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婚約破棄されたはずの令嬢ですが、執事も王子も恋敵もなぜか商法で溺愛してきます  作者: Altis


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第9話 届いた品を突き返したいのに、倉庫が泣いています(物品保管義務)

 



 北倉庫へ至る道のりは、私が思っていたよりも、ずっと長かった。





 屋敷の廊下を抜け、中庭を横切り、使用人用の通路を通って、石畳の続く裏手へ出る。

 アルマーシュ公爵家の屋敷は、社交界へ向けた顔と、商会として働く顔とを、まるで異なる生き物のように併せ持っていた。


 正面玄関から見えるのは、白い柱。

 磨き上げられた階段。

 季節ごとに選ばれた花々。

 訪れる客へ、格式と余裕を示すための顔だ。

 けれど裏手には、幾筋もの荷車の跡があり、木箱が積まれ、帳簿に載る匂いがする。


 布。


 香料。


 木材。


 金具。


 働く者たちの声。


 出入りを繰り返す荷。


 私は、そのほとんどを今まで見ていなかった。


 知っているつもりではいた。


 アルマーシュ家は古い家で、豊かな家で、王家とも縁を結ぶ家なのだと。

 けれど、それは表に見せる顔にすぎなかった。


 この家は、動いている。

 誰かが物を運び。

 誰かが数え。

 誰かが保管し。

 誰かが、返事を待っている。


「お嬢様。足元にお気をつけください」


 少し前を歩いていたノアが、静かに言った。


「ありがとう」


 私はドレスの裾をわずかに持ち上げる。


 夜会で用いる歩き方とは違う。


 少し急ぎ足で。


 少し実務的で。


 そして、ほんの少しだけ令嬢らしくない。


 ロッテは私の隣で、小さな帳簿を胸に抱えている。

 この子は本当に、どこへ行くにも帳簿を持つ。


「ロッテ」


「はい」


「倉庫へ行くのにも、帳簿は必要なの?」


「倉庫こそ必要です」


「そう」


「物は、置いた瞬間から忘れられます。帳簿に載せておかなければ、そこにあることさえ分からなくなります」


 なんと恐ろしいことを、これほど平然と言うのだろう。

 物があるのに、分からなくなる。

 けれど、考えてみれば当然だった。


 大きな家。


 広い倉庫。


 多くの取引先。


 何十、何百と積み上がる木箱や反物。


 その一つ一つを、人の記憶だけで扱えるはずがない。

 つまり、帳簿とは物の記憶なのだ。

 そして私は今まで、その記憶を他人に預けたまま、ほとんど顧みてこなかった。


「こちらでございます」


 北倉庫管理人が、重そうな扉の前で足を止めた。

 背は低く、いかにも実直そうな男だった。

 年齢は父より少し若いくらいだろうか。


 額には汗。


 袖には埃。


 そしてその目には、倉庫を預かる者だけが持つ疲労が宿っていた。


「中へ」


 ノアがうなずく。


 扉が開くと、乾いた布と木材の匂いが流れ出した。

 私は思わず立ち止まった。


 広い。


 屋敷の中に、これほどの空間があるのかと思うほど広かった。


 高い棚。

 積み上げられた木箱。

 紐で束ねられた反物。

 番号札。

 荷受け台。

 記録台。


 よく整えられている。

 だからこそ、その中に紛れ込んだ異物が目立った。


 入口近くに、淡い灰色の反物が二十巻、ひとまとめに置かれている。


 ひと目で上等な品だと分かった。

 まだ触れてもいないのに、光を受けた布の表面はなめらかに揺れている。


 高そう。

 そして、邪魔そう。


「これが?」


「はい」


 北倉庫管理人が、深く肩を落とした。


「フィルベール織物商から届いた見本反物です」


「見本で二十巻?」


「はい」


「見本とは」


「私も、少々疑問に思っております」


 管理人は、疲れ切った声で答えた。

 ロッテがすぐさま反物の札を確かめる。


「品目、冬季用裏地。等級、上。数量、二十巻。添付文書あり」


「添付文書?」


 ノアが手を差し出した。

