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婚約破棄されたはずの令嬢ですが、執事も王子も恋敵もなぜか商法で溺愛してきます  作者: Altis


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第14話 名前を出さない支援ほど、内側に入ってきます(匿名組合)


 





 王都商談宿への照会文を出し終え、私はようやく息を吐いた。




 宝石。

 書類。

 噂。



 今日だけで、疲れるものを三種類も覚えた。

 しかも一つは高価で、一つは信用を傷つけ、一つは勝手に歩き回る。

 令嬢として、もう少し優雅に疲れたい。


「ロッテ」


「はい」


「今日はもう、宝石も書類も噂も見たくないわ」


「承知いたしました」


「本当に?」


「はい。次は資金提供案です」


「ロッテ」


「はい」


「それは、休憩ではないわ」


「帳簿上も休憩ではありません」


「認めたわね」


 ノアは、すでに新しい封書を手にしていた。

 どうしてこの家の書類は、私が現実逃避を始めた瞬間だけ、これほど仕事熱心になるのだろう。


「お嬢様。クライン商会より、至急の書簡でございます」


「クライン商会」


 その名を聞いただけで、背筋がわずかに伸びた。


 クライン商会。

 ヴィオラ・クライン。


 昨日、レオンハルト殿下の隣に立っていた令嬢。


 薄桃色の絹へ、私信を忍ばせてきた人。




 恋敵。

 ……のはずなのだけれど、近頃は恋よりも商会の圧が強い。


「開封なさいますか」


 ノアが静かに尋ねた。


 開けたくない。


 けれど、開けずに置けば赤字になる。


 そこまで考えて、私は少しだけ遠い目をした。


 人は学ぶ。

 学びたくないことほど、よく身につく。


「開けるわ」


 封書の中には、正式文書が一通。


 それから、薄桃色の便箋が一枚入っていた。

 私は便箋を見なかったことにして、先に正式文書を開いた。





 アルマーシュ商会 御中

 貴商会の王都取引継続および信用維持のため、当商会関係者より、一定額の資金提供を行う用意がございます。

 提供者名は対外的には表示せず、営業者であるアルマーシュ商会の名において事業を継続していただく形を希望いたします。

 利益分配その他の条件につきましては、別紙案をご確認ください。




 私は文面を読んだ。


 もう一度読んだ。


 言葉は丁寧だった。


 丁寧すぎて、どこから警戒すればよいのか分からない。


「ロッテ」


「はい」


「これは、どのような顔で読めばいいの?」


「帳簿上は、資金提供案です」


「帳簿上は?」


「はい」


「帳簿外では?」


「そこまでは記録できません」


 レオンハルト殿下が、文書へ目を落とした。


「近づいてきたな」


「殿下」


「クラインが」


「私を見るのはおやめください」


「見ていない」


「目が尋ねていました」


 言い返してから気づいた。

 私は無意識に、殿下を見ていたらしい。


 仕方がないではないか。


 ヴィオラは昨日、殿下の隣に立っていた。

 そのヴィオラに連なる商会が、今度はアルマーシュ商会へ、名を伏せて資金を入れようとしている。

 王家から切り離された私を、クラインが取り込もうとしているのか。


 殿下の隣に立つヴィオラが、私へ追い打ちをかけているのか。


 それとも、どちらでもないのか。


 考えても分からないので、私は薄桃色の便箋を開いた。




 ミレイユお姉さまへ

 お姉さまの家名が曇るのを、わたくしは見たくありません。

 でも、クラインの名が前に出れば、お姉さまはきっとお嫌でしょう?

 ですから、表には出ません。

 名前も出しません。

 お姉さまの看板の陰から、少しだけ支えさせてくださいませ。

 利益が出たら、その一部をいただければ十分です。

 わたくしは、お姉さまが立っていられるだけで嬉しいのです。


 ヴィオラ



挿絵(By みてみん)



