第8話:胃袋を掴め!前世知識の絶品スイーツ
セリアの魔力暴走事件から、数日が経過した。
あの日、俺が瘴気を浄化して以来、ローズグレイ伯爵邸を包んでいたピリピリとした緊張感は嘘のように消え去っていた。荒れ狂っていた風の刃はもう吹かず、屋敷の中には久しぶりに穏やかで平和な時間が流れている。
そして事件の翌日、俺は父トマスと共に、当主であるアルバート・フォン・ローズグレイ伯爵の執務室に呼び出された。
平民の料理人の息子が、大貴族の当主と直接顔を合わせるなど本来ならあり得ないことだ。だが、伯爵の目の下には濃い隈が刻まれており、貴族としての威厳よりも、一人の父親としての疲労と安堵が勝っているように見えた。
『娘の暴走を止めてくれたこと、心から感謝する。魔法使いでもない平民の子供がどうやって……と不思議ではあるが、セリアが「ルークが痛いのを消してくれた」と言って聞かないのでな。褒美は何が良い?』
そう尋ねる伯爵に対し、俺はただ一つだけお願いをした。
――『お嬢様と毎日遊ぶお許しが欲しいです』、と。
金貨でも特権でもなく、ただ「友達になりたい」と願う五歳児の無邪気な申し出に、伯爵は毒気を抜かれたように笑い、「よかろう、自由に出入りを許す」と快諾してくれたのだ。
これで堂々とセリアの部屋に通う口実ができた。
彼女の精神を苛んでいた『瘴気』はあの日完全に浄化したが、領地の地理的な問題と彼女の才能が変わらない限り、放っておけばまた数ヶ月後には瘴気が溜まってしまう。それを防ぐためにも、俺が定期的に彼女の手を握り、『完全浄化』の魔法をこっそりかけ続ける必要があるのだ。
* * *
「ルークくん。本当に助かるわ、お嬢様はあなたが来るのを心待ちにしておいでよ」
「こんにちは、アンナさん!」
屋敷の廊下で、セリア専属のメイドであるアンナが俺の姿を見るなりホッと胸を撫で下ろした。
だが、彼女の表情には少しばかりの不安が陰っている。
「ただ……お嬢様、最近少し食欲が落ちてしまってね。暴走の時に体力を使い果たしてしまったのと、ずっと胃腸が弱っていたせいで、お食事を半分も召し上がらないの。このままではお身体に障るのだけど……」
「食欲がない……そっか。アンナさん、俺に任せて!」
「え? ルークくん?」
俺はアンナにパタパタと手を振って、来た道をUターンして一階の厨房へと駆け出した。
(いくら瘴気を抜いて精神が安定したとはいえ、身体の疲れまでは魔法じゃ治せない。五歳の子供なら、しっかり食べて寝るのが一番の回復魔法だ)
厨房に飛び込むと、父トマスが巨大な鍋でスープの仕込みをしている最中だった。
「お父さん! お願いがあるんだ!」
「おお、ルーク。どうした、お嬢様とお遊びの時間じゃないのか?」
「お嬢様、ご飯があんまり食べられないんだって。だから、お父さんに特別なお菓子を作って欲しいの!」
俺の言葉に、トマスは鍋をかき混ぜる手を止めて腕を組んだ。
「ふむ……食欲がないのか。なら、消化が良くて栄養があって、それでいて喉越しが良くて甘いものがいいな。ゼリーか、果物のコンポートあたりか……」
「ううん、もっとすごいやつ! 卵の黄身とお乳とお砂糖を混ぜて、お鍋でトロトロに蒸すお菓子がいいな! あと、上にはお砂糖を焦がした苦くて甘いソースをかけるの!」
「……卵と乳を蒸す? 砂糖を焦がしたソースだと?」
トマスは目を丸くした。
それもそのはず。この世界には、卵や牛乳を使ったパンや焼き菓子はあるが、現代日本における『なめらかプリン』の概念は存在しない。固く茹でた卵料理か、せいぜい甘くない茶碗蒸しのような郷土料理があるくらいだ。
「なんだい、その不思議な料理は。どこでそんな作り方を覚えてきたんだ?」
「えへへ、夢の中で妖精さんが教えてくれたの! お父さんなら絶対に美味しく作れるよ!」
