第7話:規格外のモブが示す光。セリアを蝕む瘴気の浄化
荒れ狂う風の刃が吹き荒れる部屋の中心。
俺が伸ばした手が、うずくまるセリアの小さな手に触れた瞬間だった。
「ひっ……!」
ビクッと、彼女の肩が大きく跳ねた。
無理もない。今まで近づこうとした大人たちは皆、彼女の無意識の魔法に弾き飛ばされるか、恐れをなして逃げていったのだ。
だが、俺は逃げない。繋いだ手をしっかりと握り込み、彼女の怯えた瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「大丈夫。もう、一人で頑張らなくていいんだよ」
そう優しく語りかけながら、俺は自身の内側に広がる膨大な「魔力の海」から、必要な属性のエネルギーを慎重に汲み上げた。
セリアの精神を乱し、魔力を暴走させている元凶は、領地から無意識に吸い上げてしまった『瘴気』だ。
本来のゲームシナリオにおいて、この瘴気を完全に浄化できるのは、ヒロイン・アリスが持つ希少な『光魔法』だけとされている。
だが、俺の肉体は属性パラメータが未設定(null)のまま放置されたバグの産物。基本四属性はおろか、ヒロインの専売特許であるはずの光魔法すらも、何の制限もなく通してしまう『空白の器』なのだ。
(とはいえ、ただ力任せに光魔法をぶつけるだけじゃ駄目だ。瘴気と光の魔力が体内で激しく衝突すれば、五歳の身体には負担が大きすぎる)
ゲームなら「状態異常回復」のコマンドを一つ選ぶだけで済む話だが、現実の肉体で行うとなれば、外科手術のような精密さが求められる。
俺は目を閉じ、繋いだ手を通じて、セリアの体内を流れる魔力器官へと意識を潜り込ませた。
――視えた。
本来なら澄んだ翡翠色をしているはずの彼女の風の魔力に、ドロドロとしたタールのような黒いモヤが深く絡みついている。これが瘴気だ。
この黒いモヤが彼女の神経を逆撫でし、絶え間ない頭痛と恐怖、そして周囲を傷つける破壊衝動を引き起こしているのだ。
(これを、俺の魔力で直接『上書き(デバッグ)』する)
俺は息を細く吐き出し、三つの魔法を同時に、極小の出力で練り上げた。
一つ目は、光の魔法。
二つ目は、水の魔法。
三つ目は、風の魔法。
ただ瘴気を光で焼くのではない。
微弱な『光』で黒いタールの毒性を中和して浮かせ、それを清らかな『水』で洗い流し、最後に俺の『風』で彼女の体内から体外へと優しく押し出す。
名付けるなら、複合属性による『完全浄化』だ。
この二年間、家事手伝いという名の地獄の隠密特訓で培った、俺の超精密魔力コントロールの集大成である。
「……すぅぅ……っ」
俺の手のひらから、ほんのりと温かい、淡い金色の光がこぼれ落ちる。
それはセリアの手の甲から静かに染み込み、彼女の血管と魔力回路を巡り始めた。
「あ……」
セリアの小さな唇から、驚きの声が漏れた。
彼女の視点から見れば、わけもわからずずっと苦痛だった身体の中に、突然、春の陽だまりのような温かくて優しいものが流れ込んできた感覚だろう。
(よし、上手くいってる。このまま瘴気の根源を……)
俺はさらに集中力を高め、彼女の胸の奥底――心臓付近にこびりついていた最も濃い瘴気の塊に狙いを定めた。
そこには、五歳の子供が背負うにはあまりにも重すぎる、恐怖と孤独の感情が激しく渦巻いていた。
『こわい』『いたい』『だれかたすけて』『どうしてわたしだけ』
『おとうさま、わたしをひとりにしないで』
瘴気に触れた瞬間、彼女の心の奥底からの悲鳴が、俺の脳裏に直接流れ込んできた。
それは、ゲームのテキストには決して描かれなかった、一人の少女の血の通った絶望だった。
胸が張り裂けそうになった。
こんな理不尽な設定を思いつき、ディレクターの指示通りに書き殴ったのは俺だ。
ヒロインを輝かせるための「都合の良い悪役」にするために、この小さな女の子にこんな地獄のような苦しみを与えていたのだ。
「……ごめんな」
思わず、口から謝罪の言葉がこぼれた。
「俺が、全部悪かった。君をこんな目に遭わせて、本当にごめん」
彼女には何のことか分からないだろう。だが、俺は謝らずにはいられなかった。
同時に、腹の底から静かな怒りが湧き上がってくる。
ディレクターへの怒りではない。安易な絶望を消費物として扱った、前世の自分自身への怒りだ。
(こんなふざけた呪い、俺が全部消し去ってやる!)