 私は便箋を置いた。


 優しい。

 あまりにも優しかった。


 優しすぎて、帳簿に載せる場所が分からない。


 部屋が静かになる。


 正確には、ロッテが補助簿を開く音がした。


「ロッテ」


「はい」


「今の色は?」


「朱書き付き灰色です」


「早いわね」


「好意、資金、信用、利益分配、対外表示が、一枚の便箋に収まっています」


「綺麗に収まっているのに」


「綺麗に混ざっています」


「危険?」


「はい」


 ノアの声が、少し低くなる。


「お嬢様。正式文書と私信は、明確に分けて扱うべきでございます」


「それは分かるわ」


「私信へのご返答は、お控えください」


「そこまで?」


「はい」


 殿下が短く言った。


「返すな」


 私は殿下を見る。


「殿下まで」


「正式な提案には返せばいい。私信には返すな」


「なぜですの?」


「距離を詰められる」


「恋敵に?」


「取引相手に」


「どちらにしても、意味が分かりません」


「だから返すなと言っている」


 ノアが静かにうなずいた。


「今回に限り、殿下に同意いたします」


「そこで一致しないで」


 ロッテが補助簿に灰色の線を引いた。


「一時的利害一致です」


「分類しなくていいわ」


「再発時の比較に必要ですので」


「再発しないでほしいわ」


 私は正式文書へ視線を戻した。


「名前を出さずに資金を出す。営業はアルマーシュの名で続ける。利益が出たら、その一部を分ける」


「はい」


 ロッテが答えた。


「匿名組合の案として整理できます」


「匿名組合」


「資金を出す者と、実際に営業する者を分ける契約です。クライン側が出資し、アルマーシュ商会が営業する。そこから利益が生じれば、約束した割合で分配します」


「つまり、表に立つのはアルマーシュだけ」


「対外的には、その形になります」


 私は文書と便箋を並べて見た。


 表には出ない。


 名前も出さない。


 看板の陰から支える。


 言葉だけなら、どこまでも優しい。


 けれど、最近の私は知っている。


 優しい言葉ほど、条件欄をよく見なければならない。


 殿下が文書を指先で軽く叩いた。


「匿名だから安全とは限らない」


「名前を出さないのに?」


「名前を出さないからだ」


 私は眉を寄せた。


「どういう意味ですの?」


「誰の金か見えない支援は、誰の影か分からない噂になる」


 殿下の声は、淡々としていた。


「王家との婚約破棄直後、アルマーシュ商会に出資者を伏せた資金が入る。その出資者はクライン商会の関係者だ。中身を知らない者が見れば、それだけで十分だ」


「クラインが、アルマーシュを裏から動かしているように見える」


「あるいは、王家から切られた商会が、別の後ろ盾へ乗り換えたようにな」


 私は黙った。


 噂は中身を読まない。


 前話で教えられたばかりの言葉が、もう別の姿で戻ってきた。


 学習の機会が多すぎる。


「では、名前を伏せること自体も、条件として考えなければならないのね」


「そうだ」


 ロッテが補助簿に青い線を引いた。


「外形リスクの確認として青字です」


「本人は?」


「灰色です」


「安定しているわね」


 殿下は、やはり何も言わなかった。


 ノアが別紙案を開く。


「利益分配割合、出資額、損失負担、営業への関与、情報提供義務について記載がございます」


「情報提供義務?」


 文字だけで、嫌な予感がする。


 ノアが文面を追った。


「営業状況、在庫、主要取引先、運送経路、収益状況――月ごとの報告を求めています」


 商会の内側が、ほとんどそのまま並んでいた。


 ロッテの補助簿に赤い線が入る。


「赤字?」


「情報の範囲が広すぎます」


 ノアもうなずいた。


「資金を出す者が、帳簿だけでなく、取引先や運送経路まで把握する形になります」


「アルマーシュの内側へ、クラインが入ってくる」


「契約上、認めた範囲ではございますが」


「認める範囲が広すぎる、ということね」


「はい」


 殿下が言った。


「表に名を出さず、内側は見る」


 私は顔を上げた。


「言い方が悪いですわ」


「条件案に書かれていることだ」


「中身は支援です」


「支援だから、見せていいとは限らない」


 冷たい言い方だった。

 けれど、否定はできない。


 婚約破棄。

 信用不安。

 宿の記録の齟齬。

 王家御用商人。


 そして、出資者を伏せた資金提供。


 一つずつには事情がある。


