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婚約破棄されたはずの令嬢ですが、執事も王子も恋敵もなぜか商法で溺愛してきます  作者: Altis


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13/20

第12話 届いた絹は、すぐに見なければなりません(商人間の売買における検査・通知義務)



 今度こそ、部屋へ戻れる。





 少なくとも、私はそう信じていた。


 報酬明細を確認した。

 支払猶予にも目を通した。

 クライン商会への返答も、最低限の形には整えた。

 紅茶は冷め、焼き菓子は残り一つ。


 これほど働いたのだから、婚約破棄された令嬢にも、そろそろ静かに泣く時間くらい与えられてよいはずである。


「ノア」


「はい、お嬢様」


「私はこれから、自室へ戻るわ」


「承知いたしました」


 私は立ち上がった。


 勝った。


 帳簿と書類と支払期限に追い立てられた一日ではあったが、ついに寝台へ倒れ込み、天蓋を見上げ、失恋らしい時間を取り戻せる。


 そう思って扉へ向かった、そのときだった。


 控えめな音が、扉を叩いた。


 私は足を止めた。


「……聞かなかったことには、できないかしら」


「お嬢様」


 ロッテが静かに言った。


「無視したものは、大抵あとで帳簿に載ります」


「開けなさい」


 私は、速やかに敗北を認めた。


 ノアが扉を開く。


 そこに立っていたのは、大きな白い箱を抱えた使用人だった。


 淡い桃色の飾り紐。


 封蝋には、流れる麦穂と交差する二本の秤。


「クライン商会より、お嬢様宛にお届け物でございます」


 私は笑った。


 令嬢としては、あまり美しくない笑い方だったと思う。


「ロッテ」


「はい」


「クライン商会は、商圏なのよね」


「はい」


「ではなぜ、私が部屋へ戻ろうとするたび、退路に現れるの?」


「商圏ですので」


「答えになっているようで、なっていないわ」


 箱が机へ置かれた。


 軽く、上品で、いかにも高価そうな音がした。


 高価そうな音。


 今の私には、たいへん不吉な音である。


「お嬢様。開封してもよろしいでしょうか」


 ノアが尋ねた。


 白い箱。

 桃色の紐。

 クライン商会の封蝋。


 内側には、おそらくヴィオラ・クラインの気配が隙間なく詰められている。


「開けないわ」


「赤字です」


「まだ何もしていないのに?」


「何もしないことが、赤字になる場合があります」


「先ほども聞いたわ」


「今回も該当します」


 ノアが、楽しそうに目を細めた。


 楽しそうにしないでほしい。

 私にとっては、恋敵から届いた桃色の箱である。

 かなり切実な問題なのだ。


「どう見ても贈り物でしょう。桃色の紐まで結ばれているのよ」


「贈り物とは限りません」


 ロッテは箱の札を確認した。


「クライン商会王都東支店。高級絹見本、十二反。添付文書あり」


「また見本なの?」


「はい」


「十二反は、見本と呼んでよい量なの?」


「先ほどの二十巻よりは」


「比較対象がおかしいわ」


「既に倉庫は泣きましたので」


 望んでもいない経験だけが、着実に積み上がっている。


「お嬢様」


 ノアが穏やかに言った。


「開封し、内容と条件を確認なさるべきかと存じます」


「恋敵からでも?」


「恋敵からであれば、なおさらでございます」


 声は静かだった。

 けれど、その奥にわずかな硬さがある。

 クライン商会の取引条件よりも、ヴィオラの距離の近さを警戒しているように聞こえた。


「今回の項目は、商事売買における検査と通知です」


 ロッテが告げた。


「私は、買うとも受け取るとも言っていないのに」


「添付文書を確認しなければ、売買なのか、申込みなのか、単なる見本送付なのかも分かりません」


「開ければ巻き込まれそうなのに?」


「開けなければ、もっと深く巻き込まれます」


 ロッテは、最も短い言葉で退路を塞ぐ。

 けれど、私はすでに一度学んでいる。


 届いた物を見ないままにはできない。


 数量と状態を確かめ、最初の姿を記録する。

 北倉庫の反物二十巻が、それを教えてくれた。


「……開けるわ」


 ロッテの補助簿に、青い線が入った。


「早いわね」


「前回より早くご判断されましたので」


「成長を喜んでいるのか、逃げ道を塞いでいるのか、分からないわ」


「両方です」


 ノアが飾り紐を解き、封蝋を確認してから箱を開けた。


 中には、幾重にも重ねられた絹が収められていた。


 白。

 淡い青。

 深い藍。

 銀糸を織り込んだもの。

 柔らかな薄桃色。

 そして、氷を溶かして糸にしたような青白い絹。


 私は、思わず息を呑んだ。


挿絵(By みてみん)



