第3話 うちの執事、思ったより権限が広い(支配人)
現実の続きは、父が生前よく使っていた執務室の扉の前にあった。
重い木の扉。
磨かれた取っ手。
その向こうにあるのは、紙と帳簿と、返事を待っている相手たち。
朝食の席で、私は一度、話を聞くと決めた。
決めた。
決めたけれど、こんなにも早く扉の前まで運ばれる話ではなかったはずだ。
「ノア」
「はい、お嬢様」
「ここまで来てしまったわ」
「はい。大変立派でございます」
「褒められるほど、自分の意思で歩いた記憶がないのだけれど」
「途中でお戻りになりませんでした」
「戻ろうとしたら、前にも後ろにも人がいたわ」
私の後ろで、ロッテが分類済みの書簡の束を抱え直した。
紙の擦れる音が、やけに現実的に響く。
「ロッテ」
「はい」
「あなたも共犯ね」
「帳簿上は協力者です」
「それ、共犯をきれいに書いただけよね」
「では、協力的共犯で」
「増やさないで」
ノアが静かに扉を開けた。
朝の光が、執務室の床に細く差し込む。
重い木の机。
壁一面の棚。
商会印の入った封筒。
取引先ごとに分けられた控え。
倉庫の在庫表。
支払予定表。
昨日までの私なら、ただ紙が並んでいる部屋だと思っただろう。
けれど今は、そうは見えない。
紙の向こうに、誰かがいる。
待っている。
たぶん、怒っている人もいる。
ノアは私の椅子を引き、いつものように優雅に促した。
「こちらへどうぞ」
「座ったら負けな気がするわ」
「立ったままですと、お疲れになります」
「座っても疲れる話をするのでしょう?」
「必要なお話でございます」
「その言い方で、楽しい話だったことが一度もないわ」
私は椅子に座った。
正確には、座る以外の選択肢が消えていた。
ノアは私の斜め後ろに立ち、ロッテは机の横で書簡の束を整えている。
書簡は取引先ごとに分けられていた。
織物商。
香料商。
運送業者。
倉庫番。
金貸し。
父の代からの古い取引先。
名前を見ただけで、胸が少し重くなる。
ロッテが机の端に書簡の束を置く。
その一番上に、ノアが一枚の紙を重ねた。
そこには、大きくこう書かれている。
支配人。
私は閉じた扉を一度見た。
「逃げ道、あちら側だったわね」
「執務室でございますので」
「答えになっていないわ」
「商会の執務室とは、逃げるための部屋ではなく、返事をするための部屋でございます」
「その言葉、嫌いになりそう」
「覚えやすいかと」
「そういう問題ではないわ」
私は、机の上の紙を見た。
「支配人とは、さっき聞いた通り……商会の営業について、表に立って動く人。そこまでは合っている?」
「はい。まずはその理解で十分でございます」
「十分と言いながら、今からもっと増えるのよね」
「この書簡に返事をするために必要な分だけ」
「必要な分だけで済む言い方ではないわ」
「信用は大切です」
「そういう返し方をするところよ」
ノアはどこか楽しそうに目を細めた。
この男は、私が困っているときほど目が澄む。
「お嬢様」
「何?」
「支配人という名前は、たしかに少々強く聞こえるかもしれません」
「少々ではないわ。かなり支配してきそうな名前よ」
「では、別の呼び方にいたしましょうか」
「別の呼び方?」
「お嬢様保護兼外堀管理人、など」
「自分で言わないで」
「お気に召しませんか」
「気に入ると思ったの?」
「少しだけ」
その瞬間、分かった。
この男に名前を考えさせてはいけない。
ロッテが、机の横で小さく咳払いをした。
笑いを誤魔化したらしい。
「ロッテ」
「失礼いたしました」
「今、笑ったわね」
「帳簿には載せません」
「載せる予定があったの?」
ロッテはかわいらしく微笑んだ。
顔だけなら完全に味方なのに。
「話を戻しましょう」
ノアは何事もなかったように続けた。
「支配人は、商会の営業に関することについて、広く表に立って動く者でございます」
「広く、とは?」
「品を買う。品を売る。代金について話す。契約する。必要な返事をする」
私は支払予定表の端を指で押さえた。
「それは、かなり広いわね」