 管理人が封筒を渡す。

 ノアは封を確認し、こちらへ向けた。


「お嬢様、開封しても?」


「ええ」


 封筒を見るだけで胃が痛くなるようになったのは、どうかと思う。

 ノアが封を切り、文面を読み上げた。




 先日お申込みいただきました冬季用裏地につき、色味および手触りをご確認いただくため、見本として一部を先行送付いたします。

 ご不要の場合はご返送ください。

 なお、正式納入までの保管につきましては、貴商会にてご配慮いただけますと幸いです。




 私は、しばらく黙って反物を見つめた。


 ご不要の場合はご返送ください。


 なんとも簡単に言ってくれる。


「では、返しましょう」


 私は言った。


「不要です。見本にしては多いですし、こちらはまだ承諾していません。返せば終わりでしょう」


 自分でも、かなり筋の通った判断だと思った。

 だが、ノアとロッテが同時にこちらを見た。

 北倉庫管理人まで、帽子をぎゅっと握りしめる。


 嫌な沈黙だった。


 どうやら私は、また何かを踏んだらしい。


「……何?」


 ロッテが一歩前へ出る。


「お嬢様。返すこと自体は選択肢です」


「なら」


「ただし、届いた品を雑に扱うことはできません」


「雑には扱わないわ。返すだけよ」


「返すまでの間は、ここにあります」


 ロッテは反物を指した。


「その間、誰が、どの程度の注意をもって、どの費用で、どのように保管するのかが問題になります」


 私は口を閉じた。


 反物二十巻。


 いま、ここにある。


 確かに、返すと言ったところで、今すぐ煙のように消えるわけではない。


 運送人を手配し。

 送り状を整え。

 状態を確認し。

 費用を誰が負担するか決めるまで、ここにある。


 そして、ここにある以上、傷つく可能性がある。


 湿気を吸うかもしれない。

 虫がつくかもしれない。

 ほかの荷と紛れるかもしれない。

 誰かが誤って使うかもしれない。

 私は反物を見下ろした。


 先ほどまでただ邪魔そうだった二十巻が、急に小さな爆弾の群れに見えてくる。


「断ったのに、預かるの?」


「はい」


 ロッテは、容赦なくうなずいた。


「断ったことと、雑に扱ってよいことは別です」


「でも、向こうが勝手に送ってきたのよ?」


「それでも、商人がその営業の部類に属する申込みを受け、その申込みとともに物品を受領した場合には、保管の問題が生じます」


「……営業の部類」


「アルマーシュ商会は衣料、香料、保存加工品を扱っています。冬季用裏地は取引の範囲内です」


「つまり、まったく関係のない品ではない」


「はい」


 ノアが静かに補足する。


「申込みを拒絶する場合であっても、受け取った物品があるときは、原則として申込者の費用で保管すべき場面がございます」


「申込者の費用」


「はい。費用負担まで、こちらが当然に背負うわけではございません」


「それは少し救いね」


 ロッテが小さく首を振った。


「費用負担の問題と、実際に場所を取る問題は別です」


 救いが小さかった。


 北倉庫管理人が、恐る恐る口を開く。


「あの、お嬢様。北倉庫は現在、香料木箱の確認もございまして、保管場所に余裕がございません。反物は湿気を嫌いますので、できれば早めに方針を……」


「倉庫が泣いている、というのは」


「はい」


 管理人は深くうなずいた。


「現場が、かなり泣いております」


「倉庫そのものは泣かないでしょう」


「帳簿上も泣いております」


 ロッテが言った。


「あなたまで」


 私は額に手を当てた。


 だが、笑っている場合ではない。


 反物は、すでにここにある。


 そして、こちらはまだ正式に承諾していない。

 むしろ数量変更を申し入れる予定だった。

 ならば、まず行うべきことは決まっている。


「状態確認」


 私は言った。


 ロッテが、わずかに目を開く。


「お嬢様?」


「この反物が、届いた時点で傷んでいなかったかを確認します。数量を数える。札と添付文書を照合する。一時的な保管場所を決める。返送するなら、返送までの状態を記録するわ」


