第13話 宿に預けた宝石が消えました(場屋営業者の責任)
クライン商会から届いた高級絹見本の確認を終え、私はようやく椅子にもたれかかった。
色を愛でるだけなら、令嬢らしい時間だったはずである。
実際にしたのは、数量、外装、織りむら、ほつれの確認と、通知文の作成だった。
おまけに、薄桃色の絹にはヴィオラの私信まで添えられていた。
取引と私情を、同じ箱に入れないでほしい。
帳簿上も、心が休まらない。
「ロッテ」
「はい」
「今日はもう、布も箱も見たくないわ」
「承知いたしました」
「本当に?」
「はい。次は宝石箱です」
「ロッテ」
「はい」
「今、私の願いを聞いたふりをしたわね?」
「箱は箱ですが、布ではありません」
「分類で逃げないで」
ノアが静かに封書を差し出した。
「王都商談宿より、早馬で届いております」
「王都商談宿?」
聞き覚えはある。
王都中心部にある、商人や貴族の利用する高級宿だ。
商談用の小部屋や保管室を備え、遠方から来た商人が、荷や書類を一時的に預けることも多い。
アルマーシュ商会も、王都で商談を行う際には何度か利用している。
私は嫌な予感を覚えながら、封を切った。
アルマーシュ商会 御中
先日お預かりいたしました商談用宝石箱および関係書類につきまして、保管室整理中、宝石箱内の一部小箱および書類封筒一点について、保管記録と現物との照合に齟齬が確認されました。
つきましては、預入時控え、内容明細、価額記録、商会側確認記録をご提示いただきたく、至急ご連絡申し上げます。
私は書状を置いた。
紅茶を見た。
すっかり冷めている。
現実逃避にすら、もう遅い温度だった。
「ロッテ」
「はい」
「宿に預けていたのなら、宿の責任でしょう?」
ロッテは補助簿を開いた。
赤い線が入った。
「雑です」
「早いわね」
「かなり雑でしたので」
「宿が預かったのよ?」
「はい。ですから、まずは何をどのように預けたのか確認します」
ノアの表情も、いつもより少し硬い。
「お嬢様。商談用宝石箱には、王都南区の取引先へ提示する予定の宝石見本が収められておりました。関係書類には、価格表、取引先候補、信用条件に関する控えも含まれております」
「宝石より、書類の方がまずい?」
「どちらもまずうございます」
ロッテがうなずく。
「ただし、性質が異なります。宝石は価額の問題です。書類は信用の問題です」
「嫌な二択ね」
「二択ではありません。両方です」
「もっと嫌だわ」
ロッテは別紙を広げた。
「本日の項目は、場屋営業者の責任です」
「じょうおく?」
「はい。旅館や飲食店、浴場など、客が集まって利用する場所で営業する者のことです」
「今回は宿屋の話なのね」
「はい。客から物を預かった場合、その物が失われたり傷ついたりしたとき、場屋営業者は責任を負うことがあります」
「なら、やはり宿の責任でしょう?」
「まだ赤字です」
「なぜ?」
「高価品だからです」
高価品。
ひどく嫌な響きだった。
宝石箱が高価品であることに、疑いの余地はない。
ロッテは淡々と続けた。
「場屋営業者は、客から寄託を受けた物が滅失または損傷した場合、不可抗力であったことを証明しなければ、原則として責任を免れません」
「つまり、預かった宿には重い責任がある」
「はい」
「では、やはり宿の責任では?」
「ただし、高価品については、種類と価額を明らかにして預けていなければ、原則として責任を問えない場合があります」
私は沈黙した。
ロッテが補助簿に灰色の線を引く。
「お嬢様の沈黙は?」
「理解中です」
「では、灰色です」
「そこまで分類しなくていいわ」
ノアが預入控えを机へ置いた。
「こちらが、当時の控えでございます」
私は紙を見る。
預入品
商談用宝石箱一式
関係書類封筒三通
私は、そっと紙を置いた。
「一式」
ロッテの補助簿に赤い線が入った。