「はい」
「さらっと認めたわね」
「狭いと、支配人を置く意味が薄れますので」
私は机の上の支払予定表を見た。
覚悟して来たつもりだったけれど、いきなり聞くには少し濃い話だった。
「あなた、紅茶を淹れるだけの執事ではなかったのね」
「紅茶も淹れます」
「そこは知っているわ」
「お嬢様のお好みは、茶葉を少し控えめにして、香りを立たせる方です」
「そういうことを言われると、急に普通の執事に戻るのがずるいわ」
「私はいつでも、お嬢様の執事でございます」
ノアは静かに頭を下げた。
「ただ、外の方々からは、アルマーシュ商会の支配人として見られることもございます」
「また外から」
「はい。商いの世界では大切ですので」
「私、この言葉が嫌いになりそう」
「慣れます」
「慣れたくないわ」
ロッテが、分類済みの書簡から一通を抜き出した。
「お嬢様。こちらをご覧ください」
「請求書?」
「いいえ。先代の頃から取引している香料商からの確認書です」
「確認書」
「要するに、ノア様と話を進めてよいのか、という確認です」
私は書簡を受け取った。
確かに、丁寧な文面で書かれている。
アルマーシュ商会。
支配人ノア・グレイス殿。
今後の取引継続。
支払条件。
納品時期。
私の名前も端にある。
けれど、主に話しかけられているのはノアだった。
「ノアが返事をすれば進むの?」
「はい」
「私が知らなくても?」
「お嬢様が知らないまま進めることは、私が望みません」
「そこはありがとう」
「ですが、外の相手から見れば、私が返事をすれば、アルマーシュ商会の返事として扱われる場面がございます」
「それ、怖くない?」
「怖い制度でございます」
「あなたが言うと余計に怖いわ」
ノアは微笑んだ。
怖い制度だと言いながら、なぜそんなに落ち着いているのか。
「だからこそ、支配人には信頼が必要です」
ノアは白手袋の手を胸に当てた。
「お嬢様が眠っている間に、私が勝手に商会を売り払うような男であっては困るでしょう?」
「困るどころではないわ」
「ですから、私はそのようなことはいたしません」
「本当に?」
「お嬢様が目を覚ましている時に、必要ならご説明してから進めます」
「進める可能性はあるのね」
「必要なら」
「そこを否定してほしかったわ」
ロッテがぼそりと言った。
「必要な時は、必要ですから」
「ロッテまで」
「お嬢様。商会は止まると余計に傷みます」
ロッテは、いつものかわいらしい顔で、さらりと言った。
「品は倉庫に眠れば価値が落ちます。返事を遅らせれば取引先が離れます。支払を待たせれば信用が減ります」
「心に刺さる言葉ばかりね」
「やわらかく言ったつもりです」
「十分硬いわ」
私は書簡をもう一度見た。
ノア・グレイス殿。
その文字が、妙に重い。
「つまり、ノア」
「はい」
「あなたは、外から見ると、アルマーシュ商会のかなり大きな手足なのね」
「手足でございますか」
「違うの?」
「いいえ。お嬢様の手足であれるなら、これほど光栄なことはございません」
「美しくまとめようとしないで」
「では、実務的に申し上げます」
「急に怖い」
「外から見れば、私はアルマーシュ商会の営業について、かなり広く返事をする者でございます」
「返事」
「はい。買うか、売るか。払うか、待ってもらうか。続けるか、条件を変えるか。そうした返事です」
私は書簡の宛名を見直した。
「返事の重さが、私の知っている返事と違うわ」
「商会の返事でございますので」
私は扇を持っていなかったので、代わりに机の上の紙端をそっと押さえた。
「つまり、すべての取引について、私が毎回直接確認し、署名し、返事をしていたら」
「はい」
「たぶん、私は寝込むわ」
「はい」
「そこは否定して」
「事実でございます」
「少しは包んで」
「大変お可愛らしく寝込まれるかと」
「包み方が違う」
ロッテが小さく肩を震わせた。
笑っている。
「ロッテ」
「失礼いたしました」
「あなた、最近少し遠慮がなくなっていない?」
「お嬢様が商会を見るようになったので、私も帳簿を見せやすくなりました」
