」
商人が椅子から跳び上がった。
「こいつだ! こいつが三日も俺を追い回した!」
少女は嬉しそうにうなずいた。
「はやかった」
「褒めてねえ!」
カイルはしゃがんだ。視線の高さを合わせると、少女も少し下へ降りてきた。
「ほかの六人は、どこだ?」
「おうち。まだ、あそんでる」
「帰りたいって言ってなかったか?」
少女は首をかしげる。
「かえったら、おしまい」
その言い方だけ、ひどく小さかった。ヴィオラの手から光が消えた。
森へ向かう支度には、剣より多くの食料が必要だった。ギルドから借りた毛布をカイルが担ぎ、受付の女性は迎えの荷車を手配した。
少女について北の森へ入ると、道が曲がるたびに景色の継ぎ目がほどけた。さっきまで木立だった場所が、白い花の咲く草地へ変わる。その真ん中に泉があった。
六人は、そのほとりで座り込んでいた。一人は裸足で、破れた靴下を脇へ置いていた。踵の皮が剥けている。
「食い物だ!」
一人が叫んだ。救助隊でも、冒険者でもなかった。カイルは荷を下ろした。
「よし、かくれんぼは終わりだ。あんたらの負け。この子の勝ち」
「百回以上負けてるぞ、こっちは!」
「だったら、もう十分だろ」
少女は胸を張りかけ、ヴィオラの顔を見てやめた。
「人間は、遊び続けると倒れるの。帰って眠って、ご飯を食べなければならないわ」
「ここ、みず、ある」
「水だけでは足りないのよ」
少女は六人の顔を順に見た。疲れていることに、初めて気づいたようだった。
「……ごめん」
髭面の男が、渡されたパンをちぎった。
「まず、帰り道を出してくれ。話はそれからだ」
少女は、木立のほうを見た。
カイルは急かさず、毛布を開いた。裸足の男の肩へかける。男は少女に背を向けたままだった。
「みんな、かえる?」
「帰る。待ってる人がいる」
「また、くる?」
「それは、みんなが決めることだ」
少女の指が、胸の前で固く重なった。やがて、その手がほどけた。泉を囲んでいた木々の間に、踏み固められた道が見えた。遠くから、迎えの荷車を呼ぶ声がした。
裸足の男は仲間の肩を借り、振り返らずに歩いていった。髭面の男は、残りのパンを懐へしまった。
「次は、帰りたいって言ったら帰せ。こっちが遊べる日なら、付き合うから」
「つぎ?」
顔が上がる。カイルは、その表情を見てしまった。
「そうだな。また来ればいい」
「あなた、今の言葉は覚えておきなさいね」
ヴィオラが小さく言う。
「覚えてるさ」
泉の水面に、三人の姿が映っていた。少女の影だけが薄く、風が吹くたびに、今にも消えてしまいそうに揺れた。
「君、名前は?」
「ない」
少女は平気な顔で答えた。
「ずっと、ここ。なまえ、いらない」
カイルは泉から彼女へ目を戻した。
「これからはいるぜ。俺たちが呼ぶからな」
少女は口を少し開き、それから両手を胸の前で握った。
「つけて」
カイルは、少し照れた。
「エレナ、っていうのはどうだ?」
「えれな」
「いつか娘ができたら、そう呼びたいと思ってた」
ヴィオラが横を向いた。笑われたのかと思ったが、葡萄色の髪に隠れて、顔は見えなかった。
少女は何度も新しい名前を口にした。そのたびに、自分の輪郭を確かめるように、腕や肩を見た。
「エレナ」
「おう」
「よんで」
「エレナ」
少女は、泉じゅうの光を集めたように笑った。
帰り道、エレナは森の縁で立ち止まった。木の幹に赤い線が引かれていた。根元には杭があり、伐り出す範囲を記した札が結んである。ギルドで見た募集の紙と、同じ商人の印だった。
「これ、なに?」
カイルは札を読み、泉へ続く斜面を見た。少女の影が水面で揺れていたことを思い出した。
「木を切る目印だ。秋から、この辺を」
「おうちも?」
知らないことを、絶対に大丈夫とは言えなかった。
ヴィオラが札の紐を確かめた。
「まだ売却の予定よ。決まったわけではない」
「じゃあ、明日聞こう。どうしたら止められるか」
カイルは言ってから、手の中の報酬引換書を見た。森の値段など、聞いたこともない。
エレナは杭を抜こうとはしなかった。赤い線のついた木に掌を当て、泉へ戻った。
「ここで、またねって、いっていい?」
カイルはその背中に答えた。
「言おう。来年も、ここで」
森を切るほうが儲かる町で、それをどう約束すればいいのか。剣の柄を握っても、答えは浮かばなかった。




