第10話 連帯って、手をつなぐ意味ではありませんの?(連帯債務・連帯保証)
倉庫から戻った私は、少しだけ賢くなっていた。
少なくとも、反物二十巻は、気に入らないからといって即座に突き返せるものではない。
断ったからといって、届いた品への責任まで消えるわけではない。
届いたものは、開けて、見て、数えて、控える。
そして返事を書く。
商人は、本当に返事ばかり書いている。
私は執務室の椅子に座り、書き終えたペンをそっと置いた。
窓から差し込む午後の光が、机の上を明るく照らしている。
積み上げられた書類も。
開かれた帳簿も。
紅茶の銀器も。
以前なら、どれも私を責めるもののように見えた。
けれど今日は、その中に、私が自分で書き上げた返答書がある。
「これで、フィルベール織物商への返答はよいのね?」
「はい。数量変更案、見本反物の一時保管、保管費用および返送費用の確認、到着時状態の控え。必要事項は入っております」
ロッテが文面を確かめながら言った。
その傍らに置かれた補助簿の端には、青い印がひとつ増えている。
小さな印だった。
けれど白い紙の上では、晴れた日の空を切り取ったように見えた。
少し嬉しい。
ほんの少しだけ、前より先へ進めた気がする。
嬉しいが、顔には出さない。
公爵家の令嬢として、帳簿係の青字に一喜一憂していると思われるのは、少し悔しい。
「お嬢様」
ノアが、机の上に別の書類を置いた。
「次はこちらでございます」
「今、青字の余韻に浸っていたのだけれど」
「大変よいご判断でした」
「あなたまで褒めればいいと思っていない?」
「思っております」
ノアは美しい笑みで言った。
ずるい。
そう言われると怒りにくい。
私は小さく息を吐き、次の書類へ視線を落とした。
「これは?」
「港町リュカオンの運送契約に関する確認書です」
「またリュカオン」
「はい。香料百二十箱の件とも、北倉庫の件とも関係します」
聞き覚えのある名前だった。
しかも、あまり嬉しくない方向で。
港町リュカオン。
継続的にアルマーシュ商会のために取引先を探している補助者もいたし、香料の注文にも関わっている可能性がある。
今の私にとって、港町という響きは、潮風よりも請求書の匂いがする。
「で、何が問題なの?」
ロッテが書類を開いた。
「今回の運送契約は、アルマーシュ商会、港町リュカオンの荷受業者、それから共同積載を申し出たダール商会の三者が関係しています」
「三者」
「はい」
「それぞれ少しずつ責任を持つのね」
私は少し安心した。
「三人で関係しているなら、一人あたりの負担は軽くなるでしょう?」
ロッテの手が止まった。
ノアの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
窓からの風が、机の端に置かれた紙を一枚だけ揺らす。
まずい。
今のは赤字かもしれない。
私はロッテの補助簿を見た。
ロッテは静かに赤い線を引いた。
「今、赤字にしたわね?」
「はい」
「まだ説明前なのに」
「損失予備軍でしたので」
「失礼ではなくて?」
「差し出がましいことを申し上げますが、今のご理解は危険です」
「丁寧に刺さないで」
ロッテは補助簿を閉じず、むしろ開いたままにした。
見せる気だ。
赤字を。
「お嬢様。連帯という言葉をご存じですか?」
「もちろんよ」
私は胸を張った。
「手を取り合い、共に支え合うことでしょう?」
「赤字を追加してよろしいでしょうか」
「待ちなさい」
「では、保留の灰色にします」
「あなたの補助簿、情けがないの?」
「商会再建中ですので」
「お嬢様。社交上の連帯と、債務の連帯は、かなり印象が異なります」
「債務の連帯」
嫌な響きだった。
手を取り合うどころか、足をつかまれそうな響きである。
ロッテが紙に短く書いた。
――連帯債務。
――連帯保証。
黒い文字が、白い紙の上に並ぶ。
ただ二つの言葉を書いただけなのに、先ほどまで明るかった机の上へ、薄い影が落ちたように見えた。
「今回はこの二つです」
「すでに帰りたいわ」
「お嬢様。まだ日は高うございます」
ノアが穏やかに言った。
「最近、それを聞くと胃が痛むのだけれど」
「実務が進んでいる証でございます」
「そうかしら」
ロッテが確認書を指で押さえる。
「まず、連帯債務です。複数人が債務を負担する場合、単純に人数で割ればよい、とは限りません」
「でも、三人で負うなら三分の一ではなくて?」
「債権者から見れば、全員に全額です」
私は瞬きをした。
「全員に、全額?」
「はい」
