第6話:伯爵邸への初訪問。荒れ狂う風の暴走
父トマスが執事長に掛け合ってから数日後。
俺の「セリアお嬢様の遊び相手になりたい」という無謀にも思える提案は、驚くほどあっさりと受理された。
どうやら伯爵邸の状況は、父さんが夕食の席で語っていた以上に切羽詰まっていたらしい。
五歳にして強大な風魔法を無意識に暴走させるセリアに、使用人たちは怯えきってしまい、まともな世話すら困難な状況に陥っていたのだ。貴族の子供たちはおろか、大人でさえ近づくのを嫌がる中、「遊び相手になりたい」と自ら名乗り出た同年代の子供の存在は、頭を抱えていた執事長にとって藁にもすがる思いだったのだろう。
「いいかルーク。伯爵様のお屋敷では、絶対に勝手な真似をしてはいけないぞ。粗相があれば、父さんでもお前をかばいきれないかもしれないからな」
「うん、分かってるよ、お父さん! 大人しくしてる!」
よく晴れた日の午前。
俺は、普段着よりも少しだけ上等な(といっても平民の子供が着る粗末なものだが)服に身を包み、父トマスと手を繋いでローズグレイ伯爵邸の前に立っていた。
王都の貴族街のさらに奥、広大な敷地を有するローズグレイ伯爵邸。
高くそびえる豪奢な鉄柵の門と、その奥に見える白亜の洋館は、俺が前世でデザイナーに何度もリテイクを出して完成させた『ルミナス・ナイツ』の背景グラフィックそのものだった。
画面越しに見ていた壮麗な建物を実際に見上げる日が来るとは、なんとも感慨深い。
もっとも、平民の料理人とその息子である俺たちが、正門から堂々と入れるわけもない。
屋敷の裏手にある使用人専用の通用口から中に入り、俺たちはまず、父の職場である広大な厨房へと足を踏み入れた。
「おお、トマス! その子が噂の息子さんか」
「ええ、ルークです。ほらルーク、皆さんに挨拶しなさい」
「ルークです! 今日はよろしくお願いします!」
厨房で忙しく働く料理人やメイドたちに、俺は五歳児らしく元気いっぱいに頭を下げた。
愛嬌のある子供の登場に、厨房の空気はわずかに和んだ。だが、皆の顔には隠しきれない疲労と、どこかピリピリとした緊張感が張り付いているのが分かった。
「……トマス。息子さんを連れてきてくれたこと、心から感謝する」
そう言って厨房の奥から現れたのは、初老の初老の男性だった。
ピシッと糊の効いた燕尾服を着こなしているが、その目の下には濃い隈ができている。彼がこの屋敷の執事長だ。
「執事長様。お嬢様のご様子は……?」
「芳しくない。今朝からずっとご自分の部屋に閉じこもられたままで、朝食にも手をつけられておらん。近づこうとしたメイドが、突風で壁に叩きつけられてしまってな……」
執事長は深くため息をつき、俺の前にしゃがみ込んだ。
「ルーク君だったね。君の勇気ある申し出には感謝している。だが、無理はしなくていい。少しでも危ないと思ったら、すぐに逃げなさい。お嬢様は、決して悪い方ではないのだが……今は、お心がひどく乱れておいでなのだ」
「大丈夫だよ! 俺、足が速いから!」
執事長は痛ましげに顔を歪め、俺の頭を撫でた。
父トマスは、すでに厨房のオーブンで焼き上げていた甘い香りのするバスケットを俺に手渡した。
「父さん特製の、蜂蜜と木の実のクッキーだ。お嬢様はこれが大好きでな。これを一緒に食べて、お話ししてくるといい」
「うんっ! 行ってくるね!」
俺がバスケットを抱え直した、その時だった。
――ガシャアアアアアアンッ!!
