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婚約破棄されたはずの令嬢ですが、執事も王子も恋敵もなぜか商法で溺愛してきます  作者: Altis


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9/10

第8話 商人の沈黙は、優雅ではありません(諾否通知義務)

【更新予定について】


いつもお読みいただきありがとうございます。


『婚約破棄されたはずの令嬢ですが、執事も王子も恋敵もなぜか商法で溺愛してきます』は、

今後しばらく、月曜・金曜の週2回更新を基本にする予定です。


もう一作の『BAN俺』の投稿は継続しますが、

すでに本文が完成しているあちらと違い、

本作は本文、条文確認、帳簿メモ、挿絵、告知を並行しているため、

品質維持のため更新間隔を少し調整します。


お嬢様は

「もう少し優雅な理由にして」

とおっしゃっていますが、


実務上、作者の処理能力です。


引き続きよろしくお願いいたします。

 



 返事を書く。


 それは、貴族令嬢にとって、さほど珍しい行為ではない。


 夜会の招待状。

 茶会への礼状。

 贈り物への感謝。

 季節の挨拶。

 婚約者からの手紙。


 もっとも、最後の一つについては、現在、考えたくない。


 ともかく、返事には品位が必要だ。

 すぐに飛びつくのは、はしたない。

 遅すぎるのは、失礼。

 言葉を選び、間を置き、こちらの立場を整えてから、美しい便箋に整った筆跡で書く。


 そういうものだと、私は思っていた。


 昨日、ロッテは言った。


 商人は、返事をしない自由がいつでもあるわけではない、と。

 その意味を、私はまだ、少し甘く見ていた。


 まず処理されたのは、クライン商会への返答だった。


 正式な承認記録のない香料百二十箱の注文については、現在、名義および経路を確認中であること。

 納入については、確認が終わるまで停止または保留してほしいこと。

 支払名義については、現時点では確定回答できないこと。

 ノアが文面を整え、ロッテが帳簿と照合し、私は最後に署名した。


 美しい便箋ではない。

 香りもない。

 余韻もない。


 けれど、それは確かに、アルマーシュ商会としての返事だった。



 クライン商会への返答。

 香料百二十箱の注文経路調査。

 北倉庫への確認指示。

 正式な承認記録のない注文についての照会書。


 それだけでも、十分に胃が痛い。

 だけど、机の上が空になるわけではなかった。


「お嬢様。これは、優雅な沈黙で処理できる類のものではございません」


 ロッテが、私の前に申込書を置いた。


 優雅な沈黙。


 今、明らかに嫌な言い方をされた。


「……私はまだ何も言っていないわ」


「何も言っていないことが、問題になる場合があります」


「返事をしていないだけで?」


「はい」


 ロッテはためらいなくうなずいた。


「返事をしていないだけで、です」


 私は、机の上を見た。

 これが帳簿係の愛なのだろうか。

 だとしたら、一番逃げられない愛である。


「こちらは、フィルベール織物商からの申込みです」


「織物商……自分の名で、継続して商いをしている方ね」


「はい。商人です」


 ロッテは、少しだけ満足げにうなずいた。


「お嬢様、分類が定着してきましたね」


 褒められた気がする。

 ほんの少し嬉しい。

 だが、すぐに不穏な続きを出された。


「フィルベール織物商は、アルマーシュ商会と平常取引があります」


「平常取引?」


「いつも取引している相手、という理解でひとまず構いません」


「それなら、なおさら少しくらい待ってくれるのではなくて?」


「通常の社交なら、そうかもしれません」


 ロッテは申込書の端を指で押さえた。


「ですが、商いでは、いつもの相手だからこそ、放置できないことがあります」


 私は眉をひそめた。


「いつもの相手なのに?」


「はい。いつもの相手だからです」


 ノアが、静かに紅茶を差し替えた。


 香りのよい紅茶だった。


 いつもなら、心がほどける。


 しかし今は、紅茶の湯気まで期限を告げているように見えた。


「お嬢様」


 ノアが穏やかに言う。


「フィルベール織物商からの申込みは、例年の冬季用裏地の追加納入です。アルマーシュ家では、毎年この時期に取引がございます」


「毎年?」


「はい」


「でも、今年は信用不安で支出を見直すのではなかったかしら」


「そのとおりでございます」


「なら、断ればいいわ」