「分かっていたわ」
「はい。一式ですので」
「価額は?」
「記載がありません」
「種類は?」
「宝石箱、という程度です」
「中身は?」
「別に内容明細が作成されている可能性はございます。ただし、この控えからは確認できません」
私は目を閉じた。
貴族の間であれば、「宝石箱一式」で通じることもある。
けれど、商いでは足りない。
どの宝石が何点入っていたのか。
それぞれの価額はいくらか。
三通の封筒には、何の書類が収められていたのか。
宿側は、その内容をどこまで認識していたのか。
そこまで確認しなければならない。
「ノア」
「はい」
「この預入は、あなたが?」
「はい。私の指示で行いました」
ノアは静かに頭を下げた。
「お嬢様のお手を煩わせぬよう、商談準備として先に整えておりました。内容明細は商会側に控えがございますが、宿側の預入控えへの記載は、あまりに簡略でございました」
「……責任を確認するわ」
ノアがわずかに顔を上げた。
「お嬢様」
「あなたを責める前に、まず事実を見ます」
ロッテの補助簿に青い線が入った。
「青字です」
「帳簿上?」
「はい。大変よいご判断です」
「普通にも褒めて」
ロッテは一瞬だけ姿勢を正した。
「差し出がましいことを申し上げますが、大変、よいご判断でした」
「ありがとう」
私はペンを取った。
「確認すべきことは?」
ロッテが即座に答える。
「一つ。宿側の保管記録」
「はい」
「二つ。預入時に受け取った者の氏名と役職」
「はい」
「三つ。保管場所と保管方法」
「はい」
「四つ。宝石箱の内容明細と価額記録」
「はい」
「五つ。書類封筒三通の内容」
「はい」
「六つ。齟齬が確認された時刻と、その時点で保管室へ出入りできた者」
「はい」
ノアが続けた。
「七つ。宿側が、宝石箱の中身をどこまで認識していたか」
「重要ね」
「はい。高価品であることに加え、その種類と価額をどこまで伝えていたかに関わります」
私は一つずつ書き留めた。
宝石箱一式。
関係書類封筒三通。
社交上の控えであれば、これでも許されたのかもしれない。
けれど、商会の記録としては弱い。
誰が見ても同じ内容を読み取れる形でなければ、記録とは呼べない。
そのとき、執務室の扉が軽く叩かれた。
使用人が入り、深く礼をする。
「お嬢様。第一王子殿下がお見えです」
私はペンを落としかけた。
「……どなたが?」
「第一王子レオンハルト殿下でございます」
先日、私へ婚約破棄を告げた人。
その人が、当家の執務室へ来た。
なぜ。
どうして。
これは、どの書類の分類に入るのだろう。
ロッテが補助簿を開いた。
「ロッテ、私はまだ何も言っていないわ」
「お嬢様のお顔が灰色です」
「顔に色をつけないで」
ノアが私の前へ出た。
「お嬢様。お断りすることもできます」
声は柔らかい。
けれど、それは私を逃がすための言葉ではなかった。
私自身が選ぶための確認だった。
「……通して」
「承知いたしました」
やがて扉が開いた。
レオンハルト殿下が入ってくる。
先日と同じ、整った顔。
冷たい目。
私を切った人。
そして今、アルマーシュ商会の執務室に立っている人。
私は立ち上がり、礼を取った。
「先日は、大変明瞭なお言葉を賜りました」
自分でも驚くほど、声は平らだった。
「そのような折に、わざわざ当家の執務室までお運びいただくとは。よほど急ぎのご用件でございましょうか」
ノアが、ほんの少しだけ目を伏せた。
おそらく、私の言葉にいくつ角があるか数えている。
殿下は動じなかった。
「王都商談宿の件だ」
私は眉を動かした。
「早いのですね」
「遅いよりはいい」
「何を聞いていらっしゃるのですか」
「宿から王宮にも連絡が入った。王家御用商人の預入品が、同じ保管室に置かれていたためだ」
殿下は机の上の書類へ目を向けた。