 けれど、事情を知らない人間が、それらを丁寧に読み解いてくれるとは限らない。




 むしろ、読まないだろう。




 噂とは、そういう勤勉さに欠ける。


「受けるかどうかを決める前に、条件を確認します」


 私は言った。

 ロッテの補助簿に青い線が入る。


「青字です」


「まず、実際の出資者」


「はい」


「出資額と利益分配の割合。損失が出た場合の扱い」


「そうですね」


「営業へ関与できる範囲」


「重要です」


「提供する情報の範囲」


「現案は赤字です」


「出資者名を伏せる必要性と、外部への説明方針」


「青字です」


「それから、ヴィオラの私信と正式文書は分ける」


「はい」


 ノアが新しい紙を差し出した。


「お嬢様。返答文の形式は私が整えます。お嬢様には、確認事項をお決めいただければと存じます」


「また、甘やかしながら仕事をさせようとしているわね」


「お嬢様のご負担を抑えつつ、危険な資金提供案をご確認いただいております」


「危険な資金提供案を、紅茶と並べないで」


「紅茶の香りには、心を落ち着かせる効用がございます」


「契約条件は軽くならないわ」


 ロッテが小さく首を振った。


「帳簿上も軽くなりません」


「あなたまで」


 私はペンを取った。




 クライン商会 御中

 ご提案を受領いたしました。

 本件は、当商会の営業に対する出資および利益分配に関わる重大事項であるため、正式な商業上の提案として検討いたします。

 つきましては、実際の出資者、出資額、利益分配割合、損失発生時の取扱い、営業への関与範囲、情報提供の対象および範囲、出資者名を対外的に表示しない理由、ならびに外部取引先への説明方針について、詳細をご提示ください。

 なお、同封の私的書簡については、正式提案とは分けて取り扱わせていただきます。





 書き終えると、ノアが文面を確認した。


 ロッテが補助簿へ青い線を引く。


 殿下は一通り目を通し、短く言った。


「悪くない」


「殿下」


「何だ」


「褒め言葉の形を覚えるおつもりは?」


「今のは評価だ」


「でしょうね」


 ロッテが補助簿に灰色を引いた。


「今の灰色は?」


「殿下の褒め言葉未満です」


「未満」


「はい」


 私は少しだけ笑いそうになった。


 笑っている場合ではない。


 そう思うのだけれど、この執務室は近頃、緊張と書類と妙な色分けで成り立っている。


 私は、薄桃色の便箋をもう一度見た。


 お姉さまの看板の陰から、少しだけ支えさせてくださいませ。


 優しい言葉だった。


 だからこそ、その陰へ誰が入るのかを確認しなければならない。


 支えてくれる手が、いつの間にか商会の内側へ届いてはいないか。


 名前を伏せることで、かえって別の噂を招かないか。


 好意も。

 資金も。

 信用も。





 商いでは、中身を確かめてから受け取るものらしい。


ロッテの帳簿メモ

本日の項目


匿名組合


匿名組合は、一方が相手方の営業のために出資し、相手方がその営業から生じる利益を分配する契約です。


営業をするのは営業者です。

出資者の名前は対外的に出ないことがありますが、名前が出ないから安全というわけではありません。


お嬢様向け整理

名前を出さない支援でも、出資であれば条件を確認します。

出資者、出資額、利益分配割合、損失負担を確認してください。

営業への口出し範囲、情報提供の範囲も重要です。

私信と正式文書は分けて扱います。

匿名でも、外からは「見えない金が入った」と見られることがあります。

優しい提案ほど、条件で見てください。

ロッテ補助簿・本日の色分け

ヴィオラ様の私信

→ 朱書き付き灰色。好意、資金、信用、利益分配が混在しています。

「表には出ません。名前も出しません」

→ 灰色。名前を出さないことが安全とは限りません。

「誰の金か分からない支援は、誰の影か分からない噂になる」

→ 発言内容は青字。本人は灰色です。

情報提供義務

→ 赤字。営業状況、在庫、取引先、運送経路まで含むのは広すぎます。

私信と正式文書を分ける

→ 青字。大変よい整理です。

ノア様と殿下の一時的利害一致

→ 灰色。再発の可能性があります。

本日のひとこと


名前を出さない支援ほど、内側に誰が入るのか確認してください。


匿名の愛でも、帳簿には出資と書きます。

桃色の私信と、利益分配条項を同じ封筒に入れないでください

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