 口にしながら、自分でも少し驚いた。


 言葉が、思ったより自然に出てくる。


 たぶん、昨日からロッテに何度も言われ続けたせいだ。


 開ける。

 見る。

 数える。

 残す。


 まだ商人として立派とは言えない。


 けれど、少なくとも反物二十巻を見なかったことにはできない。


 ロッテが、ほんの少しだけ笑った。


「はい。大変よろしいかと」


「褒めた?」


「褒めました」


「珍しいわね」


 ロッテは小さな補助簿を開き、余白へ青い線を引いた。


 私は目を細める。


「……ロッテ」


「はい」


「以前から思っていたのだけれど、私に関する記録のとき、色を変えているわね?」


 ロッテの手が、ぴたりと止まった。


 ノアが静かにこちらを見る。


 北倉庫管理人は、聞いてよい話なのか判断できずにいる顔をしていた。


「正式帳簿ではございません」


 ロッテは落ち着いて答えた。


「私の補助簿です」


「補助簿」


「お嬢様のご判断を、後から振り返るためのものです」


「私、帳簿に載っているの?」


「正式帳簿には載せておりません」


「正式ではない帳簿には?」


「項目としては、ございます」


「項目」


 不穏な響きだった。


「色の意味を聞いても?」


「はい」


 ロッテは補助簿の端を指で押さえる。


「黒字は通常処理です。特に問題がない場合です」


「それは分かるわ」


「朱書きは至急対応です。今すぐ動けば、赤字になる前に止められるものです」


「赤字は?」


「損失予備軍です」


「損失予備軍」


「お嬢様が放置、誤読、または優雅な沈黙を選ばれた場合に増えます」


「優雅な沈黙を赤字にしないで」


「商人の返事には期限がありますので」


 私は言い返せなかった。


「灰色は未確認です。代理権の有無、名義の経路、誰のための取引かなど、まだ白黒をつけられないものです」


「灰色なら安全?」


「いいえ。放置すると赤字になります」


「あなたの世界、赤字へ向かう坂道が多すぎない?」


「商会再建中ですので」


 ロッテは真顔だった。


「では、青字は?」


 私が尋ねると、ロッテはほんの少し視線を落とした。


「信用回復項目です」


「……信用回復?」


「お嬢様が、商会の信用に資するご判断をされた場合に付けます」


 私は、反物の上に置いた自分の白手袋を見た。


「今のが?」


「はい」


 ロッテは青い線を指した。


「届いた品を感情のまま突き返さず、状態、数量、保管、返送まで確認しようとなさいました。青字です」


「褒めているのね?」


「帳簿上は」


「帳簿上ではなく、普通に褒めなさい」


 ロッテは一瞬、困ったように瞬きをした。

 それから、わずかに姿勢を正す。


「差し出がましいことを申し上げますが」


「許すわ」


「大変、よいご判断でした」


 なぜだろう。

 少しだけ、頬が熱くなった。


「……急にかしこまったわね」


「お嬢様を幼く扱うわけにはまいりませんので」


「そこまで分かっていて、補助簿には項目として載せるのね」


「はい。必要ですので」


「必要なのね」


「はい」


 ノアが小さく笑った。

 私は少しだけ視線をそらす。


「ちなみに、今日の収支は?」


「申し上げますか?」


「……やっぱりいいわ」


「賢明です」


「赤字が多いのね」


「累積では」


「累積で言わないで」


 ロッテは補助簿を閉じた。


「ですが、青字は増えました」


 その一言で、私は少しだけ背筋を伸ばした。

 反物二十巻は相変わらず重く、場所を取り、面倒な現実としてそこにある。

 けれど、見れば青字になるらしい。

 ならば、少しくらいは見る価値がある。


 白手袋が用意され、私は反物の端へ触れた。


 なめらかだった。


 冷たい。


 柔らかい。


 けれど、ところどころに折り皺がある。


「ここ」


 私は指先で示した。


「皺があるわ」


挿絵(By みてみん)


 北倉庫管理人が、すぐに札へ書き込む。


「輸送時の圧迫と思われます」


「使えないほど?」


「いえ。広げて確認する必要がございます」


 ロッテが帳簿へ書き込む。


「反物一番。外装、軽微な圧迫痕。開封確認未了」


「細かいわね」


「後で揉めないためです」


「揉める前提なの?」


「揉めないようにするためです」


 なるほど。

 記録とは、疑うためだけのものではない。

 後から、事実を都合よく歪めないためのものでもある。


 私は二巻目、三巻目と確かめていく。


 途中で一つだけ、外装の紐が緩んでいるものがあった。


「これは?」


 管理人が顔を曇らせる。


「到着時からです」


「帳簿には?」


「受領時の仮控えにございます」


 ロッテが確認する。


「あります。到着時、外装紐緩み。中身未確認」


「よかった」


 私がそう言うと、管理人がわずかに肩の力を抜いた。


「ありがとうございます」


「なぜ、お礼を言うの?」


「控えを見ていただけましたので」


 その言葉に、私は少し黙った。


 控えを見てもらえる。


 それだけで、この人は安心するのか。


 きっと今まで、現場の控えは机へ上がっても、私の目までは届いていなかった。


 帳簿も。

 倉庫も。

 使用人たちも。


 すべてこの家の中にあったのに。


 私は、その大半を背景のように見ていた。


「……これからは見るわ」


 気づけば、そう口にしていた。


 管理人が目を丸くする。


 ノアが静かに私を見る。


 ロッテが、補助簿を開いた。


「今のも青字?」


「はい」


「少し甘くない?」


「継続観察項目です」


「青字なのに疑われているわ」


「信用は積み上げですので」


 私はため息をついた。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 確認を終える頃には、私は少し疲れていた。


