第6話
第6話 甘い朝の余韻
「ん、ふあ」
差し込む朝日のまぶしさに目を覚ますと、そこには見慣れてきた、何度見ても心臓が止まりそうになるほど美しい壁がありました。壁ではありません。私を抱きしめたまま眠っているアルヴィン様の胸板です。昨夜、彼は宣言通り、私がもう無理です、幸せすぎて頭が真っ白ですと泣いて、情熱的な愛を注ぎ続けてくれました。名残が、体の節々の心地よい怠さと、首元に残された熱い痕跡として刻まれています。どうにかなりそうです。
「リリアーナ。起きたのかい?」
頭上から降ってきたのは、寝起き特有の少しかすれた低音ボイス。アルヴィン様は腰を引き寄せると、寝癖のついた私の髪に愛おしそうに鼻先を寄せました。
「お、おはようございます、アルヴィン様。あの、もう日が高いですよ。セシルさんが呆れてしまいます」
「いいんだ。主人が愛する妻と朝の時間を惜しむのは、公爵家の正当な権利だ。それに君を浄化しすぎて、私の魔力は、みなぎっている」
アルヴィン様の瞳が怪しく光ります。呪われていた頃の彼の魔力を破壊と苦痛にしか使えませんでした。ですが、私の浄化の魔力と混ざり合うことで、彼の力は領地を守る鉄壁の守護力へと進化しています。
「さあ、着替えようか。今日は君に見せたいものがあるんだ」
何かしら。ちょっと楽しみです。そう言って私を抱き上げ、お姫様抱っこでバスルームへ運ぼうとする公爵様。今日も私の心臓は、朝から全力疾走を強いられるようです。
朝食を済ませ、アルヴィン様に連れられて向かったのは、領地で最も高い丘の上でした。
そこには、呪いの墓場と呼ばれ、鉄柵で封印されていた広大な土地が広がっています。しかし今の光景は。
「きっ、綺麗! これ、全部お花ですか?」
視界の端から端までを埋め尽くすのは、淡い紫色の小さな花々でした。とても綺麗な光景。
「リリアーナ・リリー」
と、いつの間にか領民たちが名付けた。
領民が名前をつけていました。花は私の魔力に反応して咲き続け、周囲に精神を安定させる芳醇な香りを漂わせています。
「花の香油は隣国の王侯貴族の間で、一滴で不眠が治る奇跡の雫として高値で取引されている。エリオット王子が軍を引き連れてきたのも、実はこの経済的価値に目をつけたからという側面もあるだろう」
アルヴィン様は花を一輪摘み、私の耳元に飾ってくれました。想定していたよりも多くの利益をもたらせているようです。私としても嬉しい。
「君が歩くだけで、荒れて、呪われていた地は富を生む。王都を追放された時、君は無能と呼ばれたと言ったね。現実には、君こそがこの大陸で最も価値のある資産なんだよ」
「資産だなんて、そんな」
「謙そんはいらない。だからこそ、守りを固めなければならないんだ」
アルヴィン様の表情が、少しだけ険しくなりました。
「エリオットのような小物なら私が何度でも追い払う。次はそうもいかないかもしれない」
確かに王子がこのまま引っ込むとは考えられないか。
「何か、不穏な動きがあるのですか?」
「隣国の神聖オーギュスト帝国だ。あそこは聖女を崇拝する教国でもある。我が領地が浄化され、真の聖女が現れたという噂を聞きつけ、彼らが聖女選定の儀式への参加を呼びかけてきている」
聖女選定。聞いたことはある。それは、数年に一度、大陸中から魔力を持つ乙女を集め、最も優れた一人を世界の守護者として認定する儀式だった。選ばれれば神の如き権威を得ますが、同時にその身は公共の財産として、特定の誰かの妻になることは禁じられるというもの。
「アルヴィン様のそばにいたいです。誰の所有物にもなりたくありません」
彼の衣の裾をぎゅっと握ると、アルヴィン様は満足そうに目を細め、私の額を自分の額にこつんと当てました。
「分かっている。神にだって、君は渡さない」