「アルマーシュ商会の宝石箱と関係書類について、保管記録と現物に齟齬が出たこと。そして、昨日の婚約破棄の直後だということ」
部屋の空気が、少し硬くなった。
私は笑わなかった。
「当家の信用不安に、王家との婚約破棄まで添えられて?」
「そうだ」
「嘘をつきに来たわけではないのですね」
「嘘をつくなら来ない」
「慰めでも?」
「違う」
「では、何をしに?」
殿下は私を見た。
「噂は、君が事実を確認する前に君を裁く」
私は言葉を失った。
殿下は続ける。
「商談宿で、アルマーシュ商会の宝石と書類に齟齬が出た。王家に婚約破棄された直後に。事実はそれだけでも、噂になる頃には『消えた』へ変わる」
「消えた」
「中身を読まず、形だけで広がる」
外から。
形だけで。
私は机の上の控えを見る。
宝石箱一式。
関係書類封筒三通。
その中に何が入っていたのか。
誰が管理していたのか。
宿側へ何を伝えていたのか。
私たちがどこまで確認していたのか。
そうした中身は、噂が走り始めた後では読まれない。
「だから、先に来た」
殿下が言った。
「先に?」
「君の屋敷に、噂より先に着く必要があった」
私は返事ができなかった。
慰めに来たのではない。
謝罪でもない。
けれど、噂より先に来た。
その意味を、私はまだ測りかねていた。
ノアが静かに口を開く。
「殿下。以後の確認は、支配人である私が整理し、お嬢様へご報告いたします」
殿下はノアを見た。
「不要かどうかを、君が先に決めるのか」
「お嬢様へ不要なご負担をおかけしないためでございます」
「それが、外からはどう見える」
ノアの微笑みが、ほんの少し薄くなった。
「どう、とは」
「婚約破棄直後、商談宿で重要書類の所在に齟齬が出た。王家が事情を把握している。その場で支配人が令嬢本人を下げ、報告だけにする」
殿下は短く言った。
「隠しているように見える」
私は息を止めた。
ノアは何も言わない。
レオンハルト殿下は、私を見る。
「君を疑っているわけではない。だが、外からはそう見える」
外からは、そう見える。
その言葉は、思ったより重かった。
私はノアの背中を見る。
ノアは私を守ろうとしてくれている。
負担を減らそうとしてくれている。
けれど、その正しい配慮が、外からは別の意味に見えることがある。
ロッテの補助簿に、灰色の線が入った。
「ロッテ」
「はい」
「今のは?」
「外形リスクです」
「外形」
「中身がどうであれ、外からそう見えることで生じる危険です」
殿下はロッテを見た。
「その言い方でいい」
ロッテが補助簿に青い線を引いた。
「発言内容は青字です」
殿下は何も言わなかった。
ノアが一歩退く。
「お嬢様」
「ええ」
私は椅子へ座り直した。
机の上には、宿からの書状。
宝石箱の預入控え。
関係書類の一覧。
そして、昨日私へ婚約破棄を告げた王子。
状況としては、最悪に近い。
けれど今は、感情を挟む余白がなかった。
「殿下」
「何だ」
「王宮側で把握していることを、必要な範囲でお聞かせください」
ノアが私の横へ立つ。
ロッテが補助簿を開く。
殿下がうなずいた。
「王都商談宿には、王家御用商人が二組入っていた。保管室の齟齬が外へ漏れれば、宿全体の信用問題になる。さらにアルマーシュの名が出れば、昨日の婚約破棄と結びつく」
「つまり、当家だけの問題では済まない」
「そう見られる」
「また、見られる」
「そうだ。事実より先に、見え方が走る」
ロッテが書き留める。
「では、こちらから宿へ照会します」
私は言った。
「預入時控え、内容明細、価額記録、書類封筒三通の内容、宿側保管記録、保管室への出入り記録、齟齬が確認された時刻、それから、宿側が高価品であることをどこまで認識していたか」
「加えて」
殿下が言った。
「王家御用商人の荷と混同された可能性の有無」
「そこまで?」
