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婚約破棄されたはずの令嬢ですが、執事も王子も恋敵もなぜか商法で溺愛してきます  作者: Altis


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12/20

第11話 報酬は愛ではなく、費目です(報酬請求権・利息請求権)

 


 紅茶が出た。


 焼き菓子も出た。


 窓の外には、午後の柔らかな光が差している。


 磨かれた銀器。

 薄い磁器のカップ。

 焼き菓子から漂う、バターと砂糖の甘い香り。


 これだけ見れば、休憩である。


 婚約破棄された令嬢が、ようやく一息つき、乱れた心を整え、優雅に紅茶を口にする時間。


 ……のはずだった。


 しかし、机の上には費用明細がある。


 薄い紙。


 整った文字。


 そして、ロッテの補助簿に引かれた朱書きの線。


 私は紅茶を手に取りながら、じっとその紙を見た。


「ノア」


「はい、お嬢様」


「これは、休憩ではないわね?」


「紅茶は休憩でございます」


「書類は?」


「実務でございます」


「合わせると?」


「お嬢様のお心に配慮した、柔らかな続行でございます」


「言い方を柔らかくしても、続行は続行よ」


 ノアは優雅に微笑んだ。


 否定しない。


 つまり、私はまだ部屋へ帰してもらえない。


 ロッテが費用明細を私の方へ滑らせた。


「こちらは、港町リュカオンの取引補助者から届いた費用明細です」


「取引補助者」


「先日整理した、商会の外から取引を助ける者の一人です。今回の香料注文について、経路の確認、運送条件の照会、相手方との連絡調整を行っています」


「つまり、働いてくれた人」


「はい」


「では、お礼を言えばよいのではなくて?」


 ロッテの手が止まった。


 ノアの目が、ほんの少しだけ楽しそうになる。


 私は補助簿へ目を向けた。


 ロッテは朱書きの横に、小さな赤い印をつけた。


「今、赤字も足したわね?」


「はい」


「まだ紅茶を一口も飲んでいないのに」


「損失予備軍は、飲食の進行を待ちません」


「帳簿は本当に遠慮がないわ」


「お嬢様」


 ロッテは静かに言った。


「善意は尊いものです。ですが、商いの場で他人のために働いた者が、いつでも無償とは限りません」


「それは分かるわ。けれど、報酬の約束はしていないのでしょう?」


「そこが、本日の項目です」


 嫌な言い方だった。


 ロッテが紙に短く書いた。


 ――報酬請求権。


 続けて、その下へもう一つ。


 ――利息請求権。


「報酬は分かるわ。でも、利息まで来るの?」


「来ます」


「どうして?」


「お金の話だからです」


「身も蓋もないわ」


「帳簿係ですので」


 私はようやく紅茶を飲んだ。


 花のような香りと、ほどよい甘さが舌に広がる。


 ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。


 けれど、机の上の費用明細が、その甘さをすぐに現実へ引き戻した。


「まずは報酬です」


 ロッテが、明細の一番上を指した。


「商人が、その営業の範囲内で他人のために行為をした場合、特別な約束がなくても、相当な報酬を請求できることがあります」


「特別な約束がなくても」


「はい」


「つまり、あらかじめ『いくら支払います』と決めていなくても?」


「働いた内容に応じた、相当な報酬を請求されることがあります」


「相当な、という言葉がまた怖いわね」


「はい。何が相当なのか、確認が必要です」


 私は費用明細へ目を落とした。


 調査費。


 通信費。


 運送条件照会費。


 立替手数料。


 緊急確認加算。


 最後の項目だけ、妙にこちらを見ている気がする。


「緊急確認加算とは何?」


「急いで処理したため、通常より報酬を上乗せした、という意味かと」


「急いでと頼んだの?」


 ノアが答えた。