「断るなら、断る返事を出す必要がございます」


 私は口を閉じた。

 断るなら、断る返事を出す。

 当たり前のようで、妙に圧がある。


「……保留は?」


「保留も、保留である旨を伝えるべきです」


「無視は?」


 ロッテが私を見た。


 とても静かな目だった。


「お嬢様。帳簿は、無視を戦略とは評価しません」


「……でしょうね」


 分かっていた。

 聞いただけだ。

 ほんの少し、逃げ道を探しただけだ。


 ロッテは紙に短く書いた。




 ――諾否通知義務。


 ――承諾の擬制。




「また、硬い言葉が来たわね」


「本日は、返事の話です」


「返事なのに、なぜこんなに硬いの」


「返事をしないと、もっと硬いことになります」


 私は少しだけ背筋を伸ばした。


 ロッテの「もっと硬いこと」は、大抵ろくでもない。


「説明して」


「はい」


 ロッテは申込書をこちらに向けた。


「商人が、平常取引をする者から、その営業の部類に属する契約の申込みを受けた場合、遅滞なく、その申込みに対する諾否の通知を発しなければなりません」


「諾否」


「承諾するか、拒絶するかです」


「つまり、受けるか断るかを返事する」


「はい」


 そこまでは分かる。むしろ、普通の話に聞こえる。


「問題は、その次です」


「次?」


「その通知を怠ったときは、承諾したものとみなされます」


 私は、しばらくロッテを見つめて、それから申込書を見た。


 もう一度ロッテを見る。


「返事をしていないのに?」


「はい」


「返事をしたことになるの?」


「さようです」


「それは、いくらなんでも乱暴ではなくて?」


「商いは、待っている間にも動きます」


 ロッテは落ち着いて言った。


「相手方は、返事が来る前提で在庫を押さえたり、職人を手配したり、運送の段取りを組んだりします。いつもの取引で、いつもの品で、営業の範囲内であれば、返事をしないことは相手を宙ぶらりんにします」


「だから、沈黙で逃げるなと」


「はい」


 ロッテはうなずいた。


「商人の返事には、期限があります」


 私は天井を見上げた。

 貴族令嬢の沈黙は、意味を持つ。


 怒っていることを示す。

 拒絶を示す。

 相手に考えさせる。

 場の空気を支配する。

 けれど商人の沈黙は、別の意味を持つらしい。


 期限。

 承諾。

 損失。

 責任。


 なんて風情がない。


 いや、風情がないからこそ、信用が回るのかもしれない。


「お嬢様」


 ノアが、机の端にもう一枚の紙を置いた。


「フィルベール織物商からの申込みは、三日前に届いております」


「三日前」


「はい」


「なぜ今まで私の前に出さなかったの」


「お嬢様が婚約破棄でお疲れでしたので」


「その配慮、今となっては怖いわ」


「申し訳ございません」


 ノアは深く頭を下げた。

 だが、その謝罪の姿勢が完璧すぎて、逆に困る。

 怒る場面なのに、怒りにくい。


「ノア。あなたは、これを処理するつもりだったの?」


「支配人として、例年どおり承諾することも可能でした」


「可能でした、ということは」


「今回は、止めました」


「なぜ?」


「今年の資金繰りを考えると、例年どおりに受けるべきではないと判断したためです」


 ロッテが無言で資金繰り表を差し出した。


 無言なのに圧がある。


「……三か月で詰む表?」


「今回は、二か月半です」


「悪化しているわ」


「はい」


 はい、ではない。


 はい、ではないのに、反論できない。


「では、断るのね?」


「全量は断るべきです」


 ノアが答えた。


「ただし、冬季向けの最低限の裏地は必要です。全拒絶ではなく、数量変更の申入れが妥当かと」


「つまり」


「承諾ではなく、条件変更の返答を出すべきです」


 私は、申込書を見た。

 そこには、丁寧な文字で数量、単価、納期、支払条件が書かれている。

 これを放置すると、承諾したものとみなされる可能性がある。

 つまり、私は何もしないことで、買うことになるかもしれない。


「何もしないのに、支払いだけ増えるの?」


「はい」


 ロッテが即答した。


「最悪だわ」


「恋敵の手紙よりは、よくある話です」


「慰めになっていないわ」


「現実ですので」


 私はペンを取った。

 けれど、すぐに止まる。


「どう書けばいいの?」


「まず、申込みを受領したこと。次に、例年の取引には感謝していること。ただし、今年度は数量を見直したいこと。具体的な数量変更案を提示すること。最後に、正式な返答を本日中に発すること」