子供の特権『夢の妖精さん(前世の現代知識チート)』のゴリ押しである。
トマスは「妖精さんか、そいつは敵わないな」と苦笑いしながらも、腕まくりをして調理台の前に立った。彼は平民だが、名門ローズグレイ伯爵家で腕を振るう一流の料理人だ。俺の拙い説明だけでも、すぐに頭の中でレシピを構築し始めた。
「よし、やってみよう。卵黄と牛乳、砂糖を混ぜて濾すんだな。蒸すといっても、火が強すぎれば卵が固まりすぎてボソボソになるはずだ。湯を張った鍋の中に器を置いて、間接的にじっくりと火を通す『湯煎焼き』が良さそうだ」
「さすが、お父さん!」
そこからは、俺とトマスの連携作業(という名の秘密の魔法チート)だった。
トマスが絶妙な手つきで卵液を作り、陶器の器に流し込んでいく。それを湯を張った平鍋に並べ、蓋をして火にかけた。
(プリン作りで一番難しいのは、火加減だ。少しでも温度が高すぎると、卵液が沸騰して中に気泡の穴『す』が入ってしまう)
トマスが火の番をしている横で、俺は踏み台に乗って鍋を見つめ、テーブルの下で隠れるように指先を動かした。
発動するのは『水』と『火』と『風』の並列魔法。
水魔法と火魔法で鍋の中の湯の温度をピンポイントで『八十五度』に固定し、さらに風魔法で鍋の中の蒸気を均一に循環させる。温度計もオーブンもないこの世界で、生みの親の超精密コントロールによる、絶対に失敗しない「全自動・温度管理システム」の完成だ。
「……ふむ。薪の火加減が妙に安定しているな。今日の俺は調子がいいぞ」
魔法のサポートに気づいていないトマスは、ご機嫌に頷いている。
その間に、別の小鍋でカラメルソース作りだ。
「お砂糖にお水を少し入れて、焦がすんだよね?」
「ああ。だが砂糖を焦がすのは時間との勝負だ。少しでも目を離せばただの苦い炭になっちまう」
鍋の中で砂糖がグツグツと泡立ち、次第にキツネ色に変わっていく。
甘い匂いが少しずつ焦げた香ばしい匂いへと変わった瞬間、俺の「現代スイーツの記憶」が今だ!と告げた。
「お父さん、今だよ! お水を入れて!」
「よしきた!」
トマスが素早くお湯を注ぎ込むと、ジュワァッ!という音と共に、見事な琥珀色をしたカラメルソースが完成した。
やがて、湯煎にかけていたプリンも蒸し上がる。
氷水でしっかりと粗熱を取り、上から琥珀色のカラメルソースをとろりと流しかければ――現代日本の叡智と魔法の結晶、『究極のなめらかカスタードプリン』の完成だ。
「こいつは……驚いた。卵と乳が、まるで宝石みたいに輝いてやがる」
「すっごく美味しそう! ありがとうお父さん、お嬢様のところに持っていくね!」
「ああ、落とさないように気をつけろよ!」
銀のトレイにプリンを乗せ、俺は意気揚々とセリアの部屋へ向かった。
* * *
コンコン、とノックをして部屋に入ると、バルコニーに続く窓際のソファで、セリアが絵本を膝に置いてしょんぼりと座っていた。
「セリアお嬢様、こんにちは!」
「あ……るぅく……」
俺の顔を見た瞬間、セリアの薔薇色の瞳がパァッと輝き、ソファからぴょこんと飛び降りて小走りで駆け寄ってきた。
暴走事件のあの日以来、すっかり俺に懐いてしまった彼女は、俺が部屋に来るたびにこうして尻尾を振る子犬のように出迎えてくれる。後の『悪役令嬢』の面影など微塵もない、ただの愛らしい五歳の女の子だ。
「具合はどう? アンナさんが、ご飯あんまり食べられてないって心配してたよ」
「う、うん……なんだか、おなかがすかなくて。でも、るぅくがきてくれたから、げんきになったわ」
「そっか。でも、ちゃんと食べないと大きくなれないよ。だから、今日はとびきり美味しい特別なお菓子を持ってきたんだ」
俺が銀のトレイをテーブルに置くと、セリアは不思議そうに小首を傾げた。
陶器の器の中には、淡い黄色のぷるぷるとした物体と、その上にかかった琥珀色のソース。