「三人いるのに?」
「それでもです」
「三分の一ずつではなく?」
「債権者からは、全額を請求され得ます」
私は、もう一度机の上の二つの言葉を見た。
――連帯債務。
文字は動いていない。
それなのに、誰か一人を選び、その背後へ静かに立つもののように見えた。
「それでは、三人いる意味がないのでは?」
「債権者にとっては、意味があります」
ロッテは落ち着いて言った。
「誰か一人が払えなくても、他の者に請求できます。回収できる可能性が高まります」
「債務者側に優しくないわ」
「信用取引は、相手方保護も重要です」
相手方保護。
また出た。
商いを学び始めてから、私はずっとその言葉に追いかけられている気がする。
自分がどう思ったかではない。
相手が何を信じたか。
相手がどう動いたか。
相手がどう保護されるべきか。
看板を信じた人を、誰が守るのか。
そして今度は、債権者をどう守るのか。
「では、仮にアルマーシュ、リュカオンの荷受業者、ダール商会が連帯して債務を負ったら」
「債権者は、アルマーシュ商会に全額請求することもあり得ます」
「私たちだけに?」
「はい」
「他の二人に言って、とは言えないの?」
「外の債権者に対しては、その主張だけで拒むことは難しいです」
「では、払いっぱなし?」
「内部では調整できます」
「内部」
「あとで、負担割合に応じて求償する話です」
「求償」
また硬い言葉が増えた。
「つまり、先に払わされて、あとで他の人に返してと言う?」
「大ざっぱには」
「嫌だわ」
「帳簿上も、あまり好ましくありません」
ロッテは真顔で言った。
それはそうだろう。
「では、連帯しない方がいいのではなくて?」
「そう単純でもございません」
ノアが答えた。
「連帯して責任を負うからこそ、取引先が契約に応じる場合もございます。信用を補う機能があります」
「信用を補う」
「はい。特に今のアルマーシュ商会は、信用不安を抱えております」
さらりと言われたが、刺さる。
婚約破棄から始まった信用不安。
それがいま、運送契約にも、織物にも、香料にも、全部影を落としている。
「連帯は、怖いけれど信用にもなるのね」
「はい」
ノアはうなずいた。
「ただし、誰と連帯するかを誤ると、他人の危険まで引き受けます」
「それ、かなり大事では?」
「はい。かなり大事でございます」
ロッテが、補助簿の赤線の隣に灰色の印を付けた。
「今の確認は灰色です」
「どうして青字ではないの?」
「まだ理解確認中です」
「厳しいわ」
「連帯は危険ですので」
私は唇を尖らせた。
だが、納得はした。
手をつなぐように聞こえる言葉ほど、実務では怖い。
「では、連帯保証は?」
私が聞くと、ロッテはほんの少しだけ顔を引き締めた。
それまで微かに揺れていたカーテンが止まった。
風が途切れたらしい。
部屋の中には、時計の針が進む音だけが残った。
「こちらは、さらに誤解が多いです」
「保証なら、困った時に助ける人でしょう?」
「赤字にしますか?」
「まだ質問よ」
「では、説明します」
ロッテは別紙を出した。
薄い紙だった。
けれど、その白さが妙に冷たく見えた。
「保証は、主たる債務者が債務を負い、保証人がその支払いを支える関係です」
「それは分かるわ」
「ですが商法では、主たる債務が商行為によって生じた場合、または保証自体が商行為である場合には、保証債務は当然に連帯保証となります」
「当然に」
「はい」
「特に、連帯します、と言わなくても?」
「はい。要件に当たれば」
誰も、すぐには次の言葉を発しなかった。
ただの保証だと思って署名した紙の裏側で、いつの間にか「連帯」という文字が立ち上がる。
そんな想像が浮かんだ。
呼んでもいないのに。
明確に手を取ったつもりもないのに。
気づけば、債権者の前では、主たる債務者の隣に並ばされている。
机の上の紅茶からは、まだ細い湯気が立っている。
けれど、指先だけが少し冷たかった。
私は椅子の背にもたれた。
「商法、油断ならないわね」
「商いは速いので」
「速いと怖くしていいの?」
「怖くしないと回収できない場面があります」
ロッテの言い方は冷静だった。
けれど、少しずつ分かってきた。
商法は、誰かを困らせるために厳しいのではない。
動いている取引を止めないため。
信じて動いた人を宙ぶらりんにしないため。
支払われるべきものを回収できるようにするため。
たぶん、だから民法より少し速く、少し厳しく、少し現実的なのだ。
「この確認書では、誰が保証しているの?」
ノアが答えた。