「それは進歩なの?」
「大変な進歩です」
私は深く息を吐いた。
逃げ場がない。
朝食の席で聞いた時よりは、まだ息ができる。
理由までは分からない。
たぶん、目の前に紅茶ではなく書簡があるせいだ。
いや、それは悪化している気もする。
「では、支配人はとても広く動けるのね」
「はい」
「でも、私が『これはしてはいけない』と言えば止められるのでしょう?」
ノアが、少しだけ黙った。
ああ。
この間は知っている。
だいたい、私に都合が悪い。
「内側では、もちろん制限できます」
「内側では?」
「はい」
「外側では?」
「その制限を知らない取引相手には、主張できない場合がございます」
私は紙端を押さえる指に力を込めた。
「どういうこと?」
「たとえば、お嬢様が私に『高価な香料は買ってはいけない』と命じたとします」
「命じるわ。高いなら」
「ですが、その制限を知らない香料商が、私を支配人として信じて取引した場合」
「場合?」
「あとから『ノアにはそこまで許していませんでした』とは言いにくい、ということです」
「言いにくいだけ?」
「かなり言いにくいです」
「つまり?」
「商会が責任を負うことになります」
私は椅子の背にもたれた。
「それは、あなたを信じすぎではなくて?」
「外の取引相手を守るためでもございます」
「外の人ばかり守られるのね」
「お嬢様」
ノアは静かに言った。
「外の人が安心して取引できなければ、商会は続きません」
その言葉は、少しだけ胸に落ちた。
信用。
さっきから何度も聞いた言葉だ。
私はそれを、外から向けられる冷たい視線のように感じていた。
けれど、ノアの言い方だと少し違う。
品を出す。
金を貸す。
約束をする。
その前に、相手は何かを見ている。
たぶん、看板とか、印章とか。
それから、ノアの顔も。
「つまり」
私はゆっくり言った。
「ノアが広く動けるのは、相手がアルマーシュと安心して取引するためでもある?」
「はい」
「でも、その分、ノアが変なことをすると大変?」
「大変です」
「なぜあなたはそこで少し嬉しそうなの?」
「お嬢様が、私の重要性を理解してくださいましたので」
「そういうところよ」
ロッテが、紙の端に何かを書き付けた。
「今の、何を書いたの?」
「この書簡に関する要点です」
「見せて」
ロッテは紙を私の前に置いた。
そこには、整った字でこう書かれていた。
支配人は、商会の営業について広く動ける。
その権限を内側で制限しても、知らない相手には通用しないことがある。
だから、信頼できる人に任せる。
私は紙を少し遠ざけた。
「分かりやすいわね」
「ありがとうございます」
「でも、一行目から怖いわ」
「そこは事実なので」
「帳簿係は事実が好きね」
「数字も好きです」
「でしょうね」
私はノアを見た。
書簡を整える白手袋の指先。
静かな立ち姿。
私が泣きそうになれば、背で隠すと言った男。
その男が、外では商会の顔として、契約し、返事をし、相手から信頼される立場にある。
私は今まで、何を見ていたのだろう。
紅茶を淹れる手。
扉を開ける姿。
夜会で私の後ろに立つ背中。
それだけではなかったらしい。
いや、最初からそれだけではなかったのだ。
「ノア」
「はい」
「あなた、私に隠していたの?」
ノアは、少しだけ表情を和らげた。
「お嬢様のお手を、汚れた帳簿に触れさせたくはございませんでした」
その言葉は優しかった。
けれど、少しだけ痛かった。
「その結果、私は何も知らなかったわ」
「はい」
ノアは否定しなかった。
「私の不行き届きでございます」
私は指先で紙の端を撫でた。
「責めたいわけではないの」
「存じております」
「でも、腹は立つわ」
「当然でございます」
ノアは、静かに頭を下げた。
「これからは、お嬢様に知っていただきます」
「少しずつ?」
「はい」
「逃げない程度に?」
「逃げられない程度に」
「言い直して悪化したわ」
ロッテが小さく笑った。
私は睨むつもりで見た。
けれど、あまりうまくいかなかった。
