30話
第30話 聖女の贈り物
島に来て数日目の朝だった。
ラザフォード公爵領から移動し、珊瑚礁に抱かれた小さな島。アルヴィン様が蜜月の旅先は私が決めると言い張って選んだ場所だった。透明度の高い海と、色とりどりの花々が咲き乱れる楽園だと聞いていた。
シルヴァンは庭園の木には入れなかったが、旅に同行することはアルヴィン様も渋々認めた。波打ち際の砂浜に素足で立ち、エメラルド色の瞳を細めている。
昨夜の真珠の件から朝になった。
浄化で綺麗になった海を振り返ると、アルヴィン様がすぐそこに立っていた。いつの間に来たのか、砂浜に片膝をついて私に手を差し伸べている。
「おいで」
たった二文字だったが、声の中に心配と安堵と、それ以上の何かが混ざっていた。私は素直に手を取った。
「ありがとう聖女様。こるで魚も捕れます」
「どうもね。魚や真珠が戻って良かったわ」
漁師の長が、丁寧に頭を下げて礼を述べた後、傍らの老婆が布に包んだ何かをそっと差し出してきた。
「聖女様への、心ばかりのお礼です。この島では、数十年に一度しか見つからない貝でして」
布を開くと、そこにあったのは手のひら大の貝だった。
普通の貝ではなかった。
表面は淡い乳白色をしているが、角度によって赤、青、緑、金と、見るたびに違う色が浮かび上がる。七色に輝くその貝は、まるで小さな虹を閉じ込めたようだった。
「七色貝、と呼んでいます。伝説では、想い人と一緒に磨くと、二人は永遠に結ばれると言われているんですよ。しかも、ただ磨くだけではだめで」
老婆がにっこりと笑った。
「一点の曇りもない、本物の愛の言葉を口にしながら磨かないと、貝は光らないんです。心に少しでも嘘や迷いがあると、くすんだままになってしまって」
私はその言葉を聞いた瞬間、隣のアルヴィン様をちらりと見た。
アルヴィン様も、私を見ていた。
視線がぶつかった。
何かを察したように、アルヴィン様は無言のまま少しだけ顔を逸らした。珍しいことだった。
宿に戻り、テラスに小さな卓を出した。夕暮れの海が橙色に染まり、波の音だけが静かに聞こえていた。七色貝は布の上に置かれ、ほのかに輝いている。
私は柔らかな磨き布を手に取り、アルヴィン様を見上げた。
「一緒に磨きましょう、アルヴィン様」
「ああ」
返事は短かったが、座る気にはなっているようで、アルヴィン様は椅子を引いて向かいに座った。二人で布の端を持ち、ゆっくりと貝の表面をなぞり始めた。
沈黙が落ちた。
五秒、十秒。
貝は、光らなかった。
「アルヴィン様」
「分かっている」
分かっているなら言えばいい、と思ったが口には出さなかった。アルヴィン様は貝を見つめ、眉間に微妙な皺を寄せていた。普段あれほど饒舌に私への独占欲を語るくせに、いざ愛の言葉と言われると、この人は何かが詰まってしまうらしかった。
「普段と同じことを言えばいいんですよ。愛しているとか、離さないとか、よく仰っているではないですか」
「それとこれとは違う」
「何が違うのですか」
「あれは、君への命令か脅迫に近い。これは」
アルヴィン様が珍しく言葉を探した。
「これは、違う」
貝はまだ、光らなかった。
「邪魔してごめんね、主」
テラスの欄干に、するりとシルヴァンが腰掛けた。どこから来たのか分からないが、手に同じ磨き布を持っている。
「シルヴァン、なぜ貝を」
「港で一つ分けてもらったよ。せっかくだから僕も試してみようと思って」
シルヴァンは七色貝を取り出した。それを静かに磨きながら、澄んだ声で言った。
「主。僕が呪いの塊だった時、君は怖がらずに手を触れてくれた。僕の全てが暗闇に沈んでいた時、君の温もりだけが本物だった。君を守ることが、僕の存在理由そのものだよ」