「ダール商会が、共同積載分の運送費について保証人を立てています」
「なら、ダール商会の問題では?」
「保証人がクライン商会の関連業者です」
私は動きを止めた。
「クライン」
「はい」
「またヴィオラ?」
「ヴィオラ様ご本人ではございません。クライン商会傘下の信用保証部門です」
「信用保証部門」
恋敵の家から、どんどん商業的な単語が出てくる。
やめてほしい。
いや、やめなくていい。
でも、心の準備が追いつかない。
「つまり、クライン商会はこの運送契約にも関わっているの?」
「周辺におります」
ノアが言った。
「周辺にいる、という言い方が怖いわ」
私は思わず部屋の隅を見た。
もちろん、そこには誰もいない。
豪奢な壁紙と、花を生けた細身の花瓶があるだけだ。
けれど一度意識すると、契約書の端にも、運送費の欄にも、保証人の名称にも、クラインという影が薄く差しているように感じる。
「資本力のある商会は、直接の売買だけでなく、運送、保証、保管、金融に近い部分にも関わります」
「恋敵というより、商圏ではなくて?」
「はい」
ロッテが即答した。
「お嬢様が感情で見ている間に、クライン商会は商圏として動いております」
私は胸を押さえた。
「今日一番刺さったわ」
「青字にしますか?」
「今の私の痛みを?」
「現実認識です」
「なら、青字にして」
ロッテは少しだけ考えて、青い印を付けた。
冷えていた机の上へ、小さく色が戻った。
「信用回復項目です」
「痛みが青字になるのね」
「理解に至れば」
「厳しい世界だわ」
そのとき、ノアが確認書の一部を指した。
「お嬢様。問題はこちらでございます」
私は文面を読む。
共同積載に伴い生じる運送費および保管費については、アルマーシュ商会、ダール商会、リュカオン荷受組合が連帯して責任を負うものとする。
私は一文字ずつ読んだ。
連帯して責任を負う。
さきほどまでなら、「皆で協力するのね」と思ったかもしれない。
けれど今は違う。
債権者から見れば、全員に全額。
誰か一人が払えなければ、他の者へ。
あとで内部調整できるとしても、まず外から請求される可能性がある。
「……これ、危ないわ」
私が言うと、ロッテが補助簿に青い線を引いた。
「青字です」
「今のは自分でも分かったわ」
「分かったことを残すのも大事です」
ノアが静かに微笑む。
「お嬢様。どのように修正されますか」
「このまま署名はしない」
「はい」
「連帯の範囲を限定する。アルマーシュが責任を負うのは、自分たちの荷と、自分たちが指示した保管費に限るようにする」
ノアは静かにうなずいた。
「よろしいかと存じます。ほかに確認されるべき点はございますか」
「ダール商会の共同積載分まで、こちらが全額責任を負う形にはしない。リュカオン荷受組合の過失による保管費も、当然には負わない」
ロッテの青字が増えた。
小さな青い印が並んでいく。
先ほどまで冷たく見えた白い紙が、今度は少しずつこちらの側へ戻ってくるようだった。
少し気分がいい。
「それから、クライン商会関連の保証が入るなら、保証の範囲と相手方を確認する。誰が、誰の、どの債務を保証するのかを曖昧にしない」
ノアの目が、少しだけ柔らかくなる。
「大変よいご判断です」
「差し出がましい、は付けないの?」
「私は執事でございますので、許される範囲で申し上げます」
「許される範囲が広いわね」
「お嬢様のためですので」
ロッテが小さく咳払いをした。
「なお、青字が増えました」
「今日の収支は?」
「午前中の赤字を一部相殺しました」
「相殺した!」
「ただし、累積では」
「言わなくていいわ」
私は慌てて止めた。
空気が少しだけ軽くなる。
止まっていたカーテンも、再び風を受けて揺れ始めた。
累積という言葉は危険だ。
ロッテの補助簿の累積赤字は、たぶん見てはいけない。
私はもう一度、確認書を見る。
連帯。
美しい言葉に見える。
社交界なら、手を取り合うこと。
苦しい時に支え合うこと。
同じ目的へ進むこと。
けれど、契約書では違う。
誰と手をつなぐかを間違えれば、他人の荷物まで背負う。
その代わり、信用を得るために、その重さを引き受けることもある。
だから連帯は、甘い言葉ではない。
契約書の中では、重い言葉だ。
私は確認書の余白に、修正すべき箇所をひとつずつ書き込んだ。
婚約破棄された令嬢として泣くはずだった私が、今は連帯責任の範囲を直している。
人生とは、分からない。
けれど、ひとつだけ分かった。
綺麗な言葉ほど、中身を確認しなければならない。
連帯。