「これ……なに? おかし?」
「『プリン』っていうんだ。俺と父さんの自信作だよ。はい、あーんして」
俺が銀の小さなスプーンでプリンをすくい、彼女の口元へ差し出す。
セリアは少しだけ迷った後、小さく口を開けて、それをぱくりとくわえ込んだ。
「……!!」
その瞬間。
セリアの肩がビクッと跳ね、両手で自分の頬をパシッと押さえた。
「おいしいっ……!!」
薔薇色の瞳が、これ以上ないほど見開かれている。
舌の上でとろけるような滑らかな卵の食感。濃厚な牛乳のコクと、上品な砂糖の甘み。そして何より、全体を包み込むカラメルソースのほろ苦さが、甘さを引き立てて無限に食べられそうな後味を作り出している。
固いパンやクッキーなどの素朴なお菓子しか食べたことのないこの世界の人間にとって、現代スイーツの破壊力はまさに「暴力」と言ってもいいレベルだ。
「るぅく、これ、あまいのに、すこしにがくて……でも、とけちゃう! かまなくても、とけちゃうの!」
「ふふっ、美味しい? もっと食べる?」
「たべる! わたし、もっとたべたい!」
さっきまで食欲がなかったのが嘘のように、セリアは自分でスプーンを握り、夢中になってプリンをすくい始めた。
ぷるん、ぱくっ。ぷるん、ぱくっ。
リスのように頬を膨らませて食べる姿は、見ているこっちの頬が緩んでしまうほど微笑ましい。
(よしよし、大成功だ。これで栄養もカロリーもバッチリ補給できる)
生みの親の知識(現代チート)で、悪役令嬢の胃袋を完全にロックオンした瞬間である。
あっという間に器を空にしたセリアは、口の周りに少しだけカラメルをつけたまま、幸せそうにふにゃぁと笑った。
「すっごくおいしかった……。るぅくのおとうさまは、まほうつかいなの?」
「ううん、ただの料理人だよ」
「じゃあ、るぅくがまほうつかいなの?」
「俺もただの料理人の息子だよ」
俺が笑ってごまかしながら、ナプキンで彼女の口元を拭いてやると、セリアはギュッと俺の服の袖を握りしめた。
「……ううん。るぅくは、ただのこどもじゃないわ。わたしの、いたいのも消してくれて……こんなにおいしいものも、もってきてくれる」
セリアは上目遣いで、俺の目をじっと見つめてきた。
その瞳には、五歳児とは思えないほどの深い信頼と、一途な光が宿っていた。
「るぅくは、わたしの『おうじさま』だわ」
「…………っ」
不意打ちのストレートな好意の言葉に、中身は三十代の男である俺の方が思わず顔を熱くしてしまった。
ゲーム本編の攻略対象である王太子(第一王子)や天才魔術師たちには絶対に見せない、素直で真っ直ぐな笑顔。
「……大げさだよ、お嬢様。俺はただ、お嬢様に笑っていてほしいだけだもん」
「セリア、でいいわ」
「え?」
「おじょうさまじゃなくて、セリアってよんで。るぅくは、わたしのとくべつなおともだちだもの」
身分制度が厳しいこの世界において、貴族の令嬢を呼び捨てにするなど不敬罪で首が飛んでもおかしくない行為だ。
だが、誰もいないこの部屋で、俺をまっすぐに見つめる彼女の願いを無下にはできなかった。
「……わかった。セリア」
「えへへ……。ねえ、るぅく。あしたも、そのつぎのひも、ずっとわたしとあそんでくれる?」
「もちろん。セリアが望むなら、いつだって側にいるよ」
俺が約束すると、セリアは花が咲いたような満面の笑みで「やくそくね!」と俺の手に自分の小指を絡めてきた。
その時、俺は密かに彼女の体内へ『完全浄化』の魔力を流し込み、微かに溜まり始めていた瘴気の欠片を消し去った。
この笑顔を守るためなら、バグ技でも没魔法でも、なんだって使ってやる。
孤独だった悪役令嬢の心と胃袋を完全に掌握した俺は、絶対に彼女と家族を死なせないという決意を、静かに、そして強固に固めるのだった。




