第21話 最果ての執着
第21話 最果ての執着
ラザフォード公爵領が、平和と多幸感に包まれていたその頃。
大陸の北端、一年中氷に閉ざされた凍土の牢獄と呼ばれる辺境の地に、一人の男の姿があった。
エリオット・元王子。アルヴィンとリリアーナの共鳴魔法によって心臓を貫かれ、灰となって霧散したはずの男は、皮肉にも執着の深さゆえに、この世に踏み止まっていた。
「あああ、リリ、アーナ」
雪深い小屋の地下。魔法の陣が刻まれた石畳の上で、男が苦悶の声を漏らす。彼の胸には、いまだに光り輝く浄化の痕跡が、癒えない傷口のように赤黒く脈打っている。
「おや、目が覚めましたか。流石は王家の血を引くお方だ。普通なら聖女の光に触れただけで魂ごと消滅していたはずなのですがね」
暗闇から現れたのは、ボロボロの法衣を纏った老人でした。帝国の教団さえも見捨てた、禁忌の魔術を操る深淵の魔術師であった。
「リリアーナを、私の、ものに」
「ええ、ええ。強い憎しみこそが、最高の触媒になる。アルヴィン・ラザフォードから彼女を奪い、浄化の力を我ら教団の再興に捧げる。協力しましょう。あなたの心臓を、魔力で編み直してあげましたから」
エリオットがゆっくりと上半身を起こすと、背中からは、彼にはなかった、どす黒い影の触手が這い出す。彼は、リリアーナの光を拒絶するのではなく、あえて光を毒として自分の肉体に封じ込めることで、死の淵から這い上がってきたのであった。
「待っていろ、リリアーナ。今度は死神公爵の腕を切り落とし、君をこの冷たい氷の檻に閉じ込めてあげる。君が泣いて私を許すまで、一生」
男の狂った笑い声が、吹雪の中に溶けていった。
◆
一方、幸せの絶頂にあるラザフォード公爵邸。朝の寝室では、アルヴィン様による、いつもの度を越したスキンシップが行われていました。いつものね。
「アルヴィン様、もう、苦しいですっ。首筋にそんなに顔を埋められたら、くすぐったくて」
「いいんだ。君の温もりを確認しないと、一日が始まらない。昨夜、君が夢の中で名前を一度しか呼ばなかったから、極度の愛情不足なんだよ」
アルヴィン様は私を抱きしめたまま、ベッドの上をごろりと転がる。昨夜の愛の補給が十分ではなかったと言わんばかりの熱い視線。彼の独占欲は、敵がいなくなったことで、より純粋な執着へと変化していました。本当に純粋な面があります。
「ふふ、子供みたい。でも、アルヴィン様、今日は大切な収穫祭の打ち合わせがあるんです。精霊シルヴァンも外で待っています」
「あいつ、またいるのか。精霊なら森で光合成でもしていればいいものを」
アルヴィン様は不機嫌そうに舌打ちしましたが、私が彼の額にそっと口づけをすると、一瞬で耳まで真っ赤にして大人しくなりました。本当に、私の夫は扱いやすいのか、あるいは私が彼に染められているのか。
### 2. 精霊が感じた「腐った風」
窓を開けると、庭の巨大な枝に座ったシルヴァンが、珍しく険しい顔で北の空を見つめていました。
「主、おはよう。……今朝の空気、なんだか変だ。雪の匂いが混じっている」
シルヴァンは僕、という一人称で呟き、窓辺までふわりと浮遊してきました。
アルヴィン様との約束通り、邸内には入りませんが、その指先は窓枠を強く握りしめています。
「雪? でも、今は初夏ですよ、シルヴァン」
「そう、だからおかしいんだ。北の果て、命が絶たれたはずの場所から、腐ったような『執着』が風に乗って流れてくる。……公爵、君の掃除が甘かったんじゃないかな?」
アルヴィン様が、私の肩を抱き寄せながら冷たく言い放ちました。
