29話
第29話 真珠の涙
新婚旅行の穏やかな日々も終わりに近づいていたある朝のことだった。私とアルヴィン様は別荘のテラスで遅めの朝食をとっていたが、静かな時間は執事のセシルさんの報告によって中断された。
「旦那様、奥様。この島の村長と数名の漁師たちが、どうしても奥様にお会いしたいと門前で嘆願しております。なんでも、島の死活問題に関わる異変が起きているとか」
報告を聞いた瞬間、胸の奥にわずかな緊張が走ったのを感じていた。
アルヴィン様は、私に差し出そうとしていた銀のスプーンを止め、不機嫌そうに眉を寄せていた。
「却下だ。今はリリアーナとの神聖な時間だ。島の悩みなど、地元の役人に任せればいい。それよりも真珠貝のスープをもっと飲んで」
その言い方には、私との時間を守ろうとする強い意志が滲んでいるように感じられていたが、それでも胸のどこかが落ち着かなかった。
「アルヴィン様、いけませんわ。私たちが滞在している島で困っている人がいるなら、お話だけでも聞くべきです」
そう言って立ち上がったとき、自分でも迷いなく行動していることを自覚していた。
アルヴィン様は小さくため息をつきながらも、「君がそう言うなら仕方ない」と応じ、結局は私の意思を尊重してくれたのだった。
別荘の応接室に通されたのは、日焼けした肌に深い皺を刻んだ老人と、数人の屈強な漁師たちだった。彼らはアルヴィン様の放つ威圧感に明らかに緊張していたが、それでも必死に私へと訴えかけていた。
「聖女様、どうかお助けください。この島の名産である月光真珠が、ここ数日、一斉にその輝きを失い、黒く濁ってしまったのです」
月光真珠という名前を聞き、耳にしたその美しさを思い出していた。輝きが失われたと知り、胸の奥が重く沈んだような気がしていた。
「月光真珠夜の海のように美しく光る、貴重な真珠でしたね」
村長の説明によると、島の周囲の海に原因不明の淀みが発生し、真珠貝が次々と病にかかっているという話だった。真珠は島の唯一の収入源であり、このままでは冬を越すことも難しくなるとのことだった。
「淀み、か。魔物の仕業ではないのか」
アルヴィン様は冷静に問いかけていた。
「もし魔物の類であれば、私がその海域ごと消滅させるが」
「い、いえ魔物の姿は見えぬのです。ただ、水が重く、冷たく、不気味な気配が漂っているだけで」
村長の説明を聞きながら、私は窓の外の海に視線を向けていた。確かに、以前の透き通るような青ではなく、どこか鈍い色に変わっているように見えたのだった。
「主、それは僕に聞くのが一番だよ」
いつの間にか、花瓶のヤシの葉の影からシルヴァンが姿を現していた。突然の出現に、村人たちは驚き、慌てて床に伏していた。
「シルヴァン、何か知っているの」
そう問いかけると、彼は窓辺に腰掛け、外を指差していた。
「クラーケン騒動の残りだね。魔物そのものは主が浄化したけれど、溜め込まれていた負の感情の沈殿物が海流に乗ってこの島の下に集まっているんだ。魔力としては弱いけど、真珠貝には毒なんだよ」
説明を聞き、原因がはっきりしたことで少しだけ気持ちが落ち着いていた。クラーケン騒動とはリゾート島に来てから、私が魔力で静めた件のことだった。
「浄化すれば、元に戻るの?」
「戻るよ。ただし、海底の流れを整えて淀みを外へ逃がす必要がある。僕が海草で道を作るから、主がそこに光を流してほしい」
やるべきことが明確になり、すぐにでも動きたいという気持ちが強くなっていた。
「分かったわ。すぐに向かいましょう」
そうして準備を始めようとしたとき、アルヴィン様が私の肩を掴んでいた。
「待て、リリアーナ。海底に行くつもりか。君をそんな場所に行かせるわけにはいかない」
声音には、明確な不安が込められているように感じられていた。
「海を凍らせて対処する方法もあるが」
「それでは真珠貝が耐えられませんわ」
「ならば、君を抱えて行く。魔力で空気膜を作る。一切触れさせない」
結局、その提案を断ることはできず、アルヴィン様の護衛のもとで向かうことになったのだった。
私たちは小舟で養殖場のある入り江へ向かった。シルヴァンが水面に触れると、海が静かに割れ、海底へ続く道が現れていた。
「主、おいで」
「手を取る必要はないだろう精霊め」
アルヴィン様は私を抱き上げ、そのまま水の道を進んでいた。
海底には空気が保たれていたが、砂地には黒い霧のようなものが漂っていた。その光景に、自然と警戒心が強まっていた。
「嫌な気配ね」
そう感じながら、真珠貝のある場所へ手を伸ばしていた。
祈りを紡ぐと、体の奥から光が溢れ出していた。白銀の光は海底へと広がり、黒い淀みに触れるたびに泡へと変わっていった。
浄化が進むにつれて、空気が軽くなっていくような感覚があった。
「ほら、真珠貝も戻ってきているよ」
シルヴァンの指差す先では、貝がゆっくり開き、中から再び輝きを取り戻した真珠が現れていた。
光景を見て、胸の中に安堵が広がっていた。
アルヴィン様は私を抱く腕にわずかに力を込めていた。
「リリアーナ。君の光は、どこまでも届くのだな」
「アルヴィン様がいてくださるからです」
浄化が終わると、海は以前よりも澄んだ輝きを取り戻していた。
村へ戻ると、人々は涙を流して喜んでいた。
「聖女様、本当にありがとうございます。これで助かりました」
村長はその日採れた最も美しい月光真珠の首飾りを差し出していた。
「受け取れません。これは皆さんの大切なものです」
「どうか、お納めください」
迷っていると、アルヴィン様がそれを手に取っていた。
「これは私が買い取る。そして妻へ贈る」
その申し出により、私は自然な形で受け取ることになったのだった。
首にかけられた真珠は、静かに光を放っていた。
「リリアーナ。よく似合っている」
「ありがとうございます」
夜になって、テラスで真珠を眺めていた。
「主、よかったね」
噴水から現れたシルヴァンがそう言っていた。
「でも、公爵らしいやり方だったね」
「ええ、そうね」
思わず微笑みがこぼれていた。
隣にはアルヴィン様がいて、静かに寄り添ってくれていた。彼の存在を感じながら、満たされた気持ちが胸に広がっていた。
新婚旅行の終わりが、穏やかで幸せなものであったことを、私は静かに受け止めていた。




