第5話:異常な魔法制御(コントロール)と、孤独な悪役令嬢の噂
材置き場の奥底に眠る『没オブジェクトの女神像』による、絶対的な魔力拡張の成功。
あの日から、俺の生活には決して欠かすことのできない「日課」が加わっていた。
毎日、夕暮れ時になると母マリアの目を盗み、平民区の西端にある廃材置き場へと足を運ぶ。そして、誰にも見向きもされない苔生す石の塊にそっと触れ、システムからの『魔力器官の強制拡張』を受けるのだ。
それから、二年の歳月が流れた。
俺は五歳になった。
「ルーク、悪いけどお鍋の火加減を見ててくれる? お母さん、裏の井戸までお水を追加で汲んでくるから」
「はーい、任せてお母さん!」
夕方の台所。空になった木桶を抱えてマリアが外へ出て行ったのを確認し、俺は踏み台に乗って煮込み鍋の中身を木べらでゆっくりとかき混ぜた。
鍋の下では、パチパチと音を立てて薪が燃えている。火力が少し弱くなっているのを確認し、俺は周囲に誰もいないことをもう一度確かめてから、指先から微弱な魔力を放った。
まずは「風」の魔法。空気中の酸素を細い糸のように束ねて、燃えかけの薪のピンポイントな位置へと送り込む。
次に「火」の魔法。目には見えないほどの極小の火種を生み出し、酸素の糸と衝突させて小さな爆発を起こす。
シュボッという微かな音と共に、薪が再び勢いよく燃え上がり、鍋底を適切な温度で包み込んだ。
さらに、鍋の中身が沸騰して吹きこぼれないよう、「水」の魔法で鍋の表面の温度だけをミリ単位で下げ、一定の温度を保たせる。
風、火、水。
三つの異なる属性の魔法を、完全な無詠唱、かつ魔力発光を極限まで抑え込んだ「隠密状態」で同時に発動する。
「ふぅ……マルチタスクでの並列処理も、だいぶ安定してきたな」
俺は額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、一人ごちた。
この二年間、俺は一日も欠かさず女神像に触れ続け、魔力の上限値を拡張し続けた。
現在の俺の魔力量は、ヒロインの初期値の優に数百倍――いや、数千倍を超えている。みぞおちの奥にあった「水たまり」は今や底知れない「海」となり、俺自身ですら全力を出せばどうなるか見当もつかないほどだ。おそらく、ゲーム終盤のボスクラスすら軽く凌駕する魔力タンクを保有している。
だが、魔力が莫大になればなるほど、その「制御」は困難を極める。
少しでも気を抜けば、蛇口が吹き飛ぶように魔力が暴発してしまう。そのため俺はこの二年間、日常のあらゆる家事手伝いを「極限の魔法特訓」へと昇華させてきた。
薪の火起こし、部屋のホコリを外に集める風魔法、洗濯物を一瞬で乾かす温風魔法。どれも親にバレないよう、息をするように自然に、かつ精密に発動させる特訓だ。
結果として、俺は五歳にして、王宮の筆頭魔術師ですら一生かかっても到達できないであろう『超精密・無詠唱・複数属性並列発動』という異常な技術を身につけていた。
「ただいま。あら、いい匂い。ありがとうルーク、上手に火の番ができたわね」
「えへへ、お父さんの真似っこだよ!」
戻ってきたマリアに褒められ、俺は魔法の痕跡を完全に消し去りながら、五歳児らしい無邪気な笑顔を振りまいた。
やがて、夕闇が完全に空を覆う頃。ローズグレイ伯爵家の厨房での仕事を終えた父トマスが、重い足取りで帰宅した。
「あなた、おかえりなさい。……どうしたの? すごく疲れた顔をしているわ」
「ああ、ただいまマリア、ルーク。……いや、仕事自体は順調なんだが、少しお屋敷の空気が重くてな」
夕食の席につき、マリアの作った温かいスープを一口すすったトマスは、深く重いため息をついた。
俺はスプーンを持つ手を止め、父の顔を見上げた。普段は豪快で明るいトマスが、家で仕事の愚痴をこぼすなど滅多にないことだ。
「お屋敷で何かあったの?」
「ルークには難しい話かもしれないが……。最近、伯爵様の一人娘であるセリアお嬢様が、ひどく荒れておいででな」
その名前に、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
――セリア・フォン・ローズグレイ。
本来のゲームシナリオにおける最大の障害であり、のちにヒロインたちによって断罪され、破滅を迎える『悪役令嬢』。
「どう荒れているの……?」
「よく癇癪を起こしては、使用人たちに物を投げつけたり、食事をひっくり返したりするらしいんだ。この前も、お世話係のメイドが飛んできた花瓶を避けきれずに額を切ってしまってな。五歳の子供とは思えないほどの強い魔力がこもった風が吹くそうで、誰も近寄れなくなっているんだ」