 美しい。

 悔しいほど、美しい。

 中でも氷青の絹は、明らかに私を意識して選ばれている。

 王都で氷の令嬢と呼ばれる私に。

 冷たく見えると言われ続けた私に。

 これなら似合うだろうと、誰かが考えた色。



 嫌いである。



 けれど、綺麗である。


 たいへん困る。


「添付文書でございます」


 ノアが紙を取り出した。




アルマーシュ商会との今後の取引検討にあたり、王都向け高級絹の見本を送付いたします。

品質、色味、数量をご確認のうえ、取扱いの可否および希望数量につき、ご回答ください。

なお、到着時の瑕疵、数量不足その他の不備がある場合には、速やかにご通知ください。




「速やかに、ご通知ください」


 私は最後の一文を読み返した。


「向こうから検査を求めているのね」


「はい」


 ロッテがうなずいた。


「商人同士の売買では、受け取った品を遅れずに確認し、不備があればすぐに相手へ知らせる必要があります」


「後で言えばよい、では駄目なのね」


「時間を置けば、いつ生じた不備なのか分からなくなります。場合によっては、後から責任を求めることも難しくなります」


 私は箱の中を見た。


 美しい絹が並んでいるが、今見るべきものは、美しさだけではない。


 数量。

 品質。

 到着時の状態。

 そして、相手へ知らせるべき不備。


「分かったわ。確認しましょう」


「青字です」


「まだ何も見ていないわ」


「始めると決められましたので」


 私は白手袋をはめ直した。


 十二反を、札と照らし合わせながら順に確認していく。


 深藍の一反には、端に軽い織りむら。

 白銀の一反には、わずかなほつれ。

 数量札のかすれが一つ。

 外装の押し跡が一つ。


 いずれも使用できないほどではない。

 けれど、ロッテは一つずつ記録した。


「軽いものでも書くのね」


「後で、最初からあったものかを確認できるように」


「北倉庫と同じね」


「はい。ただし今回は、通知までが一続きです」


 見るだけでは終わらない。


 不備を見つけたなら、知らせる。

 その一手間が、後の責任を分ける。


 私は次の絹へ手を伸ばした。


 薄桃色。


 あまりにもヴィオラらしい色だった。

 甘く、柔らかく、こちらの警戒心へするりと入り込んでくるような色。

 その端には、小さな香り袋が結ばれていた。


「……これは何かしら」


 ノアの目が細くなる。


「確認いたします」


 香り袋を外し、中の紙片を広げる。


 丸みを帯びた文字。




ミレイユお姉さまへ

氷のような青もお似合いですが、薄桃色もきっとお似合いですわ。

いつか、わたくしが選んだ布で、お姉さまのお召し物を仕立てられたら嬉しいです。


ヴィオラ





 私は無言で紙片を机へ置いた。

 ノアも無言でそれを見た。





「不要な私信です」




「判断が早いわね」


「正式な見本送付へ結びつける必要はございません」


「支配人として?」


「はい」


「執事としては?」


「さらに不要でございます」


 ロッテが補助簿に灰色の線を引いた。


「今のは?」


「取引と私情の混在です」


「赤字ではないの?」


「直ちに損失が生じるものではありません。ただし、混ぜたまま返答すると、何に応じたのか分からなくなります」


「恋敵で、取引先で、見本送付者」


「加えて、資本協力の候補です」


「並べないで」


「事実です」


 私は薄桃色の絹を見た。


 綺麗である。

 それが、たいへん腹立たしい。


「この香り袋は?」


「見本とは分けて保管します」


 ロッテが即答した。


「そこまで?」


「何が取引で、何が私情かを分けるためです」


 ノアが、はっきりとうなずいた。


「妥当な判断でございます」


「あなたたち、ヴィオラのことになると妙に息が合うわね」


「お嬢様に近すぎますので」


 ノアが静かに言った。


 私は一瞬、言葉に詰まった。


 近すぎる。


 それはヴィオラだけの話なのだろうか。


 ノアはどうなのか。

 ロッテは。

 レオンハルト殿下は。



 私を守ろうとする人。