するすると言葉が出た。
そして、シルヴァンの手の中の貝が、眩いばかりの七色の光を放ち始めた。
テラス全体が、一瞬虹色に染まった。
沈黙が落ちた。
「…………」
「…………」
私とアルヴィン様は、ぴかぴかに輝く貝を手にしたシルヴァンを、無言で見つめた。
「あ!」
シルヴァンが少しだけ、きまり悪そうな顔をした。
「邪魔するつもりはなかったんだけど」
「出て行け」
アルヴィン様の声は、地の底から来るほど低かった。シルヴァンはひょいと欄干から飛び降り、風のように消えた。輝く貝だけが、テラスの床に残った。
静けさが戻った。
夕陽は沈み始め、空が深い藍色に変わっていく。波の音だけが聞こえた。
アルヴィン様は手の中の貝を見つめ、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「リリアーナ」
「はい」
「君が怖い」
予想していなかった言葉だった。
「婚約破棄された夜、領地へ踏み込んできた君が怖かった。光を放ちながら呪いを消し去ってくれた君が怖かった。王子の軍の前に一人で出ていった君が怖かった。帝都の祭壇で意識を失いかけながらも笑っていた君が怖かった」
アルヴィン様の指が、布を握り締めた。
「君がどこかへ消えてしまうのが。君の光が、誰かに奪われてしまうのが。知らないところで君が泣いているのが。怖くて、怖くて、だから」
言葉が途切れた。
アルヴィン様は、静かに続けた。
「だから愛している。怖いから、愛している。失いたくないから、愛している。君が笑うたびに、私の呪いより深いところが溶けていくから、愛している。君を腕の中に閉じ込めたいのは、独占欲だけではない。ただ、もう二度と、あの暗い場所に戻りたくないんだ」
テラスに、静かな光が灯った。
七色貝が、ゆっくりと輝き始めた。赤、青、金、緑、紫、白、橙。七色の光が次々と浮かび上がり、二人の手を柔らかく包み込んだ。
私は貝を持ったまま、泣いていた。
「アルヴィン様」
「泣くな」
「泣きません」
「泣いている」
「少しだけ、泣いています」
アルヴィン様は静かに手を伸ばし、私の頬の涙を指先で拭った。いつもの、独占欲に満ちた仕草ではなかった。もっと不器用で、もっと真剣な手つきだった。
「私も、愛しています。アルヴィン様。あなたが怖いと言ってくれた分だけ、あなたを愛しています」
七色貝の光が、さらに増した。海面に反射して、あたり一帯が淡い虹色に染まった。
アルヴィン様の耳が、ほんのりと赤かった。
夜になって、シルヴァンが縁側から顔を出した。
「主、貝は光った?」
「光りました」
「よかった。公爵の愛の言葉、聞こえてしまったけど、悪くなかったよ」
「貴様、やはり聞いていたのか」
「遠くにいたのに声が届いてきたんだよ。それだけ大きな愛だったってことだよ、公爵」
シルヴァンは珍しく、からかいの色なく微笑んだ。アルヴィン様は舌打ちをしたが、今夜だけは追い払わなかった。
寝室に戻ると、アルヴィン様は七色貝をそっと窓辺に置いた。月光を受けて、貝は静かに虹色を放ち続けた。
「持って帰ったら、領地でも光るかな」
「光るだろう。君の魔力が染み込んでいるから、多分一生光り続ける」
「一生、ですか」
「それでも足りないくらいだが」
アルヴィン様は私をベッドへ引き寄せ、耳元で低くささやいた。
「幸せか、リリアーナ」
「幸せすぎて、死にそうです」
いつもの言葉だった。でも今夜のそれは、これまでで一番本当のことだった。
七色貝の光の中で、アルヴィン様の唇が私に重なった。波の音が、遠く遠く聞こえた。




