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第9話:孤独な令嬢の涙と、初めての「ありがとう」

 極上のなめらかプリンを綺麗に平らげた後、俺とセリアはバルコニーに面した絨毯の上に座り込み、積み木遊びをしていた。

 木製の素朴な積み木を、俺が隠密魔法でこっそりバランスを補正しながら高く積み上げると、セリアは「わぁっ!」と瞳を輝かせて喜んだ。


「るぅく、すごい! こんなにたかく積めるなんて!」

「へへっ、でしょ? 倒れないようにもういっこ乗せてみるよ」

「わたしも! わたしも乗せる!」


 無邪気に笑い合う五歳児たちの微笑ましい光景。

 だが、その間も俺は彼女の体内に微弱な『光』と『水』の魔力を流し続け、瘴気の残滓がないか定期的にモニタリングを行っていた。


(うん、瘴気の蓄積は完全にゼロだ。精神状態も極めて安定している)


 彼女の屈託のない笑顔を見ていると、この子がのちに世界を滅ぼしかける残虐な悪役令嬢になるなど、到底信じられない。

 だが、ふとした瞬間に、セリアの笑顔がスッと曇ることがあった。

 俺が高く積み上げた積み木が、バランスを崩してガラガラと音を立てて崩れた時だ。


「あ……」

「あーあ、倒れちゃったね。でも大丈夫、もう一回作ろう」


 俺が明るく声をかけても、セリアは崩れた積み木を見つめたまま、膝を抱え込んで小さくなってしまった。

 その小さな背中には、五歳の子供に似つかわしくない、深く暗い孤独の色が張り付いていた。


「……るぅく。わたしね、ずっと、こわかったの」


 ぽつりと、掠れた声が落ちた。

 俺は積み木を拾う手を止め、彼女の隣にそっと座り直した。


「わたしがちょっと怒ったり、悲しかったりすると……お部屋の中のものが、勝手に飛んでいって、こわれちゃうの。まどガラスが割れて、花びんが割れて……メイドさんたちが、みんな血を出して、わたしから逃げていくの」

「……うん」

「わたし、そんなことしたくないのに。みんなをいじめたくないのに……からだの中が、ずっと黒くて冷たいものでいっぱいで。どうしていいか、わからなかったの」


 ぎゅっと膝を抱え込むセリアの肩が、小刻みに震え始める。


「おとうさまも、わたしのお部屋に来てくれなくなったわ。わたしが、悪い子だから……みんなを傷つける、悪い子だから、おとうさまもわたしが嫌いになっちゃったの。お母様みたいに、わたしを置いていっちゃうの……」


 その言葉に、俺は胸の奥がギリッと締め付けられるのを感じた。


 ローズグレイ伯爵は、決して娘を愛していないわけではない。むしろ、妻を亡くしてからというもの、一人娘のセリアを不器用ながらも溺愛していたはずだ。

 だが、彼は貴族の当主であり、この領地を治める責任者だ。彼自身もまた、領地の瘴気を引き受ける防波堤としての役目を担っており、常に身を削って公務に当たっている。

 それに加え、強大すぎる才能ゆえに五歳にして瘴気を吸い込み始めてしまった娘に対し、父親としてどう接していいか分からず、無意識に距離を置いてしまっていたのだろう。


(すれ違いと、言葉不足。……典型的な、バッドエンドに向かうためのご都合主義シナリオだ)


 俺は小さく息を吐き出した。

 シナリオライターとして、この親子の背景は誰よりも理解している。

 だからこそ、セリアが抱える「自分が悪い子だから嫌われた」という誤解だけは、今ここで絶対に解いておかなければならない。


「……セリア。こっちを向いて」


 俺が静かに呼びかけると、セリアは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 俺は彼女の小さな両手を、自分の手で優しく包み込んだ。


「セリアは、悪い子なんかじゃないよ」

「でも……わたし、みんなに痛いこと、したわ……」

「それは、セリアがわざとやったわけじゃないでしょ? それにね、セリアが苦しかったのには、本当はすごく優しい理由があるんだよ」


 俺は五歳の子供にも伝わるように、言葉を慎重に選びながら、ゆっくりと語り始めた。


「このお屋敷の周りの外の世界にはね、目には見えない『悪い空気』がいっぱいあるんだ。その悪い空気は、放っておくと村の人たちを病気にしちゃう怖いものなんだよ」

「……わるい、くうき?」

「そう。でも、セリアの家族……ローズグレイ家の人たちは、すごく強い魔法の力を持ってる。だから、その悪い空気が村の人たちのところに行かないように、自分たちの身体で一生懸命吸い込んで、守ってあげているんだ」


 セリアの薔薇色の瞳が、驚きに見開かれる。

 もちろん、五歳の子供に『瘴気の防波堤』なんて残酷なシステムを完全に理解させるのは難しい。だが、自分が無意味に苦しんでいたわけではないということは伝わるはずだ。


「セリアは風魔法の才能がすごく強かったから、お父様やお母様と同じように、五歳にしてその悪い空気を吸い込めるようになっちゃったんだよ。からだの中が黒くて冷たかったのは、セリアがみんなの代わりに、その悪い空気と戦ってくれていたからなんだ」


「わたしが……みんなの代わりに?」


「うん。だから、お部屋のものが壊れちゃったのも、セリアが悪い子だからじゃない。セリアが一人で、みんなを守るために一生懸命戦って、我慢して、痛くて限界だったからだよ。……セリアは、誰よりも優しいから、あんなに苦しかったんだ」