突如、屋敷の上層階から、硬いガラスが粉々に砕け散る激しい音が響き渡った。
それと同時に、「ひいっ!」「お嬢様、おやめください!」というメイドたちの悲鳴が廊下に響き渡る。
「またか! 急いでお嬢様のお部屋へ向かえ!」
執事長の血相が変わり、厨房にいた大人たちが一斉に慌ただしく動き始めた。
父トマスも「ルーク、ここで大人しく待っているんだぞ!」と言い残し、様子を見るために廊下へと飛び出していく。
大人たちが浮足立ち、完全に俺から注意が逸れたこの状況。
俺は内心でニヤリと笑い、誰にも見つからないように厨房の影からスッと身を翻し、大人たちとは別の階段を使って上層階へと駆け上がった。
* * *
二階、三階と階段を上るにつれ、屋敷の空気が明確に変わっていくのが分かった。
(……重い。肌にまとわりつくような、嫌な空気だ)
冷たくて、粘り気のある、ひどく不快な魔力の残滓。
ただ魔力が強いだけではない。これは、人間の負の感情を煽り、精神を蝕む毒素だ。
間違いない。俺自身が設定資料に書き起こした、ダークファンタジーの根幹を成す邪悪なエネルギー――『瘴気』だ。
ローズグレイ伯爵家の直系血族は、領地に集まる瘴気を自らの身に引き受ける防波堤の役目を持っている。
本来なら、心身ともに成熟した大人が行うべき過酷な役目だ。だが、五歳にして規格外の魔法の才能を持ってしまったセリアは、無意識のうちにその瘴気を吸い寄せてしまっている。
彼女が癇癪を起こし、暴れ回っているのは、ワガママだからではない。
瘴気によって増幅された恐怖と混乱、そして身を焼くような痛みに、五歳の小さな心が耐えきれずに悲鳴を上げているのだ。
「っ……!」
廊下の角を曲がると、豪華な両開きの扉の前で、数人のメイドと護衛の騎士たちが立ち往生しているのが見えた。
扉の隙間からは、ビュウビュウと不気味な風切り音が漏れ出し、時折、見えない刃のような突風が廊下にまで吹き荒れている。
壁のタペストリーは無惨に引き裂かれ、床の大理石には鋭い傷跡が無数に刻まれていた。
「駄目だ、近づけない! 風の刃が鋭すぎる!」
「誰か伯爵様をお呼びして! このままではお嬢様の魔力が尽きて倒れてしまうわ!」
大人たちが右往左往し、誰も部屋に入れない状況。
俺は、焦る大人たちの足元をすり抜けるようにして、誰にも気づかれない「隠密状態」のまま扉の前に立った。
(風の刃……なるほど、強力だけど制御は全くされていない。ただ魔力がダダ漏れになっているだけだ)
俺は片手をそっと前に出し、無詠唱で極小の魔力を練り上げた。
発動するのは、同じ「風」の魔法。
ただし、俺の放つ風は攻撃のためではない。セリアの放つ荒れ狂う風の魔力波長を瞬時に読み取り、その『位相を完全に反転させた風』を自分の周囲に薄く展開するのだ。
音の波を別の音の波で打ち消すノイズキャンセリングのような原理。これは、この二年間で俺が死に物狂いで身につけた「超精密魔法コントロール」の賜物だ。
俺は静かに、両開きの重い扉を押し開けた。
室内に入った瞬間、外とは比べ物にならないほどの暴風が俺の小さな身体を襲った。
「――っ、あっちへいって! こないでぇっ!」
部屋の中心。
吹き荒れる竜巻のような突風の真ん中で、一人の小さな少女がうずくまっていた。
薔薇色がかった美しい銀色の髪は乱れ、上等なドレスは彼女自身の放つ風の刃でところどころ破れている。
両手で頭を抱え、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、近づく者すべてを拒絶するように泣き叫ぶ少女。
のちに『悪役令嬢』として恐れられることになる、セリア・フォン・ローズグレイの本当の姿。
(……なんて小さいんだ。こんな小さな体で、ずっと一人で瘴気に耐えてたのか)
胸の奥が、ギリッと締め付けられた。
『悪役なんだから、同情の余地がないくらいヘイトを稼ぐようにクズっぽく描いて』
前世のディレクターの心無い指示。それに従い、キーボードを叩いて彼女に呪いをかけたのは、他でもない俺自身だ。
画面越しのテキストなら、どれだけ残酷な設定でも平気で書けた。だが、目の前でボロボロになって泣いている五歳の女の子を前にして、心が痛まない人間がどこにいる。
ヒュンッ!
俺の存在に気づいたセリアの無意識の防衛本能が、鋭い風の刃となって俺の首筋をめがけて飛んできた。
大人の騎士なら首が飛んでいてもおかしくない一撃。
だが、その不可視の刃は、俺の皮膚に触れる数ミリ手前で、俺が展開していた『反転の風』に衝突し、音もなくフッと霧散した。
「……えっ?」
自分の放った魔法が全く効かず、ただの平民の子供が平然と嵐の中を歩いてくるのを見て、セリアは涙で濡れた薔薇色の瞳を丸くして固まった。
暴風が吹き荒れ、調度品が宙を舞う部屋の中。
俺は一切の風圧を感じさせない足取りで、彼女の目の前まで歩み寄った。
「こんにちは、セリアお嬢様」
俺はニコッと、五歳児らしい(そしてほんの少しだけ計算された)安心させるような満面の笑みを浮かべた。
「あのね、俺の父さんが、お嬢様が大好きなクッキーを焼いたんだ。俺、ルークっていうの。一緒に食べよう?」
俺が差し出した甘い匂いのするバスケットと、嵐の中で全く傷一つ負っていない俺の姿を交互に見つめ、セリアは信じられないものを見るようにポカンと口を開けた。
「あなた……いたくないの……? わたしの、かぜ、こわくないの……?」
「全然痛くないし、怖くないよ。俺、風と遊ぶの得意だもん」
俺はもう一歩踏み出し、彼女と同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。
間近で見ると、彼女の白い肌の表面には、うっすらと黒いモヤのような『瘴気』がまとわりついているのがはっきりと見えた。
これが彼女の精神を苛み、魔力を暴走させている元凶だ。
なら、話は早い。
生みの親である俺が、システムをバグらせて手に入れたこの「全属性適性」と「規格外の魔力」を使って。
お前を苦しめる理不尽な設定(呪い)なんて、全部ぶっ飛ばしてやる。
「それに、お嬢様。すごく痛くて、苦しかったんでしょ。……もう、大丈夫だよ」
俺はバスケットを持たない方の手を伸ばし、彼女の小さな震える手の上に、そっと自分の手を重ねた。
その瞬間、俺と悪役令嬢の、本当の意味での物語が幕を開けた。