 私を見ている人。

 私に近づこうとする人。


 その近さは、ときに判断を曇らせる。


 ロッテの引いた灰色が、先ほどより少し重く見えた。


「お嬢様」


 ノアの声で、私は我に返った。


「何でもないわ」


 私は氷青の絹へ触れた。

 冷たい色なのに、手触りは柔らかい。


 きっと、よく似合う。


 ヴィオラが選んだのだとすれば、彼女は私をよく見ている。


 それが、少し怖い。


「六反目、氷青。異常なし」


 私はそう告げ、手を離した。


 検査を終える頃には、見本十二反は、美しい布の集まりではなくなっていた。


 色味。

 数量。

 品質。

 到着時の不備。

 通知すべき内容。

 取引と私信の切り分け。


 美しさだけでは、商いは終わらない。


「返答はどうするべき?」


 私が尋ねると、ロッテが控えを確認した。


「受領したこと、数量が十二反であったこと、不備のあった箇所を通知します」


「軽微なものも?」


「到着時の状態として記録を共有します」


 ノアが続けた。


「取扱いについては即答せず、支払条件、返品条件、正式納入時の検査方法を確認した後に判断するのがよろしいかと存じます」


「薄桃色については?」


 思わず尋ねると、ノアの目がわずかに細くなった。


「取引対象として検討するか、という意味でございますね」


「……もちろんよ」


「であれば、販売可能性と在庫負担でご判断ください」


 ロッテが青い線を引いた。


「私情と取引を分けようとなさいました」


「完全には分けられていないわ」


「分けようとしたことが青字です」


「少し甘くなった?」


「午前中が厳しすぎましたので」


「やはり赤字が多かったのね」


「累積では」


「言わなくていいわ」


 今は青字だけを見ることにする。


「私信には、どう返事をするの?」


「不要でございます」


 ノアが即答した。


「早いわね」


「正式な返答とは分けるべきです」


 ロッテもうなずく。


「今回は、取引上の通知のみでよろしいかと。私信へ応じれば、見本送付の意味まで混ざります」


「桃色に引きずられるな、ということね」


「はい」


 私はペンを取った。




クライン商会 御中

貴商会より送付された高級絹見本十二反を受領いたしました。

当方にて数量および外観を確認したところ、以下の点を到着時確認事項として通知いたします。




 言葉が、思いのほか自然に続いた。



 不備の通知。

 正式取扱いは条件確認後とすること。

 支払条件と返品条件の照会。

 正式納入時の検査方法。

 私信には触れない。



 薄桃色の絹が、視界の端で甘く光っている。


 けれど今、返事をする相手は恋敵ではない。


 クライン商会である。


「できたわ」


 ロッテとノアが文面を確認する。


「よろしいかと存じます」


「青字?」


「青字です。ただし、私信は灰色として別管理です」


「厳密ね」


「混ぜると赤字になりますので」


 私は小さく笑った。

 そのとき、扉の向こうから再び足音がした。


 笑みが消えた。


「……まさか」


 ノアが扉へ向かう。


 使用人が顔を出し、深く礼をした。


「お嬢様。王都商談宿より、早馬で書状が届いております」


「商談宿?」


「先日お預けになった宝石箱と重要書類について、確認したいことがあるとのことでございます」


 ロッテの補助簿に、朱書きの線が引かれた。

 私は椅子に座ったまま、遠い目をした。


「ノア」


「はい、お嬢様」


「私は今日、どこまで自室から遠ざかるの?」


「本日は、商会の信用へ近づいておられます」


「言い方が美しいだけで、帰れないという意味ね」


「はい」


 ロッテが書状を受け取った。


「次は、預けた物の責任です」


 私は薄桃色の絹を見た。

 冷めた紅茶を見た。


 そして、新しい書状を見た。

 届いた品は、見て、確かめ、必要なことを知らせる。

 嫌いな相手から届いた品なら、なおさら早く。





 どうやら今日は、泣く時間よりも、見るべきものの方が多いらしい。



挿絵(By みてみん)