 俺の言葉を聞いて、セリアはポカンと口を開けたまま、瞬きを繰り返した。

 自分が暴走していたのは、嫌われ者の悪い子だからではない。

 本当は、誰かを守るための力だった。


 その事実が彼女の中でゆっくりと消化されていくにつれ、せき止めていた感情のダムが決壊したように、彼女の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。


「るぅく……っ」

「うん」

「わたし、わるいこじゃ、ない……?」

「うん。セリアは、世界で一番優しくて、いい子だよ。俺が保証する」

「おとうさまは……わたしを、きらいじゃない……?」

「絶対に嫌いなわけないよ。お父様は、お仕事がすごく忙しいのと、セリアが苦しんでるのをどうやって助けたらいいか分からなくて、悲しかっただけだと思う。お父様はセリアのこと、世界で一番大切に思ってるよ」


 俺が言い切ると、セリアは俺の胸に飛び込んできた。

 小さな両手で俺の背中を強く掴み、声を上げて泣きじゃくる。


「うわぁぁぁぁぁんっ……! よかったぁ……わたし、わたしっ……!」


 ずっと張り詰めていた「自分が悪い」という自責の念。

 孤独と恐怖の中で、誰にも言えなかった不安。

 それが、俺の言葉によって完全に氷解していくのを感じた。


 俺は彼女の背中を、落ち着くまでずっと、何度も何度も優しく撫で続けた。


「……ひぐっ、ぐすっ……るぅく」

「ん?」

「ありがとう……。わたしのこと、たすけてくれて。わたしに、おしえてくれて……」


 涙で濡れた顔を上げ、セリアは俺に最高の笑顔を向けてくれた。


「るぅくに会えて、わたし、ほんとうによかった……。ありがとう、るぅく」


 それは、ただのモブキャラである俺に、悪役令嬢が初めて向けてくれた、明確で純粋な「ありがとう」だった。


(……ああ、やっぱり。俺は、この子の笑顔を守りたかったんだ)


 前世で自分が書いた理不尽なシナリオ。

 そこで使い捨ての悪役として消費されるはずだった少女は、こんなにも優しくて、温かい心を持っている。

 それを知ることができただけでも、この世界に転生した意味があったと、俺は本気で思えた。


「俺の方こそ、ありがとう。セリアと友達になれて、すごく嬉しいよ」


 俺が微笑み返すと、セリアはえへへと照れくさそうに笑い、もう一度俺の胸に顔を埋めた。


     * * *


 その頃。

 セリアの部屋の分厚い扉の向こう側で。


 当主であるアルバート・フォン・ローズグレイ伯爵は、壁に背を預け、音を立てないように静かに目頭を押さえていた。

 彼の傍らには、控えていた執事長がハンカチで涙を拭っている。


 伯爵は、セリアの様子を見に来ていたのだ。

 だが、中から聞こえてきた平民の少年の言葉に、扉を開けることができなくなってしまった。


『セリアはお部屋のものが壊れちゃったのも、セリアが悪い子だからじゃない。みんなを守るために一生懸命戦って、我慢して、限界だったからだよ』


 その言葉は、父親である伯爵自身が、娘にかけてやらなければならない言葉だった。

 瘴気の防波堤としてのローズグレイ家の業。それを五歳の娘に背負わせてしまった罪悪感から、彼は無意識に娘から目を逸らしてしまっていたのだ。

 自分が目を逸らしていた間、娘がどれほどの孤独と恐怖の中で「自分が悪い子だから嫌われた」と泣いていたか。それをただの五歳の平民の少年に指摘され、伯爵は己の不甲斐なさに打ちのめされていた。


「……執事長」

「は、はい。旦那様……」

「私は、父親失格だな。あんな小さな子供に、私のすべきことを全てやらせてしまった」

「そんなことはございません。旦那様もまた、領地のために限界まで魔力をすり減らしておられます。誰にも責めることはできません」


 執事長の慰めの言葉に、伯爵は力なく首を振った。


「あの少年……ルークと言ったか。トマスの息子だそうだな」

「はい。まだ五歳ですが、とても賢く、心優しい少年にございます」

「……我がローズグレイ家の『裏の役目(瘴気の防波堤)』については、一族とごく一部の側近しか知らないはず。なぜ、あの子がそれを知っていたのか……いや、今はそんなことはどうでもいいか」


 伯爵は扉越しに聞こえる、娘の弾むような笑い声に耳を傾けた。

 妻が亡くなってから、あんなに楽しそうに笑う娘の声を聞いたのは初めてだった。


「ルークには、どれだけ感謝しても足りないな。あの子は、娘の命と心だけでなく、父親としての私の目まで覚ましてくれた」


 伯爵は決意を込めた瞳で、立ち上がった。


「執事長。明日、ルークを私の執務室へ呼んでくれ。トマスも一緒で構わん」

「かしこまりました。……何をご予定で?」


 伯爵はフッと、憑き物が落ちたような穏やかな顔で笑った。


「決まっている。我が娘を救ってくれた英雄に、ふさわしい『地位』を与えるためだ」


 孤独だった令嬢の心は救われ、運命の歯車は本来のシナリオを大きく逸脱して回り始める。

 ただの「料理人の息子モブ」に過ぎなかった俺の立場が、明日、屋敷を揺るがす特大の昇格イベントを迎えることなど、今はまだ知る由もなかった。

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