「まあ……あんなに天使のように可愛らしかったお嬢様が?」
マリアが口元を押さえて驚きの声を上げる。トマスは暗い顔で頷いた。
「奥様が亡くなられてから、伯爵様はお仕事にかかりきりで、お嬢様はいつも広いお屋敷でお一人だ。寂しさから心が荒んでしまっているのだろう。……お可哀想に。俺の作ったお菓子を食べて、あんなに嬉しそうに笑ってくださっていたのにな」
トマスは心底同情しているように眉を下げたが、俺はスプーンを握りしめながら、内心で激しく首を振っていた。
違う。寂しさも理由の一つではあるが、根本的な原因はそこじゃない。
ローズグレイ伯爵家が治めるこの領地は、地理的に世界に蔓延る『瘴気』が集まりやすい吹き溜まりの土地だ。
そして、伯爵家の直系血族は、その瘴気が領民に被害を出さないよう、自らの魔力と肉体を防波堤にして瘴気を吸い寄せ、浄化するという残酷な「裏の役目」を密かに背負っている。
五歳になったセリアは、その桁外れに強力な風魔法の才能ゆえに、無意識のうちに領地の周囲の瘴気を体内に取り込み始めてしまっているのだ。
瘴気は人の精神を蝕み、負の感情――怒り、悲しみ、攻撃性を極端に増幅させる。彼女が我がままで残忍な『悪役令嬢』へと歪んでいくのは、彼女自身の性格が悪いからでは決してない。
すべては、五歳の小さな心と身体が、領民を守るための瘴気に耐えきれず、悲鳴を上げているだけなのだ。
(当時のディレクターの『悪役なんだから、同情の余地がないくらいヘイトを稼ぐようにクズっぽく描いて』って指示のせいで……俺が、そういう風に設定を書いちゃったから……っ)
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
画面の向こうのデータだった頃は、ただの「悲惨な裏設定」という美味しいフレーバーテキストでしかなかった。
だが、ここは現実だ。五歳の小さな女の子が、俺の書いた理不尽な設定のせいで、今この瞬間も瘴気に精神を侵食され、誰にも理解されないまま暗闇の中で一人苦しんでいるのだ。
「同年代の子供なら、少しは気が紛れるのかもしれないんだがな……。だが、貴族の子供たちはお嬢様の荒れっぷりを怖がって、誰も寄り付かないらしい。このままでは、お嬢様は本当に心を閉ざしてしまう」
トマスのその言葉に、俺は顔をバッと上げた。
これだ。この機会を逃す手はない。俺がセリアに接触するための、最初で最大のチャンス。
「お父さん!」
「ん? どうしたルーク」
「俺、そのセリアお嬢様とお友達になりたいな! 一緒に遊んであげたい!」
俺は身を乗り出し、精一杯の「無邪気で心優しい子供」を演じてトマスに訴えかけた。
トマスもマリアも、まさかの提案に目を丸くして驚いている。
「ル、ルーク? お前のその優しい気持ちは父さんも嬉しいが、お嬢様は貴族で、お前は平民だぞ? それに、今はとてもご機嫌が斜めで、魔法が飛んでくるかもしれない。怪我をするぞ」
「大丈夫だよ! 俺、走るのも避けるのも、村の子供たちの中で一番得意だもん!」
実際には、常時展開している不可視の風の結界で花瓶だろうが魔法だろうが完璧に弾き落とせるのだが、それは言えない。
「それに、お嬢様が寂しいなら、俺がいっぱいお話しして、笑わせてあげる! お父さんがお菓子を作るなら、俺がそれを持って行って、一緒に食べるよ!」
「ルーク……」
トマスは困惑しつつも、俺の真っ直ぐな瞳に見つめられ、やがてふっと目尻を下げた。
彼は平民でありながら、仕える主の娘を心から案じる善良な男だ。だからこそ、自分の息子の純粋な(ように見える)善意を、無下にはできなかったのだろう。
「……そうだな。我が息子ながら、お前のその優しさと度胸には恐れ入るよ。伯爵様も、お嬢様の遊び相手を身分問わずに探して頭を抱えておられた。明日、執事長に少し相談してみよう」
「本当!? やったー! ありがとう、お父さん!」
表面上は無邪気に喜びながら、俺の心の中は静かな、しかし確かな闘志で燃え上がっていた。
悪役令嬢セリアの破滅は、俺たち家族がスケープゴートにされる処刑エンドに直結している。
彼女の心を救い、瘴気から守り抜き、善良で幸せな道へと導くこと。それができれば、十二年後の断罪イベントの前提そのものが完全に崩壊する。
(待ってろよ、セリア。俺が書いた理不尽な呪いは、生みの親である俺が全部解いてやる)
全属性を操る規格外のモブと、絶望の淵にいる孤独な悪役令嬢。
運命の出会いの時は、すぐそこまで迫っていた。