神様にもですか。
その日の午後、公爵邸に一台の豪華な馬車が到着しました。エリオット王子の軍勢とは違い、白と金を基調とした、どこか神聖な雰囲気な馬車です。現れたのは、長い金髪をなびかせた、高慢そうな美少女でした。誰だろうな。
「お初にお目にかかりますわ、ラザフォード公爵閣下。私はオーギュスト帝国より参りました、聖女候補のステラと申します」
彼女は私をチラリと見て、あからさまに鼻で笑いました。ずいぶんと態度が上から目線なこと。
「あら、あなたが噂の追放令嬢? 確かに多少の浄化の力はあるようですが、お顔立ちは地味ですし、着ているドレスも洗練されていませんわね。公爵様も、お可哀想に。こんな田舎娘に頼らなければならないほど、呪いが深刻だったのかしら?」
「何ですって、田舎娘?」
私が言い返す前に、室内の空気が一瞬で凍りつきました。アルヴィン様の背後に、物理的な影が立ち上ります。
「ステラ嬢。貴女が帝国の使者でなければ、この瞬間にその舌を引き抜いていたところです」
アルヴィン様の声には、一切の慈悲がありませんでした。本気の意味に聞こえた。
「私のリリアーナを侮辱することは、私を殺そうとすることと同義だ。用件だけ言ってください。さもなくば、その豪華な馬車ごと領地から叩き出すことになります」
ステラは一瞬、アルヴィンの気迫に顔を青くしましたが、すぐに扇で顔を隠してた。
「ふふ、失礼いたしました。用件は一つです。来月、帝都で行われる、聖女選定の儀。リリアーナ様、あなたにも出席の招待状が届いています」
彼女は一枚の金縁の封筒をテーブルに置きました。聖女選定の儀に私も出ろと。
「もし出席を拒否すれば、ラザフォード領は神の力を独占する背徳の地として、帝国と王国、双方から制裁を受けることになりますわ。まあ、自信がないなら逃げ出してもよろしくてよ、偽物の聖女様」
ステラは勝ち誇ったような笑みを残し、風のように去っていきました。勝つ気満々の顔です。
「リリアーナ、行かなくていい」
ステラが去った後、アルヴィン様は私を背後から抱きしめ、離そうとしませんでした。手は微かに震えています。
「帝国は狡猾だ。君を聖女として認定した後、強制的に教会の聖域へ幽閉し、私から引き離そうとするだろう。制裁など、私がすべて跳ね返してやる。だから」
「アルヴィン様」
彼の大きな手に、自分の手を重ねました。気持ちはわかっています。
「逃げたくありません。逃げれば、せっかく幸せになった領地の皆さんが、また不安に包まれてしまいます。それに」
振り返り、彼の紫の瞳を真っ直ぐに見つめました。
「ステラ様に言われた偽物という言葉。私個人はどうでもいいのですが、私の力を信じてくれているアルヴィン様の審美眼まで馬鹿にされたようで、それが一番許せないんです」
アルヴィン様は驚いたように目を見開きました。
「リリアーナ、君は、いつの間にそんなに強くなったんだ」
「きっと、あなたに愛されているから強くなれているのかも」
微笑むと、アルヴィン様は観念したようにため息をつき、私をベッドへと押し倒しました。
「分かった。君がそこまで言うなら、君の騎士として、帝都まで同行しよう。一つだけ約束してくれ」
「はい、何でしょうか?」
「儀式の最中、どれだけ神聖な力が溢れようと、君の心は私のものだと、肌身離さず思い出させてあげる。今夜も、明日も、儀式の前夜まで、毎日ね」
アルヴィン様の熱い口づけが、鎖骨から胸元へと降りてきます。幸せすぎて、少しだけ怖くなる。彼の隣にいる限り、どこまでも強くなれる気がしました。私とアルヴィンを引き離そうとするのに負けたくない。幸せを離さないわ。
王宮を追放された無能令嬢と呪われた公爵。誰にも邪魔させない。