「外から見れば、王家御用筋と同じ宿で起きた事故だ」
「つまり、王家の名前も見える」
「そうだ」
私はペンを握り直した。
「分かりました」
ノアが静かに紙を差し出す。
「お嬢様。文面の形は、私が整えます」
「ありがとう。でも、内容は私も確認するわ」
ノアが少しだけ微笑んだ。
「大変よいご判断でございます」
ロッテの補助簿に青い線が入る。
殿下は何も言わなかった。
褒めないのね。
まあ、昨日婚約破棄をした元婚約者に褒められても困る。
困るはずだ。
私は王都商談宿への照会文を書いた。
王都商談宿 御中
貴宿よりご連絡いただきました、商談用宝石箱および関係書類に関する保管記録と現物との齟齬について、当商会として確認いたします。
つきましては、預入時控え、宿側保管記録、保管場所、保管室出入り記録、齟齬確認時刻、当該宝石箱および書類封筒の取扱者、ならびに高価品としての内容認識の有無について、ご提示ください。
また、同時期に保管されていた他商会の荷および王家御用商人関係の預入品との混同可能性についても、確認をお願いいたします。
書き終えたとき、指先が少し冷えていた。
宝石箱が消えたと決まったわけではない。
宿の責任だけを問えば終わる話でもない。
何を預けたのか。
どのように預けたのか。
相手へ何を知らせていたのか。
そして、外からどう見えるのか。
私は、その最後の一つを、これまでほとんど考えていなかった。
「ロッテ」
「はい」
「高価品は、預け方まで記録する」
「青字です」
「書類は?」
「信用の問題です」
「噂は?」
私は少しだけ、殿下を見る。
「中身を読まない」
ロッテが補助簿に青い線を引いた。
「大変よい整理です」
殿下は静かに言った。
「覚えておけ」
「殿下」
「何だ」
「そういうところです」
「どういうところだ」
「褒め言葉の形をしていません」
「褒めていない」
「でしょうね」
ロッテが補助簿に灰色の線を引いた。
「今の灰色は?」
「殿下の発言形式です」
「内容は?」
「青字です」
「本人は?」
「灰色です」
殿下は、やはり否定しなかった。
私は少しだけ、分からなくなる。
この人は、何をしに来たのだろう。
王家のため。
それは確かだ。
宿の信用。
御用商人。
婚約破棄後の外聞。
すべて、王家に関わる。
けれど、それだけなら、使者を寄こせばよかったのではないか。
それでも、殿下は自ら来た。
噂より先に。
私にはまだ、その意味が分からなかった。
ロッテの帳簿メモ
本日の項目
場屋営業者の責任
宿、飲食店、浴場、劇場など、客が来て利用する営業の場を提供する者は、客から預かった物について、滅失や損傷があった場合に責任を負うことがあります。
ただし、高価品については、客がその種類および価額を明らかにして預けていない場合、責任追及が制限されることがあります。
お嬢様向け整理
宿に預けたからといって、すぐに「全部宿の責任」とは言えません。
高価品は、種類と価額を明らかにして預ける必要があります。
「宝石箱一式」は危険です。
何を、いくらで、どの状態で預けたかを記録してください。
書類は、価額だけではなく信用の問題になります。
噂は、中身を読まずに形だけで広がることがあります。
ロッテ補助簿・本日の色分け
「宿に預けていたのなら、宿の責任でしょう?」
→ 赤字。雑です。
「宝石箱一式」
→ 赤字。一式は危険です。
「あなたを責める前に、まず事実を見ます」
→ 青字。大変よいご判断です。
殿下の「外からはそう見える」
→ 発言内容は青字。本人は灰色です。
殿下の来訪
→ 経過観察つき灰色。王家の都合とお嬢様への影響が混在しています。
本日のひとこと
高価品は、預け方まで記録してください。
宝石は価額の問題です。
書類は信用の問題です。
そして噂は、帳簿より先に走ることがあります。