「本日中」


「はい」


 ノアが柔らかく微笑んだ。


「お嬢様なら、美しい文面にできます」


「そう言って逃げ道を塞ぐの、上手ね」


「執事でございますので」


「支配人でもあるでしょう」


「はい。お嬢様をお守りするため、必要な外堀は整えております」


 私は額に手を当てた。


「その肩書き、正式採用しないで」


「非公式でございます」


「非公式の圧が強いのよ」


 ロッテが咳払いをした。


「お嬢様。外堀はさておき、返答です」


「わかったわ……」


 私は紙に向かった。


 美しい断り方なら、学んできた。

 相手の面子をつぶさず、こちらの事情をにじませ、次の関係を残す。

 社交界では、それを上手にできる令嬢が評価される。


 けれど今は、ただ美しいだけでは足りない。


 数量。

 納期。

 支払条件。

 承諾しない部分。

 変更したい部分。


 それを、曖昧にせず書かなければならない。


 私はペン先を紙に置いた。



挿絵(By みてみん)



 フィルベール織物商 御中

 平素よりアルマーシュ商会とのお取引につき、格別のご配慮を賜り……



「長いです」


 ロッテが言った。


「まだ一行目よ」


「本題に入ってください」


「礼儀は?」


「必要です。ただし、数量変更が本題です」


 私は少しだけ唇を尖らせた。


「ロッテ、あなたは情緒をどこに置いてきたの」


「帳簿棚の三段目です」


「あるのね」


「時々使います」


 ノアがくすりと笑った。


 私は少しだけ気が抜けた。


 そして、もう一度書く。




 貴商会からの冬季用裏地追加納入のお申込みにつき、受領いたしました。

 本年度は当商会の取扱数量を見直しており、申込数量全量での承諾はいたしかねます。

 つきましては、別紙記載の数量に変更した上でのお取引を希望いたします。




「……これでどう?」


「よろしいかと」


 ノアがうなずいた。


「曖昧な余地が減りました」


 ロッテも確認する。


「申込数量全量は承諾しない。変更案を出す。返答日も残す。よいです」


「まるで採点ね」


「採点です」


「令嬢の手紙なのに」


「商人の返答です」


 私は小さく息を吐いた。

 令嬢の手紙と、商人の返答。

 同じ紙に見えても、中身は違う。

 夜会での返事なら、余韻を残すこともできる。

 けれど取引の返事で余韻を残すと、相手は困る。

 曖昧な微笑みでは、在庫は動かない。

 沈黙では、倉庫は空かない。

 優雅な間では、支払期限は伸びない。


「……私、今まで返事を軽く見ていたのかもしれないわ」


「軽く、というより」


 ロッテが少し考えた。


「社交の返事と、商いの返事を同じ棚に置いていました」


「棚」


「分類が違います」


「あなた、本当に分類が好きね」


「帳簿係ですので」


 そのとき、扉が控えめに叩かれた。


 ノアが一瞬私を見てから返事をする。


「入室を許可します」


 扉の向こうから顔を出したのは、北倉庫管理人だった。

 以前見たときより、明らかに顔色が悪い。

 手には帽子を握りしめ、肩には埃がついている。


「あの、お嬢様。支配人様。少々よろしいでしょうか」


「何があった?」


 ノアの声が、すぐに実務の声へ変わる。

 北倉庫管理人は、困りきった顔で言った。


「フィルベール織物商の見本反物が、追加で届いております」


 私は目を瞬かせた。


「見本?」


「はい。お申込みに添えて、とのことで」


 ロッテの眉がぴくりと動いた。

 ノアの目も細くなる。


「受け取りましたか」


「門前に置かれかけましたので、ひとまず倉庫で預かっております。ただ、数量が……見本というには少々多く」


「どれくらい?」


 私は聞いた。

 北倉庫管理人は、非常に言いにくそうに答えた。


「反物、二十巻でございます」


「それは見本なの?」


 ロッテが即座に言った。


「見本というより、帳簿上は半分納品です」


 私は椅子から立ち上がりかけた。


「返して」


「お嬢様」


 ロッテとノアの声が、同時に重なった。


 嫌な予感がした。


 ものすごく嫌な予感がした。


「何」


 ロッテが、静かに帳簿を閉じた。


「断った品でも、雑に扱ってよいわけではありません」


 ノアが続ける。


「申込みとともに受け取った物品については、保管の問題が生じます」


 北倉庫管理人が、ほとんど泣きそうな顔で帽子を握る。


「倉庫が、少々、泣いております」


 私は額を押さえた。


 返事をしなかっただけなのに、承諾したことになるかもしれない。

 断ろうとした品なのに、保管しなければならないかもしれない。

 商人の世界では、何もしないことも、受け取ったものも、全部こちらを追いかけてくる。


「……ロッテ」


「はい」


「帳簿は、沈黙を優雅とは評価しないのね」


「はい」


「では、届いた品は?」


「場所を取る現実として評価します」


 私は、今日一番深いため息をついた。


「次は倉庫なのね」


「はい」


 ノアが扉の方へ手を差し伸べた。


「お嬢様。これから実地確認でございます」


「休憩は?」


「反物二十巻が、お待ちです」


「待たなくていいのに」


「もう届いております」


 私は立ち上がった。


 令嬢としてなら、気に入らない贈り物を突き返すこともできる。


 けれど商人としては、届いた品をどう扱うかにも責任があるらしい。


 恋敵の手紙。

 代理。

 沈黙。

 返答。

 そして倉庫。




 婚約破棄された私は、泣く暇もなく、帳簿と反物に追いかけられている。



挿絵(By みてみん)