「香料百二十箱の件は、納入される前に止める必要がございました。私から至急確認を依頼しております」


「つまり、急ぐ必要はあった」


「はい」


「では、払うしかないの?」


「支払うかどうかを決める前に、金額が相当かを確認します」


 ロッテが言った。


「働いたのであれば、報酬の問題は生じます。ですが、請求された金額を、そのまま受け入れるという意味ではありません」


「帳簿係らしいわね」


「お金は隠すより、数えるものです」


 懐かしい言葉が出た。


 私は少しだけ笑った。


「では、数えましょう」


 ロッテの補助簿に、青い線が入った。


「今のは?」


「青字です。報酬を、感情ではなく確認すべきものとしてご覧になりました」


「少し分かってきたわ」


「はい。累積ではまだ」


「言わなくていいわ」


 私は即座に止めた。


 ノアが静かに笑っている。


 この二人は、私を逃がさないだけではない。


 少しずつ、逃げないことに慣らしている気がする。


 怖い。


 かなり怖い。


 私は気を取り直して、明細へ目を戻した。


「でも、ノア」


「はい」


「あなたはどうなの?」


「私でございますか」


「あなたも商会のために、ずっと動いているでしょう。支配人として取引先と話し、契約を整え、問題を調整し、私を逃がさない」


「最後の項目は、支配人の職務外でございます」


「職務内ではなくて?」


「お嬢様保護兼外堀管理人としては、職務内かもしれません」


「その肩書き、まだ生きているのね」


「非公式でございます」


 私はため息をついた。


「あなたも、報酬を請求できるの?」


 ノアは、ほんの少しだけ微笑みを薄くした。


「私はアルマーシュ家に仕える者でございます。定められた俸給を頂戴しております」


「それ以上は?」


「必要ございません。お嬢様のためですから」


 迷いのない返事だった。


 その忠誠は、美しい。


 春の夜会で奏でられる音楽のように、疑う余地もなく整っている。


 けれど、同時に重い。


 昨日までの私なら、ただ安心していたかもしれない。


 けれど今は、ロッテの補助簿を見てしまう。


 青字。

 赤字。

 朱書き。

 灰色。


 忠誠は、何色なのだろう。


 美談なら青字。

 無償労働なら赤字。

 依存なら灰色。


 見ないまま放置すれば、きっと最後には赤字になる。


 ロッテが、補助簿を開いた。


 そして、迷いなく灰色の線を引いた。


「灰色?」


「はい」


「今の、かなり感動的だったのに?」


「感動的であることと、管理上安全であることは別です」


「厳しいわ」


「忠誠と無償化と依存の境目は、確認が必要です」


 ノアが、どこか楽しそうにロッテを見た。


「手厳しいですね」


「帳簿係ですので」


「お嬢様への忠誠まで、補助簿に載せられるとは」


「費目ではありません。補助簿上、要観察です」


「要観察」


 私はつぶやいた。


「ノアの忠誠が要観察」


「はい」


「本人の前で言うこと?」


「本人の前で言うべきことです」


 ロッテは真顔だった。


 強い。

 ロッテは本当に強い。


 ノアは私を逃がさない。

 ロッテは、ノアも逃がさない。


 この家で一番怖いものは、帳簿を持つこの子なのかもしれない。


「では、外部補助者の報酬へ戻ります」


「戻るのね」


「はい。休憩中ですので」


「やはり休憩ではないわ」


 ロッテは、費用明細の項目に一つずつ丸をつけた。


「調査費と通信費は、内容を見る限り妥当と思われます。運送条件照会費も必要です。ただし、緊急確認加算については、算定の根拠を確かめる必要があります」


「灰色?」


「はい。灰色です。放置すると赤字になります」


「便利な言葉ね」


「実務では、よくあります」


 私は費用明細へ書き込んだ。


 緊急確認加算――根拠照会。

 作業日。

 依頼内容。

 通常報酬との差額。


 自分が、こんなことを書く日が来るとは思わなかった。


 夜会で扇を持っていた手が、今は費用明細の項目へ丸をつけている。


挿絵(By みてみん)