それは、手をつなぐことではない。
少なくとも、契約書の中では。
手をつなぐ前に、誰の荷物を持つのか確認しなければならない。
「では、お嬢様」
ノアが、私の書き込みを確認しながら言った。
「こちらの修正案は、私の方で契約文案に整えます」
「お願い」
「はい。ただし、その前にもう一点だけ」
私はペンを持ったまま、ゆっくり顔を上げた。
「もう一点?」
「はい」
ノアは別の小さな書類を机に置いた。
今度は薄い。
薄いが、薄い書類ほど油断ならないことを、私はすでに学び始めている。
「こちらは、今回の確認と調整に関する外部補助者からの費用明細でございます」
「費用明細」
ロッテの目が、すっと細くなった。
「報酬項目ですね」
嫌な響きだった。
連帯保証のような底知れなさはない。
だが、こちらはこちらで確実に財布へ届く怖さがある。
「待って。まだ何も頼むとは言っていないわ」
「お嬢様」
ロッテが静かに言った。
「商人が営業の範囲内で他人のために行為をした場合、特約がなくても相当な報酬を請求できる場面があります」
「……特約がなくても?」
「はい」
「善意で助けてくれたのではなくて?」
「善意は尊いです」
ロッテは明細書を私の前に置いた。
「ですが、帳簿上は報酬科目です」
ノアが穏やかに紅茶を差し替える。
新しい紅茶の香りが、冷えていた空気をゆっくりほどいていく。
「少し休憩を入れましょうか」
「入れていいの?」
「はい。紅茶を飲みながら、報酬と利息のお話を」
「それは休憩ではないわ」
「お嬢様のお心に配慮した、柔らかな続行でございます」
私は紅茶を見た。
香りは甘い。
焼き菓子まで添えられている。
しかし机の上には、費用明細。
ロッテの補助簿には、朱書きの線。
青字で少し進み。
赤字を少し減らし。
その先で、新しい費用が待っている。
商会再建とは、どうやらそういうものらしい。
私は焼き菓子をひとつ取った。
「せめて、食べ終わるまでは説明を始めないで」
「承知いたしました」
ノアが微笑む。
ロッテは補助簿を開いたまま、私を待っている。
「ロッテ」
「はい」
「その朱書き、焼き菓子を食べる間だけ閉じておいて」
「報酬科目は消えません」
「知っているわ。見えないようにしてほしいの」
ロッテは一瞬考え、それから補助簿を閉じた。
「では、一時保管といたします」
「何でも帳簿の言葉にするのね」
「必要ですので」
どうやら、まだ屋敷の奥へ帰ることは許されないらしい。
けれど、紅茶は温かかった。
少なくとも、連帯保証よりは。
ロッテの帳簿メモ
本日の項目
商事債務の連帯債務・連帯保証
商法では、数人が、その一人または全員のために商行為となる行為によって債務を負担したときは、各債務者は連帯してその債務を負います(商法第511条)。
つまり、契約書に特別な定めがなくても、商法の要件を満たす場合には、法律上当然に連帯債務となります。
また、主たる債務が商行為によって生じた場合、または保証そのものが商行為である場合には、その保証人は連帯保証人となります(商法第512条)。
そのため、商法では「保証だからまず主たる債務者へ請求してください」という前提ではなく、保証人にも直接請求できる場面が生じます。
お嬢様向け整理
連帯債務は、単純に人数で割る話ではありません。
債権者から見ると、各連帯債務者は、それぞれ全額について責任を負います。
そのため、三人の連帯債務であっても、債権者は一人に全額請求することができます。
もっとも、実際に一人が多く支払った場合には、他の連帯債務者に負担割合に応じた返還(求償)を求めることができます。
これはあくまで債務者同士の内部調整であり、債権者への支払義務とは別問題です。
また、商法では一定の場合に保証が当然に連帯保証となるため、
誰が保証人なのか
誰の債務を保証するのか
保証の範囲はいくらなのか
は契約書で必ず確認しましょう。
ロッテ補助簿・本日の色分け
「皆で少しずつ払うのね」
→ 赤字。損失予備軍です。
「債権者から見れば、全員に全額」
→ 要暗記です。
「内部では求償できる」
→ 灰色。ここまで理解すると実務が見えてきます。
「このまま署名はしない」
→ 青字。信用回復項目です。
「連帯の範囲を限定する」
→ 青字。大変よいご判断です。
「報酬項目ですね」
→ 朱書き。次回処理です。
本日のひとこと
連帯は、仲良く分け合う意味ではありません。
契約書では、
「誰と手をつなぐのか」ではなく、
「誰の責任まで一緒に背負うのか」
を確認してください。