俺は魔力の出力を一段階引き上げた。
淡い金色の光がセリアの体内を駆け巡り、黒いタールを次々と光の粒子へと変えていく。
痛みを伴わない、ただただ温かくて優しい光の奔流。
それが、彼女の身体を蝕んでいた瘴気を完全に洗い流し、清らかな風となって体外へと霧散していった。
フゥッ……。
最後に、セリアの口から黒い息が細く吐き出されると同時に。
部屋の中で荒れ狂っていた竜巻のような暴風が、嘘のようにピタリと止んだ。
パリン、と。
空中で浮かんでいたガラスの破片や装飾品が、重力を取り戻して床に落ちる音が響く。
先ほどまでの嵐が幻だったかのように、室内には完全な静寂が戻っていた。
「……あれ……?」
セリアは、呆然とした様子で自分の両手を見つめた。
いつも頭を締め付けていたガンガンという痛みが消えている。肌を刺すような寒気も、抑えきれないイライラも、すべてが嘘のように消え去っていた。
そして何より、自分の内側から暴走していた魔力が、穏やかなそよ風のように静まっているのが分かったのだ。
「ほら。痛いの、飛んでいったでしょ?」
俺がニコッと笑いかけると、セリアは弾かれたように俺の顔を見た。
その薔薇色の瞳には、先ほどまでの怯えや敵意は微塵もない。ただ、信じられないほどの奇跡を目の当たりにしたような、純粋な驚きと安堵があった。
「あなたが……してくれたの……?」
「俺は、おまじないをしただけだよ。お嬢様が、頑張って悪い夢に勝ったんだ」
俺はあくまで「不思議な力を持つ子供」ではなく、「ただの平民の子供」としての振る舞いを崩さない。
だが、そんな俺の言葉など耳に入っていないかのように、セリアの大きな瞳から、ポロポロと新しい涙がこぼれ落ち始めた。
「ひぐっ……うわぁぁぁぁぁんっ!!」
それは、怒りや恐怖の涙ではない。
ずっと張り詰めていた糸が切れ、安心感から子供らしく泣きじゃくる、年相応の女の子の涙だった。
セリアは俺の首に両腕を回し、小さな身体を押し付けて大声で泣き出した。
「よしよし。もう大丈夫、誰も怖くないからね」
俺は戸惑うことなく、彼女の背中を優しく一定のリズムでトントンと叩いた。
精神年齢は三十代の俺が、五歳児の身体で同い年の女の子をよしよしとあやしている図は端から見れば滑稽かもしれないが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
彼女は、生まれて初めて「瘴気の痛み」から解放されたのだ。今はただ、心おきなく泣かせてやるのが一番の薬だ。
* * *
「お、お嬢様!!」
「ルーク! 無事か!!」
風が完全に止んだことに気づいた大人たちが、弾かれたように部屋の中へと雪崩れ込んできた。
先頭を切ってきたのは執事長と、血相を変えた父トマスだ。その後ろには、武装した騎士たちと青ざめたメイドたちが続いている。
彼らが目にしたのは、家具が倒れ、壁が抉れた凄惨な部屋の中心で、平民の少年に抱きついてワンワンと泣いている伯爵令嬢の姿だった。
「こ、これは一体……? 風が、止んでいる……?」
「ルーク! 怪我はないか! お嬢様に何をされたんだ!?」
慌てて駆け寄ってくるトマスに、俺はセリアの背中を撫でながら、あどけない笑顔を向けてみせた。
「お父さん、大丈夫だよ! お嬢様、すごく怖い夢を見てたみたいで、泣いてたんだ。だから、俺が『痛いの痛いの飛んでいけー』ってしたら、泣き止んだの!」
「……は?」
「な、なんだと……?」