 けれど、不思議と嫌ではない。


 少なくとも、見えなかったものが少しずつ形を持つ感覚がある。


 いくら支払うのか。


 なぜ支払うのか。


 誰の仕事に対して支払うのか。


 分からないことは怖い。


 けれど、分けて、数えて、確かめれば、怖さは少しだけ小さくなる。


「次は利息です」


 ロッテが言った。


「ついに来たわね」


「はい」


「聞きたくないわ」


「朱書きです」


「聞くわ」


 私は姿勢を正した。


 朱書きは、今すぐ動けば、赤字になる前に止められるもの。


 ロッテの補助簿に慣れてきている自分が、少し悔しい。


「商人同士で金銭を貸し借りした場合、特別な約束がなくても、貸した側が法定利息を請求できることがあります」


「お金を借りたら、利息を支払う」


「はい」


「それは分かるわ」


「もう一つございます」


「まだあるの?」


「商人が、その営業の範囲内で他人のために金銭を立て替えた場合です。そのときは、立て替えた日以後の法定利息を請求できることがあります」


「立て替えたお金にも?」


「はい」


 私は少し考えた。


「つまり、自分で借りたお金だけではなく、誰かに代わりに支払ってもらったお金にも、時間の値段がつくことがある」


「大変よい整理です」


 ロッテが、補助簿に青い線を引いた。


「青字です」


「利息で青字を取る日が来るとは思わなかったわ」


「成長です」


「普通に褒めて」


 ロッテは少しだけ姿勢を正した。


「差し出がましいことを申し上げますが、大変よい整理でした」


「褒め言葉も、少しずつ増えてきたわね」


「在庫を増やしました」


「褒め言葉の?」


「はい」


 私は少し笑った。


 ロッテの補助簿には、褒め言葉の在庫まであるのかもしれない。


 もちろん正式帳簿ではない。


 補助簿だ。


「では、アルマーシュ商会で借りているお金と、立て替えてもらっている費用を確認しましょう」


 ロッテが資金繰り表を開いた。


「そして、もう一つ。こちらは、いま説明した利息とは少し分けて確認します」


「まだあるの?」


「支払猶予です」


「すぐ支払うべきものを、少し待ってもらっている件ね」


「はい」


「待ってもらっているのなら、ありがたいことでしょう?」


「ありがたいことです」


「なら」


「ですが、待ってもらったからといって、何も増えないとは限りません」


 私は口を閉じた。


「支払猶予を受けたというだけで、先ほどの利息が必ず発生するわけではありません」


「違うの?」


「はい。まず、何を根拠に請求されるのかを分けて考えます」


 ロッテは、資金繰り表の余白へ項目を書いた。


 契約上の利息。


 遅延した場合の損害金。


 保管費用。


 そのほか、猶予するために必要となった費用。


「同じようにお金が増えるとしても、理由は一つではないのね」


「はい。理由が違えば、確認すべき条項も違います」


 支払期限を延ばす。


 資金を借りる。


 代わりに支払ってもらう。


 商品を保管してもらう。


 どれも、相手の時間やお金や場所を使うことになる。


 待ってもらうという言葉は、優しい。


 けれど商いでは、その優しさの内側に条件がある。


「誰が、いくら、いつまで待ってくれて、その間に何が増えるのか」


「はい」


「それを、一つずつ確認する」


「大変よい整理です」


 ロッテが、また青字を引いた。


「愛で利息は止まりません」


 私は思わず笑いそうになった。


「それ、前から用意していたでしょう」


「はい」


「正直ね」


「帳簿係ですので」


 ノアが紅茶を注ぎ足した。


「お嬢様。支払猶予を受けること自体が、悪いわけではございません。今の商会には、必要な場面もございます」


「でも、条件を見なければならない」


「はい」


「借りたのか。立て替えてもらったのか。ただ待ってもらったのか。それから、その時間に何が加わるのか」


 ノアが、わずかに目を細めた。


「見事な整理でございます」


 ロッテも補助簿へ手を伸ばした。


「青字です」


「二人とも、今日はよく褒めるわね」


「お嬢様が、褒められるご判断をなさっておりますので」


 そう言われると困る。


 叱られるより、少しだけ困る。


 私は視線をそらし、焼き菓子を一つ取った。


 小さな焼き菓子は、口の中でほろりとほどけた。


 甘い。


 利息よりは、ずっと優しい。


「では、支払猶予を受けている相手を確認しましょう」


 ロッテが、紙を一枚ずつ並べる。


 フィルベール織物商。


 港町リュカオンの荷受業者。


 香料輸入業者。


 そして、クライン商会。


「またクライン」


「はい」


「どこにでもいるわね」


「商圏ですので」


「恋敵が商圏になるの、本当に嫌」


 ロッテは、私の嘆きをきれいに無視した。


「クライン商会は、香料百二十箱の支払名義を確認している間、納入を一時停止する代わりに、保管費用と、一定期間を超えた場合の負担について協議を求めています」


「つまり、止めてはくれるけれど、ただではない」


「はい」


「ヴィオラらしいわ」


「文面は、極めて商業的です」


「それが嫌なの」


 私はクライン商会の書面を見る。


 丁寧。


 冷静。


 隙がない。


 曖昧な善意も、感情的な非難もない。


 何を止めるのか。


 どこまで待つのか。


 その間に、何の費用が生じるのか。


 整然と並べられている。


 末尾にヴィオラの追伸がなければ、恋敵の気配など少しもない。


