第4話 うちの執事、浮気禁止でした(競業避止義務・精力分散防止義務)
執務室の椅子に座ったまま、私は机の上の新しい紙を見つめていた。
競業避止義務。
精力分散防止義務。
読める。
読めるけれど、読みたくはない。
「ノア」
「はい、お嬢様」
「この二つ、名前からして私に優しくないわ」
「忠誠の話でございますので」
「忠誠という言葉だけなら、もう少し甘く聞こえるのに」
「中身を確認すると、少々硬くなります」
「少々?」
「はい。少々です」
隣でロッテが小さく目を伏せた。
その反応で分かった。
これは少々ではない。
私は紙から目を離し、ノアを見た。
黒髪。
モノクル。
白手袋。
整いすぎた立ち姿。
昨日までなら、完璧な執事だと思っていた。
けれど今は少し違う。
この男は、アルマーシュ商会の支配人でもある。
商会の営業について広く動ける。
相手から見れば、アルマーシュ商会の顔として扱われる。
そして、内側で制限していても、知らない取引相手には通用しないことがある。
つまり、便利で、強くて、少し危ない。
だいぶ危ない。
「お嬢様」
ノアが手袋の指先をそろえた。
「昨日、お嬢様はお尋ねになりました」
「ええ」
「私が、別の商会のためにも働いたらどうなるのか、と」
「聞いたわ」
「大変よい質問でございました」
「あなたがそう言う時は、大抵危ない質問なのよ」
「今回は、少しだけ」
「少し、の信用が落ちているわ」
ノアは否定しなかった。
その横で、ロッテが机の上の紙を指先で押さえる。
「お嬢様。支配人は、商会のために広く動ける人です」
「そこまでは聞いたわ」
「だからこそ、勝手によそへ力を流されると困ります」
「力を流す?」
「はい。たとえば、ノア様が自分で別の商売を始める」
私はノアを見た。
「ノアが?」
「はい」
「何を売るの?」
「お嬢様用の紅茶と焼き菓子でしょうか」
ノアが真顔で答えた。
「それは少し売れそうね」
「ありがとうございます」
「感謝しないで。話がずれるわ」
ロッテは、慣れた様子で続けた。
「あるいは、アルマーシュ商会と同じような取引を、ノア様が自分や誰かのために勝手にすることです」
「同じような取引」
「たとえば、アルマーシュ商会が扱っている香料を、ノア様が別の名義で仕入れて売る、などです」
「それは嫌ね」
思ったより早く答えていたことに、自分でも少し驚いた。
「嫌、でございますか」
ノアが、わずかに目を細めた。
「何よ」
「いえ」
「今、嬉しそうだったわ」
「お嬢様が、アルマーシュ商会の利益に反することを嫌がってくださったので」
「本当にそれだけ?」
「もちろんでございます」
嘘ではないのだろう。
ただ、全部でもない気がする。
ロッテは指を二本立てた。
「お嬢様。危険は二つあります」
「二つ?」
「一つ目は、アルマーシュ商会と同じ部類の取引を、ノア様が自分や誰かのために勝手にすること。これは競業避止義務の問題です」
「競業避止義務」
「はい。もう一つは、自分で営業したり、他所の使用人になったり、他会社の役員になったりして、アルマーシュのために使うべき力を分けてしまうこと。こちらは精力分散防止義務として整理すると分かりやすいです」
「名前がどちらも硬いわ」
「ですので、お嬢様向けには、よそ見禁止で構いません」
「……浮気禁止では?」
私がそう言った瞬間。
ノアの表情が、ほんのわずかに明るくなった。
本当にわずかだった。
それは、見なかったことには、できなかった。
「はい」
「今の顔」
「お嬢様が大変分かりやすい言葉にしてくださいましたので」
「違うわ。理由が別でしょう」
「否定いたします」
「目が否定していないわ」
「モノクルの反射かと」
「便利ね、その片眼鏡」
ロッテが、帳簿に何かを書き付けた。
「ロッテ」
「はい」
「今の、書かなくてよくない?」
「本日の理解メモです」
「浮気禁止って書いたの?」
「いえ。正確には、競業避止義務と精力分散防止義務です」
「情緒がなくなったわ」
「帳簿上は、情緒より流出防止です」
「流出防止」
「はい。商会のために使うべき力を、勝手に他所へ流さないということです」
浮気禁止。
力の流出防止。
同じもののはずなのに、紙に書くと急に冷たい。
忠誠の話だと思ったら、急に水路の管理みたいになった。
分からない、と言い切るほどでもない。
ノアは支配人として、アルマーシュ商会のために広く動ける。
だから、同じ力を別の商会のために使われたら困る。
彼の知識も、人脈も、交渉力も、取引先からの信頼も。
それを、アルマーシュの外で使われる。
想像しただけで、少し嫌だった。
「でも」
私は、少し考えた。