「私の剣に斬られて生き残った者はいない。……だが、もし万が一、あのゴミ(エリオット)が這い上がってきたのだとすれば、次は魂の一片も残さず、虚無の底へ叩き落とすだけだ」
アルヴィン様の全身から、保護欲と殺気が混じり合った、凄まじい威圧感が放たれました。
「リリアーナ、今日からは邸内でも、私の護衛騎士を常に二名、部屋の前に置く。……それと、寝るときは私の腕に鎖で……」
「鎖はダメですよ、アルヴィン様!」
私が必死に止めると、シルヴァンがクスクスと笑い出しました。
「相変わらずだね。でも主、今回は僕も公爵の過保護に賛成だよ。……僕の葉が、震えている。かつてないほど巨大な『負の愛』が、この地を飲み込もうとしているんだ」
### 3. 忍び寄る「亡霊」の罠
その日の午後。
領地の境界付近にある「癒やしの泉」で、奇妙な現象が報告されました。
泉の水が凍りつき、その中心にリリアーナの姿に似た「氷の像」が現れたというのです。
「……私の像?」
気になった私は、アルヴィン様とシルヴァンの厳重な警護のもと、その場所へ向かいました。
そこにあったのは、精巧に作られた、美しくも不気味な氷の彫刻。それは、リリアーナが悲しげに泣いている姿をしていました。
「……趣味が悪い」
アルヴィン様が剣を抜こうとしたその時、氷の像が突然、口を開きました。
『……リリアーナ。君のその光、私が美しく凍らせてあげよう。あの死神に穢される前に……』
エリオットの声。
歪み、憎しみに満ちたその響きに、私は思わず震え上がりました。
「エリオット……! 生きていたのね……!」
「……死ね。今度こそ、確実に」
アルヴィン様が氷像を一瞬で粉砕しました。
しかし、砕け散った氷の破片は、黒い蝶となって空へ舞い上がり、そのまま北の空へと消えていきました。
「……公爵。あいつ、自分の命を魔術師に売ったね。今はただの人間じゃない。……主を誘い出すための、生ける呪いそのものだ」
シルヴァンのエメラルド色の瞳が、かつてないほど激しく輝きました。
### 4. 愛の包囲網、再び
屋敷に戻ると、アルヴィン様は私を私室へ閉じ込めるようにして、その扉に背を預けました。
「リリアーナ。……もう、誰にも君を渡さない。たとえ君が、外の空気を吸いたいと願っても、私は君をこの腕の中に幽閉する。……あんな屑の言葉、二度と君の耳には入れさせない」
「アルヴィン様……。私は、怖くありません。あなたとシルヴァンがいてくれるんですもの」
私は彼の胸に顔を埋めました。
かつて無能と蔑まれ、捨てられた私。
今は、愛に狂った元王子と、執着に溺れる公爵、そして過保護な精霊。
三つの強大すぎる感情の渦の中心で、私は一人の女性として、そして聖女として、覚悟を決めました。
「エリオット王子。……もしあなたが再び私の光を汚そうとするなら、今度は私が、あなたの闇を完全に消し去ってみせます」
幸せすぎて、死にそう。
その言葉は、今や「この幸せを脅かす者は、決して許さない」という、聖女の峻烈な宣言でもありました。
窓の外では、シルヴァンが領地全体の木々に「警戒」の歌を歌わせ、アルヴィン様は私の指に、さらに強力な守護の魔力を込めた指輪を(もう三つ目ですが)嵌めました。
「……リリアーナ。今夜は、君を寝かせないよ。君が私のものであることを、魂の深くまで刻み込まなければ、私は正気を保てそうにないんだ」
アルヴィン様の熱い口づけが、私の覚悟を溶かし、甘い溺愛の海へと沈めていく。
北から迫る狂気の予感を、今はただ、彼の体温で上書きしていくのでした。
(第22話へ続く)