ロッテの帳簿メモ


本日の項目


商人の諾否通知義務

――優雅な沈黙は、商いでは危険です。



今回は、契約の申込みを受けた商人の返事についてです。


お嬢様は、返事というものを、

夜会の招待状、茶会の礼状、季節の挨拶のように考えておられました。


言葉を選ぶ。

少し間を置く。

相手の面子を立てる。

余韻を残す。


貴族令嬢としては、大切な作法です。


ですが、商人の返事は、それだけでは足りません。


商法509条は、商人が平常取引をする者から、

その営業の部類に属する契約の申込みを受けたときは、

遅滞なく、承諾するのか拒絶するのかを通知しなければならないとしています。


これを、諾否通知義務といいます。


諾否とは、


承諾するか。

拒絶するか。


という意味です。


お嬢様向けに言えば、


「受けます」

「受けません」

「その条件では受けられません」


を、きちんと返事しなければならない、ということです。



なぜ、そのような義務があるのでしょうか。


商いでは、相手も待っている間に動きます。


在庫を押さえる。

職人を手配する。

倉庫を空ける。

運送の段取りを組む。

代金回収の予定を立てる。


いつもの取引先から、いつもの営業に関する申込みが来た場合、

返事がないまま放置されると、相手方は困ります。


そのため、商法は、


商人はいつでも黙っていてよいわけではない


という扱いをしています。



そして、ここが怖いところです。


商法509条2項は、

商人が諾否の通知を発することを怠ったときは、

その契約の申込みを承諾したものとみなす、と定めています。


つまり、場合によっては、


返事をしていないのに、

返事をしたことになる


ということです。


お嬢様は天井を見上げました。


帳簿係としても、気持ちは分かります。



今回のフィルベール織物商について


今回出てきたフィルベール織物商は、

アルマーシュ商会と毎年取引している相手です。


冬季用裏地の追加納入は、

アルマーシュ商会の営業の部類に属する取引です。


ですので、これを放置するのは危険です。


受けるなら、受ける。

断るなら、断る。

数量を変えたいなら、条件変更の返答をする。


何もしない、という処理はおすすめできません。


帳簿上、沈黙は優雅ではありません。


期限として扱われます。



お嬢様は今回、全量での承諾はせず、

数量変更の返答を出すことにしました。


これは、


申込数量全量は承諾しない。

ただし、別紙の数量なら取引を希望する。


という返答です。


社交の手紙なら、余韻を残すこともあります。


ですが、商人の返答では、

余韻を残しすぎると、相手が困ります。


数量。

納期。

支払条件。

承諾しない部分。

変更したい部分。


これらを、できるだけ曖昧にしないことが大切です。



次回に続く問題


最後に、フィルベール織物商から反物二十巻が届きました。


見本としては、少々多すぎます。


ここでは、次に商法510条が問題になります。


商法510条は、

商人がその営業の部類に属する契約の申込みを受けた場合に、

その申込みとともに物品を受け取ったときは、

たとえ申込みを拒絶した場合でも、

原則として、申込者の費用でその物品を保管しなければならないとしています。


つまり、


断ったから、雑に扱ってよい


とはなりません。


お嬢様向けに言えば、


「いらないので返します」

と叫ぶ前に、

まず届いた品をどう保管するかを考える必要があります。


反物二十巻は、感情では消えません。


倉庫を使います。


場所を取ります。


帳簿に載ります。



本日の整理


一 商人は、平常取引先から営業に関する申込みを受けた場合、遅滞なく諾否を通知する必要がある。


二 諾否とは、承諾するか拒絶するかの返事である。


三 通知を怠ると、承諾したものとみなされることがある。


四 社交の沈黙と、商人の沈黙は意味が違う。


五 取引の返答では、数量、納期、支払条件、変更点を曖昧にしないことが大切。


六 申込みとともに物品を受け取った場合、次は保管義務が問題になる。



本日のひとこと


貴族令嬢の沈黙は、余韻になることがあります。


ですが、商人の沈黙は、期限になります。


そして、届いた反物は、場所を取る現実です。

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