執事長とトマスは、揃って間の抜けた声を上げた。
そりゃそうだ。熟練の魔術師や騎士でさえ手出しできなかった暴走を、五歳の平民の子供が「おまじない」で止めたなど、常識的に考えてあり得ない。
だが、現実に暴風は止み、セリアからは先ほどまでの禍々しい魔力の気配が完全に消え去っている。
「う……ひぐっ……るぅく……」
大人たちが集まってきた気配に気づき、セリアはビクッと身体を震わせ、俺の服をギュッと強く握りしめた。
まだ、周囲の大人たちに対して恐怖心が残っているのだ。
「お嬢様、大丈夫だよ。ほら、みんなお嬢様が心配で来てくれたんだ」
俺が優しく諭すと、セリアは俺の肩に顔を埋めたまま、チラリと執事長たちの方を見た。
「……ごめんな、さい。わたし……おへや、こわして……みんな、いじめて……」
掠れた声で、彼女はぽつりと謝罪を口にした。
その言葉に、執事長はハッと息を呑み、目頭を押さえてその場に跪いた。メイドたちの中にも、安堵から涙ぐむ者がいる。
彼らもまた、本当はセリアが優しい子であることを知っていたのだ。ただ、魔力の暴走にどう対処していいか分からず、怯えていただけだった。
「とんでもございません、お嬢様……! ご無事で、本当によかった……!」
執事長が震える声でそう言うと、部屋の中にホッとした空気が広がった。
「あ、そうだ! お嬢様、泣いたらお腹空かない? お父さんがね、すっごく美味しいクッキーを焼いてくれたんだ!」
俺は空気を変えるように明るく言い、床に置いてあったバスケットを拾い上げた。
幸いなことに、俺が「風の結界」で守っていたため、バスケットの中のクッキーは一つも割れることなく無事だった。
蓋を開けると、蜂蜜と木の実の甘く香ばしい匂いがふわりと漂う。
セリアはピクッと鼻を動かし、泣きはらした目をこすりながらバスケットの中を覗き込んだ。
「これ、わたしがすきなやつ……」
「そうだよ。はい、あーん」
俺が星型のクッキーを一つ手に取り、彼女の口元に差し出す。
セリアは一瞬戸惑ったものの、小さく口を開けてサクッとクッキーをかじった。
甘い蜂蜜の味が口いっぱいに広がったのだろう。
セリアの瞳がパァッと輝き、薔薇色の頬がほんのりと緩んだ。
「……おいしい」
それは、彼女がここ数ヶ月間、一度も見せることのなかった年相応の無邪気な笑顔だった。
その天使のように愛らしい笑顔を見て、後ろにいたメイドたちが「ああ……っ」と感極まったように泣き崩れるのが見えた。
(……ああ、やっぱり、クズなんかじゃない。こんなに可愛い、普通の女の子じゃないか)
俺は心の中で、前世のディレクターに向かって中指を立てた。
悪役令嬢化フラグ? 断罪イベント?
そんなふざけたシナリオは、俺が絶対に許さない。
俺が書いた理不尽な世界で、こんなにも無垢な笑顔を見せてくれたこの子を。
そして、俺に無償の愛を注いでくれる両親を。
モブである俺が、生みの親の権限を総動員して、絶対に守り抜いてみせる。
「ルークの、おとうさんが、つくったの?」
「うん! 俺の父さん、世界一の料理人だからね! 俺も少し手伝ったんだよ」
「ルークも……?」
セリアは俺の顔とクッキーを交互に見つめ、嬉しそうにふふっと笑った。
「ありがとう、ルーク」
それは、孤独だった悪役令嬢が、俺というただのモブキャラに心を開いた、記念すべき第一歩だった。
こうして、ローズグレイ伯爵邸を揺るがせた令嬢の暴走事件は、一人の平民の少年による謎の「おまじない」によって、幕を閉じたのである。