「もしノアが勝手に別の取引をしたら、その取引はどうなるの?」
ノアとロッテが、ほんの少しだけ顔を見合わせた。
また踏んだ。
多分。
「また危ない質問?」
「よい質問です」
「その言い方、危ない時に使うわね」
ロッテは帳簿の端をそろえてから、口を開いた。
「これは、基本的には主家と支配人の内部の問題です」
「内部?」
「はい。ですので、違反したからといって、取引相手との取引が当然になかったことになるわけではありません」
「また外の人」
「はい」
「でも、ノアは?」
「商会に対して責任を負います」
「責任」
「特に、アルマーシュ商会と同じ部類の取引を勝手にして儲けた場合です。その儲けが、商会に生じた損害として扱われやすくなります」
「つまり、勝手によそで儲けたら怒られる?」
「とてもざっくり言えば」
「そして、その儲けはうちの損と見られる」
「はい。同じ部類の取引を勝手にした場合は、そこが大事です」
それは分かる。
分かってしまう。
「浮気相手からもらった贈り物が、全部こちらの損害として見られるようなもの?」
ノアが口元を押さえた。
ロッテは帳簿の角を一度だけ揃えた。
ノアは口元から手を離さない。
「何よ」
「いえ」
「今のは違った?」
ロッテは一度だけ瞬きをした。
「かなり感情的ですが、方向としては遠くありません」
「遠くないのね」
「はい」
ノアは少しだけ視線を外した。
「お嬢様の比喩は、ときどき大変鋭うございます」
「褒めている?」
「もちろんでございます」
「なぜ、そんなに嬉しそうなの」
「お嬢様が私の浮気をお嫌がりくださるので」
「商会の話よ!」
「はい。商会の話でございます」
「本当に?」
「もちろん」
疑わしい。
とても疑わしい。
話としては、少しだけ分かってきた。
支配人は権限が広い。
広いから、他所で同じような商売をされると困る。
別の商会で働かれても困る。
相手との取引は、すぐになかったことにはならない。
でも、支配人本人は責任を負う。
ここまでは、分かった。
納得できたかは、別だった。
「ねえ、ノア」
「はい」
「あなたは、そういうことをしたことがあるの?」
ノアの表情から、冗談めいた色が消えた。
静かに。
音もなく。
「ございません」
即答だった。
「これまでも、これからも?」
「はい」
「私が知らないところで、他の商会に力を貸したことも?」
「ございません」
「別の令嬢に紅茶を淹れたことは?」
言ってから、私は自分で固まった。
口を開いたのは私だけれど、私ではないことにしたかった。
ロッテが目を伏せた。
帳簿の角が、少しだけ震えている。
ノアは、私をまっすぐ見た。
「来客への給仕であれば、ございます」
「そういう意味ではなくて」
「では、どういう意味でしょうか」
「今のは忘れて」
「かしこまりました。帳簿には載せません」
「ロッテと同じことを言わないで!」
ノアは、そこで一拍置いた。
「お嬢様」
「何」
「私は、アルマーシュ家の支配人でございます」
「ええ」
「そして、お嬢様の執事でございます」
「ええ」
「その二つを、別のところへ分けるつもりはございません」
胸の奥が、少し熱くなった。
困る。
商法の紙を前にしているのに、紙ではないところばかり気になる。
ノアのせいだ。
たぶん。
「それは、法律の話?」
「忠誠の話でございます」
「区別して」
「できる限り」
「できる限りなのね」
ロッテが、帳簿を閉じた。
「お嬢様。支配人に求められるのは、単なる気持ちの忠誠ではありません」
「気持ちだけでは駄目なの?」
「はい。実際に、商会の利益とぶつかる行動をしないことです」
「行動」
「他所で勝手に商売しない。同じような取引をしない。他所の使用人にならない。他会社の役員にならない」
「それが、浮気禁止」
「帳簿上は流出防止です」
「その言い方、気に入っているの?」
「はい」
ロッテは、さらりと言った。
「お金も信用も人の働きも、漏れると困ります」
「本当にあなたは、かわいい顔で物騒なことを言うわね」
「ありがとうございます」
「褒めていないわ」
私は机の上の紙を見た。
競業避止義務。
精力分散防止義務。
名前は難しい。
ノアは、アルマーシュの外で勝手に力を使ってはいけない。
アルマーシュのため。
取引先のため。
そこまではいい。
私が彼を信じるため、というところで、少しだけ引っかかった。
「つまり」
私は言った。
「支配人は、広く動ける代わりに、よそ見をしてはいけないのね」
「大変よい理解でございます」
ノアが即座に言った。
「よそ見禁止」
「はい」
「浮気禁止」
「はい」
「二回目の方が嬉しそうなの、なぜ?」
「お嬢様の理解が深まったためです」