 けれど私は知っている。


 この整った文面の向こうに、淡い桃色のドレスを着た少女がいる。


 お姉さま、と呼ぶ距離で微笑みながら、商会としては一歩も譲らない少女が。


「お嬢様」


 ノアが静かに言った。


「クライン商会への返答は、慎重に整える必要がございます」


「ええ」


「保管費用、一定期間を超えた場合の負担、支払名義、注文の有効性。すべて分けて確認いたします」


「報酬と利息だけでは終わらないのね」


「はい」


 ロッテが補助簿に朱書きを引いた。


「クライン商会対応は、朱書きです」


「今すぐ動けば、赤字になる前に止められる?」


「はい。ただし、相手が強いため、放置した場合の赤字化は速いと思われます」


「言い方」


「事実です」


 私は深く息を吐いた。


 部屋へ帰りたい。


 ベッドへ倒れ込みたい。


 婚約破棄の悲しみに浸る時間を、今からでも取り戻したい。


 けれど、机の上には費用明細があり、資金繰り表があり、クライン商会の書面がある。


 そして私は、もう知ってしまった。


 返事をしないと、返事をしたものとして扱われることがある。


 断った品にも、預かる責任がある。


 連帯は、仲良く分け合うという意味ではない。


 報酬は、約束がなくても生じることがある。


 借りたお金にも。


 立て替えてもらったお金にも。


 時間の値段がつくことがある。


 そして、待ってもらうときには、何を根拠に、何が増えるのかを確認しなければならない。


「ノア」


「はい、お嬢様」


「私は今日、いつ部屋へ戻れるの?」


 ノアは、少しだけ考えるふりをした。


 本当に考えているわけではない顔だった。


「お嬢様が、報酬明細と、支払猶予に関する一覧をご確認された後でございます」


「つまり?」


「まだ少々」


「少々とは?」


「紅茶が冷めない程度には」


 ロッテが即座に補足した。


「ただし、書類は冷めません」


「帳簿係の追撃が早いわ」


「朱書きですので」


 私は、焼き菓子をもう一つ取った。


 紅茶を一口飲む。


 それから、諦めてペンを持った。


 休憩は、休憩ではなかった。


 紅茶は甘い。


 焼き菓子も甘い。


 けれど、報酬は費目で、利息には根拠があり、善意だけでは帳簿から数字は消えない。


 婚約破棄された令嬢として泣くには、どうやらまだ少し、書類が多すぎる。

ロッテの帳簿メモ


本日の項目


報酬請求権・利息請求権


商人が、その営業の範囲内で他人のために行為をしたときは、相当な報酬を請求することができます。


これは、商法第512条に定められた報酬請求権です。


あらかじめ、


「この仕事には、いくら支払います」


と決めていなかったとしても、営業の範囲内で他人のために仕事をした以上、当然に無償になるとは限りません。


善意で助けてくれたように見えても、商いの場では報酬の問題が生じます。


また、商法第513条では、利息を請求できる場合として、次の二つを定めています。


一つ目は、商人同士で金銭の貸し借りをした場合です。


この場合、貸主は、特別な約束がなくても法定利息を請求できます。


二つ目は、商人が営業の範囲内で、他人のために金銭を立て替えた場合です。


この場合も、立替えをした日以後の法定利息を請求できます。


お嬢様向け整理


誰かが商いのために働いてくれたとき、


「親切にしてくれたのね」


だけで終わらせてはいけません。


まず確認するのは、


何をしたのか。

誰のためにしたのか。

その仕事は営業の範囲内か。

請求された金額は相当か。


という点です。


報酬を請求できることと、相手の請求額をそのまま支払うことは同じではありません。


調査費。


通信費。


照会費。


緊急対応の加算。


項目を一つずつ分け、仕事の内容と金額を確かめます。


利息についても、すべてを同じものとして扱ってはいけません。


自分でお金を借りたのか。


誰かに代わりに支払ってもらったのか。


それとも、支払期限を待ってもらっただけなのか。


理由が違えば、確認する根拠も違います。


支払猶予を受けただけで、商法第513条の利息が当然に生じるとは限りません。


契約上の利息。


支払が遅れた場合の損害金。


商品の保管費用。


猶予に伴う、そのほかの費用。


何を根拠に、いつから、何が増えるのか。


そこまで確認して、ようやく帳簿に載せられます。


ロッテ補助簿・本日の色分け


「お礼を言えばいいのではなくて?」

→ 赤字。報酬科目を見落としています。


緊急確認加算

→ 灰色。作業内容と金額の根拠を照会します。


「働いたなら報酬。でも、請求額をそのまま飲むとは限らない」

→ 青字。大変よい整理です。


ノア様の「必要ございません。お嬢様のためですから」

→ 灰色。忠誠と無償化と依存の境目は、要観察です。


「借りたお金だけでなく、立て替えてもらったお金にも、時間の値段がつくことがある」

→ 青字。条文の整理ができています。


支払猶予に伴う費用

→ 朱書き。利息、損害金、保管費用を分けて確認します。


クライン商会対応

→ 朱書き。放置すると赤字化が速い案件です。


本日のひとこと


報酬は、愛ではなく費目です。


善意は尊いです。


ですが、帳簿上は報酬科目です。


借入れにも。


立替えにも。


時間の値段がつくことがあります。


愛で利息は止まりません。

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