34話
第34話 湯煙の休息
ラザフォード公爵領の復興は、私の想像をはるかに凌ぐ速度で進んでいた。
父のバレンタイン伯爵家との経済戦に勝利し、教育機関の設立も軌道に乗った頃、領地の地脈にさらなる変化が訪れる。 浄化した大地は、深層を流れる水脈へ私の魔力が浸透した結果、北方の岩場から、温かく、不思議な輝きを帯びた水が湧き出したのだ。
「リリアーナ、これは単なる温水ではない。微かに君の浄化の魔力が混じっているな」
現地を視察に訪れたアルヴィン様が、湧き出る湯に指先を浸し、静かに呟く。
立ち上る湯気には、私の魔力特有の、心を穏やかにほどく甘い香りが宿っていた。
「ええ。触れるだけで、疲れが溶けていくようです。アルヴィン様、これを活用して、領民や遠方からの客人が心身を癒やせる保養地を築いてはいかがでしょう」
提案を受け、アルヴィン様はわずかに眉を寄せる。
「保養地か。君の慈愛が形になるのは喜ばしい。だが、不特定多数の人間が押し寄せることになる。君の美しさを狙う不届き者が増えるのは、精神衛生上、極めて好ましくないな」
「もう、アルヴィン様。そう仰らずに。病に苦しむ人々を救うのも、領主夫人の務めですわ」
腕にそっと縋れば、彼は抗えぬといった風に溜息をつき、私の肩を抱き寄せた。
源泉調査のため、険しい岩場を登る。もっとも、私の足が地に触れることは一度もなかった。
「アルヴィン様、もう大丈夫です。ここは平坦ですから、降ろしてください」
「断る。岩は滑りやすい。君が転び、膝でも擦りむこうものなら、心は地割れのごとく引き裂かれ、山を魔力で粉砕してしまうだろう。君を守ることは、領地の地形を維持することと同義だ」
アルヴィン様は私を抱いたまま、平然と岩場を跳躍する。鋼のような腕は微動だにせず、揺れすら感じさせない。
「公爵、主を甘やかすのはいいけれど、地の精霊たちが重すぎる執着に怯えているよ」
「引っ込んでいろ精霊」
「主、僕が風でエスカレーターを作ってあげようか」
背後から、呆れを含んだ声。振り返れば、銀髪を潮風に揺らすシルヴァンが並んでいた。
「シルヴァン黙れ。リリアーナを抱きかかえられるのは、世界でただ一人の特権だ。寄生植物は地面の雑草と語り合っていればいい」
「おやおや、怖いね。でも主、源泉管理は僕に任せてほしいな。地下で湯の流れを整えれば、最も純粋な浄化の湯を寝室の浴室まで直接届けられる。精霊の癒やしの香りも添えてね」
シルヴァンがウィンクを投げた瞬間、アルヴィン様の周囲に漆黒の魔圧が渦巻く。
「妻の浴室にまで干渉するつもりか。今すぐ薪にして、源泉を沸かす燃料にしてやろうか」
「アルヴィン様、シルヴァン、喧嘩はやめてください。二人とも、私を助けようとしてくださっているのでしょう?」
仲裁に入ると、二人は不満げに視線を逸らした。それでも作業は滞りなく進んでいく。
数ヶ月後、温泉施設を中心とした保養地が完成した。
木材を贅沢に用いた温もりある建物と、魔力を宿す湯。
開園初日、領地には噂を聞きつけた人々が長蛇の列を作る。
「おお長年悩んでいた腰痛が、お湯に浸かった瞬間に消えていく。聖女様、ありがとうございます」
「肌が若返ったみたいまさに奇跡のお湯ね」
浴場から出てきた人々は、私の姿を見つけるや否や跪き、拝むように感謝を捧げる。
一人ひとりに微笑み、柔らかく言葉を返した。
「元気になってくださることが、何より嬉しいのです。どうか無理をなさらず、ゆっくりお休みくださいね」
だが背後には、処刑執行人のごとき表情のアルヴィン様が仁王立ちしていた。
「リリアーナの尊さを知る者が増えるのは構わない。それ以上近づくことは許さない。感謝の言葉は三メートル以上離れて述べろ。それ以上踏み込めば、公爵家への反逆と見なす」
圧倒的な威圧に、人々は震え上がり、後退る。なぜそんなことを言うかな。困った人です。
「アルヴィン様、怖がらせないでください。せっかくの保養地ですのに」
「君が誰に対しても慈愛を注ぐ姿は誇らしい。それとこれとは別だ。妻が他人の羨望に晒されるなど、片時も耐えられない」
腰を抱き寄せられ、髪に口づけが落とされる。周囲を牽制するような仕草だった。
視察を終え、屋敷へ戻った夜。
寝室の浴室で、私は特別な温泉に身を委ねていた。
湯気には浄化の魔力と、シルヴァンが調合した森のハーブの香り。
身体の芯まで温まり、思わず息がこぼれる。
やがてバルコニーから、柔らかな風が流れ込んできた。
「主、加減はどうだい。僕の根で、一番新鮮な源泉を汲み上げておいたよ。深く眠れるよう、特別な鎮静の香りも乗せてある」
窓際に腰かけたシルヴァンが、満足げに微笑む。
「ありがとう、シルヴァン。本当に気持ちいいわでも、アルヴィン様に見つかったら大変よ」
「分かっているさ。でも、君を癒やす権利を独占されるのは、少し癪でね」
彼が姿を消した直後、浴室の扉が開く。
現れたのは、シルクの寝衣を纏ったアルヴィン様だった。
「精霊の気配がしたが、またあいつかな」
「いいえ、お湯を調整してくれただけですわ。アルヴィン様も、ご一緒にいかがです? 今日はお疲れでしょう」
一瞬の驚きののち、彼の瞳に熱が宿る。
「断る理由など存在しない。今夜は、君の浄化の光も、この温もりも、すべてを」
湯船へ入り、肩を引き寄せられる。
温かな湯の中で魔力が溶け合い、静かな時が満ちていく。
「幸せすぎて、死にそう」
思わず漏れた言葉に、アルヴィン様は満足げに目を細めた。
「死なせはしない。そう感じる瞬間を、永遠に繋ぎ止めるのが役目だからな」
領地は大きな変革を遂げ、人々の笑顔で満たされている。
そして隣には、少し重すぎるほどの愛を注ぐ守護者たち。
湯煙の向こう、帝国のステラやエリオット王子の影があろうとも。
暖かな聖域を守り抜くため、明日もまた、聖女として光を咲かせると心に誓った。