「ところで」
私はふと思い出した。
「支配人は、そんなに広く動けるのでしょう?」
「はい」
「では、ノアが別の商会のためにも働いたらどうなるの?」
ノアの微笑みが止まった。
ロッテの手も止まった。
あら。
今のは、床板ではなく別のものを踏んだらしい。
「何?」
ノアは、ゆっくりと目を伏せた。
「お嬢様」
「はい」
「その前に、目の前の返事を片づけましょう」
「逃げたわね」
「順序を整えたのでございます」
「言い方を整えただけではなくて?」
「そのようにも申します」
ロッテが、分類済みの書簡をそっと机に近づけた。
「お嬢様。香料商への返事、運送業者への確認、倉庫番からの報告。この三つは、すぐに見ておきたいものです」
「すぐに」
「はい」
「私の心は、まだ扉の前に置いてきたままなのだけれど」
「では、返事をしてから回収いたしましょう」
「心を忘れ物みたいに扱わないで」
「失礼いたしました」
ノアが、いつもの涼しい顔で書簡を整えた。
支配人。
最初は、ただ怖い言葉だと思った。
けれど、少しだけ輪郭が見えた。
ノアはただ、私の後ろに立っているだけではない。
私の知らないところで、アルマーシュの名を背負って、誰かと話し、約束し、動かしてきた。
だからこそ、今この家はまだ立っている。
たぶん。
たぶん、そうなのだと思う。
「ノア」
「はい」
「続きも、逃げずに聞くわ」
「ありがとうございます」
「ただし、一度に全部は無理よ」
「承知しております」
「本当に?」
「お嬢様が倒れられては、返事が滞りますので」
「心配の向きが商会寄りになっていない?」
「お嬢様のお身体と商会の信用は、どちらも大切でございます」
「並べないで」
ロッテが、分類済みの書簡を抱え直した。
「では、ノア様の返答で進められるものから確認しますね」
「それは、少ないの?」
「食堂で見たときよりは、整理されています」
「比較対象が食堂なの、全然安心できないわ」
ノアが小さく笑った。
ロッテも笑った。
紙はまだ怖い。
帳簿も怖い。
支配人は、もっと怖い。
名前が分かったからといって、怖くなくなるわけではない。
ロッテが次の書簡を置いた。
終わっていない。
そのあと、私はもう一つ知る。
ノア・グレイスという男が、アルマーシュ家に忠実であるために、してはいけないこと。
それを守っているはずなのに、なぜか胸の奥が落ち着かなくなること。
【ロッテの帳簿メモ】
本日の項目:支配人
支配人とは、商人に代わって、その営業に関する広い権限を持つ人です。
簡単に言うと、商会の営業について、表に立って取引や手続を進めることができる人です。
支配人には、営業に関する一切の裁判上または裁判外の行為をする権限があります。
つまり、取引先との契約、代金の交渉、営業上必要な手続などについて、かなり広く動くことができます。
また、営業所で働く使用人を選んだり、解いたりすることもできます。
だからこそ、支配人はとても便利です。
ですが、便利な人ほど、権限が広いということでもあります。
ここで大事なのは、内側で制限をかけても、外の取引相手には通用しないことがある、という点です。
たとえば、主人が支配人に対して、
「高価な香料は買ってはいけない」
と内側で命じていたとします。
しかし、その制限を知らない取引相手が、支配人を信じて取引した場合、あとから、
「うちの支配人には、そこまで許していませんでした」
とは言いにくくなります。
これは、取引相手が安心して商会と取引できるようにするためです。
商いは、外から見える権限を信じて動く場面が多いからです。
そのため、支配人には信頼できる人を置く必要があります。
ノア様は、お嬢様にとっては執事です。
ですが、外の取引先から見ると、アルマーシュ商会の支配人でもあります。
紅茶を淹れる手と、商会を動かす手が同じであること。
お嬢様には、まずそこを覚えていただきます。
なお、次回は支配人がしてはいけないこと。
つまり、競業避止義務です。
お嬢様はおそらく、浮気禁止と誤解されます。