ロッテの帳簿メモ

本日の項目


商人間の売買における検査・通知義務

――商法第五百二十六条


商人同士の売買では、買主は目的物を受領したとき、遅滞なくその物を検査しなければなりません。


検査によって、品物の種類、品質または数量が契約内容に適合していないことを発見した場合には、直ちに売主へ通知する必要があります。


通知を怠ると、その不適合を理由とする追完請求、代金減額請求、損害賠償請求または契約解除ができなくなる場合があります。商法第五百二十六条第一項・第二項は、商人間の取引を早期に確定し、後になってから紛争が拡大することを防ぐための規定です。


すぐには見つからない不具合


受領時の通常の検査では発見できない不適合についても、買主が受領後六箇月以内に発見した場合には、発見後直ちに売主へ通知する必要があります。


ただし、六箇月間何もしなくてもよい、という意味ではありません。


受領時に確認できるものは、受領時に確認します。


あとになって初めて分かる不具合だけが、別に扱われます。


なお、売主が不適合を知っていた場合には、買主を保護するため、この通知制限は適用されません。商法第五百二十六条第二項・第三項。


お嬢様向け整理


届いた品は、できるだけ早く確認します。


見るものは、主に次の四つです。


種類。品質。数量。到着時の状態。


不備があれば、


どの品の、どの部分に、どのような問題があったか


を控え、速やかに相手方へ通知します。


「少し傷がありました」だけではなく、


三反目、深藍。端部に軽微な織りむら。

八反目、白銀。端部に微細なほつれ。


のように、後から対象を特定できる形で残してください。


今回の見本について


今回送付された十二反は、文書上は「今後の取引検討のための見本」です。


そのため、これだけで正式な売買契約が成立しているとは限りません。


商法第五百二十六条は、原則として商人間の売買に関する規定です。


もっとも、正式な取引へ進む可能性がある以上、


数量

品質

外観

到着時の不備

添付された取引条件


を確認し、相手方と記録を共有しておくことには意味があります。


契約が成立してから確認を始めるより、見本の段階から記録を残した方が安全です。


北倉庫回との違い


北倉庫の反物二十巻で中心となったのは、契約の申込みとともに受け取った物品の保管です。


商人が、その営業に属する契約の申込みとともに物品を受領した場合、申込みを拒絶しても、原則として申込者の費用でその物品を保管しなければなりません。商法第五百十条。


今回の中心は、保管ではありません。


売買の目的物を受け取った後、早く検査し、不備を早く通知すること。


したがって、整理すると次のようになります。


第五百十条

断っても、受け取った物を放置しない。


第五百二十六条

買った物を受け取ったら、早く見て、問題があれば早く知らせる。


似ていますが、扱っている場面は異なります。


ロッテ補助簿・本日の色分け


「着ない。見ない。開けない」

→ 赤字。未確認のまま時間を置く判断です。


高級絹見本十二反の数量・外観確認

→ 青字。到着時の状態を確定しました。


軽微な織りむら、ほつれ、札のかすれ、外装押し跡を記録

→ 青字。使用できるかどうかと、到着時から存在したかどうかは別問題です。


取引文書にヴィオラ様の私信が添付されていた件

→ 灰色。取引上の意思と私的な感情が混在しています。


私信に触れず、クライン商会へ取引上の通知のみ作成

→ 青字。相手が同じでも、返すべき内容は分けます。


薄桃色の絹を見て判断が止まりかけた件

→ 灰色寄りの桃色です。


ノア様が私信を「不要」と即断した件

→ 帳簿外です。


本日のひとこと


届いた品は、早く見ます。


不備を見つけたら、早く知らせます。


美しい品ほど、見惚れる前に数えてください。


恋敵から届いた品なら、なおさらです。

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