 反物二十巻。


 ただ置かれているだけに見えたものが、数量、状態、保管場所、返送方針、費用負担、通知文面へと分かれていく。


 物は、ただ物ではない。


 届いた瞬間から、関係になる。


 断るにしても。


 返すにしても。


 そこには、踏むべき手順がある。


 私は倉庫の入口近くに立ち、反物の列を眺めた。


「フィルベール織物商には、どう返事をするべき?」


 ノアが即座に答える。


「申込み全量は承諾しないこと。見本として送付された反物は、当商会にて一時保管すること。保管費用および返送費用については申込者負担であること。返送希望日または引取方法を確認すること」


 ロッテが補足する。


「加えて、反物の到着時の状態を添付します。後から、こちらの保管中に傷んだと言われないためです」


「分かったわ」


 私は少し考える。


「ただ、全部返すのではなく、必要最低限の数量だけ取引する提案は残すのよね?」


「はい」


「なら、見本のうち一部を検討対象として残し、残りを返送する形かしら」


 ノアが、わずかに口元を緩めた。


「適切かと」


「褒めた?」


「はい」


「今日は褒められる日なの?」


「お嬢様が、商人として見るべきものをご覧になっておりますので」


 私は視線をそらした。


 そういう言い方は、少し困る。


 叱られるよりも、困る。


 ロッテが帳簿を閉じた。


「では、お嬢様。返答文を作成いたしましょう」


「また?」


「はい。届いた品は、見て、数えて、控えた後、返事をします」


「商人は返事ばかりね」


「返事をしないと、もっと増えます」


「何が?」


「品と問題が」


 北倉庫管理人が深くうなずいた。


「増えます」


 現場の重みがあった。


 私はもう反論しなかった。


 倉庫を出る前に、もう一度だけ反物を振り返る。


 断った品。

 まだ買っていない品。

 それでも、ここにある以上、無関係ではいられない品。


 商人は、受け取ったものからも逃げられない。


 断ったから終わりではない。

 嫌だから終わりではない。

 知らなかったから終わりではない。

 届いたものには、扱い方がある。

 そして、その扱いを誤れば、信用が傷つく。


 アルマーシュの看板は、正面玄関にだけ掲げられているのではない。


 倉庫の扉にも。

 荷受け台にも。

 受領控えにも。

 返送される反物の包みにも。

 きっと、掲げられている。


「ロッテ」


「はい」


「今日の標語は?」


 ロッテは少し考えた。


 それから、いつもの真顔で言った。


「断った品にも、預かる責任があります」


「……重いわね」


「反物二十巻分です」


 私は笑ってしまった。


 ほんの少しだけ。


 泣くより先に笑えるのなら、それも悪くないのかもしれない。


挿絵(By みてみん)

ロッテの帳簿メモ


【本日の項目】

申込みを受けた者の物品保管義務


今回は、申込みとともに送られてきた物品の扱いです。


商人が、その営業の部類に属する契約の申込みを受け、

その申込みとともに物品を受け取った場合、

たとえ申込みを拒絶したとしても、

原則として、申込者の費用でその物品を保管しなければなりません。


つまり、申込みを断ったからといって、

届いた物品を雑に扱ってよいわけではありません。


返すまで。

引き取られるまで。

処理方針が決まるまで。


手元にある以上、

数量、状態、保管場所、返送方法を確認する必要があります。


ただし、物品の価額が保管費用に足りない場合や、

保管によって商人が損害を受ける場合には、

例外があります。


【お嬢様向け整理】

断った品でも、手元にある間は無関係ではありません。


受け取った物は、

状態、数量、保管場所を控えます。


保管費用は、

原則として申込者の負担になる場面があります。


ただし、

費用負担の問題と、

実際に倉庫を圧迫する問題は別です。


反物二十巻は、請求書より静かです。

ですが、場所を取ります。



【本日のひとこと】

断った品にも、預かる責任があります。


帳簿上、突き返したい気持ちは理解します。


ですが、反物二十巻は場所を取ります。

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