第5話
第5話
「リリアーナ、ここから一歩も出てはいけないよ。いいかい、お願いではなく命令だ」
アルヴィン様の瞳は、いつになく真剣で、冷たい炎が宿っていました。私を抱きしめる腕の力が少しだけ強まり、彼の心臓の鼓動が直接伝わってきます。ドク、ドクと。音は私を失うことを恐れている騎士の鼓動のようでした。大丈夫かしら。
「アルヴィン様。私なら大丈夫です。あの人たちに、もう怯えたりしません」
「分かっている。私の視界の外で君に不浄な者が触れること自体、耐え難い屈辱なんだ」
彼は私の額に、まるで刻印を押すように深く、長く口づけを落とすと、迷いなく部屋を出て行きました。背中には、恐れられた死神公爵の威厳と、愛する者を守り抜く執念がありました。
◆
ラザフォード公爵領の境界線。過去には瘴気に覆われ、誰も近づかなかった場所に、エリオット王子率いる王軍の先遣隊が陣を敷いていた。
「な、なんだこれは。報告以上じゃないか」
馬上でエリオットは絶句した。聞いていたのは地獄のような呪いの地だった。目の前に広がるのは、黄金色に輝く小麦の海と、色とりどりの花々が咲き乱れる楽園。反対に王都では結界が弱まり、庭園の木々が枯れ果て、どんよりとした曇り空が続いているというのに、この地だけは神に祝福されたかのように、まばゆい光に満ちている。
「殿下、あそこを見てください! 城門の前を!」
騎士が指差す先。そこには、漆黒の軍馬にまたがり、銀に輝く鎧を着た一人の男が待ち構えていた。
「アルヴィン・ド・ラザフォード」
エリオットが名を呼んだ。現れた男は鉄の仮面を被った怪物ではなかった。風に揺れる夜色の髪、鋭くも美しい紫の瞳。あまりの神々しさに、王軍の兵士たちの間からは、敵であることも忘れて溜息が漏れていた。
「久しいな、エリオット王子。我が領地に軍を向けるとは、宣戦布告と受け取って構わないのか?」
アルヴィンの声は低く、地を這うような威圧感を持って響き渡った。
「黙れ、呪われた公爵! 貴様、リリアーナを何らかの術でたぶらかしたな! 彼女は我が国の聖女であり、私の婚約者だ。今すぐこちらへ引き渡せ」
引き渡さないと死ぬぞという意味であった。
「婚約者? 聞き捨てならないな。彼女を無能とののしり、慰謝料代わりに死の地へ追いやったのは貴様だろう。その時点で、彼女との縁は永遠に断たれたのと気づけよ」
「あれは一時的な試験だったのだ! 彼女の忠誠心を試したに過ぎん!」
エリオットの苦しい言い訳に、アルヴィンは冷たく鼻で笑い返す。
「試験か。その試験の結果、リリアーナは私を選んだ。彼女はこの地の主であり、私の魂の救済者だ。王子のような、手の中にある宝の価値も分からぬ愚か者に、二度とリリアーナの指先一つ触れさせはしない」
「貴様! 全軍、突撃だ! 公爵を捕らえ、リリアーナを奪還せよ!」
エリオット王子が怒りに達する。剣を振り上げ、号令を下した瞬間だった。
◆
「そこまでになさい!」
凛とした声が、戦場に響き渡りました。アルヴィン様の制止を振り切り、屋敷のバルコニーから魔法の道を通って転移してきた私が、光の翼を背負って空中に現れたのです。
「リ、リリアーナ!」
エリオット王子が目を見開きます。驚いてますね。そこにいたのは、王宮では、ひざまずき、泥を被っていた地味な令嬢ではありませんでした。白銀のドレスを身につけ、溢れんばかりの聖なる魔力を放つ、真の聖女としての姿。私ですよ王子。これが今の私です。今さらって感じですよ。
「エリオット殿下。私はもう、あなたの所有物ではありません。この土地と土地に生きる人々、アルヴィン様こそが、私の守るべき全てです。王子ではない」
「リリアーナ、何を言っている! 私のもとに戻れば、王太子妃の座を約束してやる! 呪われた公爵など捨てて、華やかな王都へ戻るんだ!」
「華やかな王都? 王都がどうなっているか、ご存知ないのですか?」