「絶対それだけではないわ」
「では、少しだけ」
「認めた!」
ノアは、白手袋の手を胸に当て、優雅に頭を下げた。
ノアは少しだけ黙った。
何かを言いかけて、一度止まった。
「悪くない心地でございます」
「そういうところよ」
私は窓の方を向いた。
顔が熱い。
窓のせいにした。
執務室の窓の外では、朝の光が庭に落ちている。
昨日より、紙の山は少しだけ怖くなくなった。
帳簿はまだ怖い。
支配人は、もっと怖い。
そして、ノアは。
少しだけ、別の意味で怖くなった。
「お嬢様」
ロッテが紙を差し出した。
「本日の要点です」
そこには、整った字でこう書かれていた。
支配人は、主家の許可なく他所へ力を流してはいけない。
勝手な同種取引、他所への勤務、他会社役員などは危険。
取引相手との取引は当然に無効になるわけではない。
ただし、支配人は主家に責任を負う。
私は紙を受け取った。
「分かりやすいわ」
「ありがとうございます」
「でも、一行目の『他所へ力を流す』が少し物騒ね」
「浮気禁止より帳簿向きにしました」
「気を遣った結果なのね」
「はい」
ノアが、半歩だけ近づいた。
「お嬢様」
「何?」
「これで、私がどこにも行けない理由の一つは、ご理解いただけましたか」
どこにも行けない。
言葉だけが、少し遅れて胸に来た。
「商会のために、でしょう?」
「はい」
「アルマーシュ家のために」
「はい」
「私のために?」
言ってから、指先で紙の端を押さえた。
紙は動いていないのに。
ノアは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんでございます」
答えが早い。
早すぎる。
「少しは迷って」
「迷う理由が」
ノアは、ほんの少しだけ考える顔をした。
「ございません」
「そういうところよ」
ロッテが、書簡の束を抱え直した。
「では、次は代理商の確認に移りますか?」
「待って」
私はすぐに手を上げた。
「今日はここまで」
「まだ午前です」
「私の心はもう夕方よ」
「では、帳簿上は午前のまま休憩といたします」
「帳簿上じゃなくて実際に休ませて」
ノアは手袋の皺を直した。
「かしこまりました。では、少し休憩にいたしましょう」
「本当に?」
「はい」
「逃げ道?」
「休憩でございます」
「同じでは?」
「お嬢様が戻ってきてくださるなら」
戻る。
私は、机の上の書簡を見た。
昨日なら、絶対に戻りたくなかった。
今日は、まだ分からない。
怖いものの名前が増えた。
商人。
支配人。
競業避止義務。
精力分散防止義務。
どれも、私の辞書に載せたくない言葉ばかりだ。
それでも、言葉の向こうには誰かとの約束がある。
信じてくれた相手がいる。
私の知らないところで動いていたノアもいる。
そこが、少し嫌だった。
私はまだ、入口にいる。
それなのに、もう逃げ道を探していた。
「戻るわ」
私は小さく言った。
「ちゃんと聞く。逃げないとは、まだ言えないけれど」
「それで十分でございます」
ノアが頭を下げる。
顔は見えない。
なのに、機嫌がいいことだけは分かった。
ノアが他所へ行けないことに、少し安心した。
商法の理解として正しいのか。
ただの私情なのか。
どちらにしても、ノアはいつもより機嫌がよかった。
私はその顔を、見ないふりをした。
ロッテの帳簿メモ
今回のお話は、支配人の競業避止義務と精力分散防止義務です。
支配人は、商会の営業について広く動ける人です。
その分、主家の許可なく、他所へ力を流してはいけません。
条文上はまとめて「支配人の競業の禁止」として規定されていますが、ここでは分かりやすく、同じ部類の取引をする危険と、主家のために使うべき力を他所へ分けてしまう危険に分けて整理します。
競業避止義務
主家の営業と同じ部類の取引を、自分や第三者のために勝手にしてはいけない、という義務です。
精力分散防止義務
自分で営業したり、他の商人・会社の使用人になったり、他会社の取締役などになったりして、主家のために使うべき力を分けてはいけない、という考え方です。
ただし、これは主家と支配人の内部関係の問題です。
違反したからといって、相手方との取引が当然に無効になるわけではありません。
その一方で、違反した支配人は主家に対して責任を負います。
特に、主家と同じ部類の取引を勝手にした場合には、その取引で支配人や第三者が得た利益の額が、主家に生じた損害額と推定されます。
ロッテ的まとめ。
支配人は便利です。
便利だからこそ、よそ見禁止です。
お嬢様の言い方を借りるなら、浮気禁止です。
ノア様が嬉しそうだった件は、帳簿には載せません。