私は静かに手をかざしました。すると空中に鏡のような光の幕が現れ、今の王宮の惨状を映し出します。枯れ果てた庭園、瘴気に苦しむ民衆、私がいなくなったことで制御を失い、崩壊を始めた結界。
「私を捨てたのは、王子です。私の力を侮り、心を壊そうとしたのは、エリオット王子です」
私の言葉に合わせて、周囲の草花が共鳴するように光り輝きます。
「もう、あなたの我がままのために力は使いません。光は、私を愛し必要としてくれる人のためにだけあります!」
強く大地を蹴ると、膨大な浄化の波動が王軍を直撃しました。殺傷能力のある攻撃ではありません。しかし、エリオットたちが抱いていた慢心や欲という心の澱みを強制的に浄化し、彼らの戦意を根こそぎ奪い去る光でした。
「ぐわぁぁっ! な、なんだ、体が、力が入らん!」
兵士たちが次々と武器を落とし、膝をつきます。彼らは私の圧倒的な正しさを前にして、自分たちがどれほど不当な略奪を行おうとしていたかを突きつけられたのです。
「リリアーナ。出てこないでと言っただろう」
アルヴィン様が隣へとふわりと舞い上がりました。
呆れたような口調ですが、瞳は愛おしそうに細められて私を見ている。
「すみません、アルヴィン様。自分の口で言いたかったんです」
「ふふ。君は本当に、強くて美しいな。後始末は私の役目だからな」
アルヴィン様がエリオットを見下ろしました。瞳から、紫色の魔力の雷が放射される。
「エリオットに最後に突きつける。今すぐこの地を去り、リリアーナへの不当な扱いに対する公式な謝罪文を全土に公表しろ。さもなくばどうなるか」
アルヴィン様が指を鳴らすと、王軍の周囲の地面がボコボコと盛り上がり、地を支配していた呪いの残りが、泥の人形となって数千体も這い出してきました。
「呪いは、リリアーナによって制御可能な力へと昇華された。貴様らが、呪いの死の軍勢に勝てるとでも思うか?」
「ひ、ひぃぃっ!」
エリオット王子は腰を抜かし、馬から転げ落ちました。圧倒的な圧力です。無能と見下した女に拒絶され、死神と見下した男に圧倒される。あまりにもみじめ。これが王子の姿なのかと呼べる程に。王子に残されたのは、惨めな敗北感だけでした。
「退却だ! 退却せよ!」
エリオット王子は這いつくばりながら馬にしがみつき、泥にまみれて逃げ出していきました。王軍の旗が踏みにじられ、土埃を上げて去っていく後ろ姿を、領民たちは歓声とともに見送りました。
「終わりましたね、アルヴィン様」
ふっと力を抜き、空中でふらつきました。すかさず、温かく、たくましい腕が私を横抱きに抱きかかえます。ありがとう。
「ああ。よく頑張った勇敢な聖女様。少しやりすぎだろうな」
アルヴィン様は私を抱いたまま、屋敷の寝室へと直行しました。セシルさんが背後で、
「お熱いことで」
とクスクス笑っているのが聞こえて、私はまた顔を赤くします。
「あの、アルヴィン様、もう下ろしてください。歩けますから」
「駄目だ。君は公衆の面前であの王子に愛していると言わんばかりの態度を見せた。私の独占欲が限界なんだ」
「えっ! そんなこと言ってませんっ、んぅ」
寝室の扉が閉まると同時に、背中が柔らかいベッドに沈み込みました。覆いかぶさるアルヴィン様の体温。彼の長い指が、私の髪を優しく触れます。
「リリアーナ。もう君を誰にも見せたくない。一生、この部屋で私だけを浄化し続けて欲しい」
「それは困ります。領地の皆さんのこともありますし」
「分かっている。冗談だ。今夜は離さない。君が幸せすぎて死にそうだと言うまで、たっぷりと愛してあげるからね」
何を言ってますか! 彼の紫の瞳が、妖しく深く煌めきます。王宮を追放されたあの日、私は人生の終わりだと思っていました。今、私は世界で一番愛され、必要とされ、最高の贅沢と甘い口づけに溺れています。
婚約破棄、万歳と言いたい。だって、破棄のおかげで愛おしい死神様に出会えたのですから。窓の外では、私の魔力で咲いた月下美人が、甘い香りを放ちながら夜を素敵にしている。




