第2話
第2話
「あ、あの、公爵様? 手が、手が近いです」
私の手の甲に落とされた、あまりにも熱い口づけ。熱い!アルヴィン様の紫の瞳が、至近距離で私をじっと見つめています。瞳には、今まで浴びてきた下に見られることや拒絶の色など微塵もなく、ただ純粋で、底知れないほど深い執着の色が混じっていました。私の影響なのかしら。自分でも何が起きたのか理解できてませんが。
「信じられない。この地を、そして私を縛り続けていた闇が、こんなにも一瞬で消えるなんて奇跡だ」
アルヴィン様は私の言葉など聞こえていないかのように、うっとりとため息をつきました。
彼は私の手を握ったまま、うつむいた姿勢で顔を上げます。仮面の下に隠されていたその美貌は、まさに破壊的でした。整いすぎた鼻筋に、薄く形の良い唇がある。まるで彫刻のようです。
「あなたが、私の女神ですか?」
「いえ、ただの元・婚約破棄された女ですけど」
私は顔が林檎のように赤くなるのを感じながら、精一杯の声を絞り出しました。女神って何よ!
とりあえず落ち着きましょう、という私の提案という名のお願いにより、私たちは屋敷の中へと移動することになりました。
しかし、一歩足を踏み入れるごとに、私の体からは勝手に光が溢れ出します。
ドロドロに汚れていた壁のシミが消え、ボロボロだったカーテンが魔法をかけたように新品同様の輝きを取り戻していくし。ホコリを被っていたシャンデリアは、私の頭上を通り過ぎるたびに、チリンと綺麗な音を立てて光り輝きました。
「リリアーナ様、これは一体何が起きている?」
後ろを歩いていた執事のセシルさんが、驚きのあまり銀盆を落としそうになっています。そりゃ驚くわね。
「私にもよく分からないんです。ただ領地に来た瞬間、ずっと胸の中にあった重い塊が弾けたみたいで」
自分でも何を言っているのかと思う。
「それは、君の魔力がこの地の性質と完全に一致したからだろう」
前を歩いていたアルヴィン様が立ち止まり、振り返りました。彼は先ほどまでの死神のオーラを完全に脱ぎ捨て、まるで恋する青年のように柔らかな笑みを浮かべています。
「ラザフォード領は、古の時代から負のエネルギーが溜まりやすい場所だった。代々の当主は肉体で受け止め、呪いとして背負うことで国を影から支えてきたんだ。君の魔力は呪いのエネルギーを消し去るどころか、聖なる土地へと書き換えている考えられる」
アルヴィン様は私の元へ歩み寄ると、ごく自然な動作で私の腰を引き寄せる。
「ひゃっ!」
「リリアーナ。君は自分がどれほど価値のあることをしたか分かっていないようだ。君は、私という男を死から救い出したんだ」
近い。彼の顔が近づきます。長いまつ毛が触れそうな距離で、彼は甘くささやきました。
「これほどの恩返し、一生かけても足りない。まずは屋敷で最も豪華な部屋を用意させよう。君の肌に触れるものすべてを、最高の絹と宝石で埋め尽くしてあげる」
「あ、あ、あ、あの、私は慰謝料としてこの土地をいただいただけの女です。端っこの小屋か何かで静かに暮らせればそれで良いのであって」
「小屋? 何を言っているんだ。君はこの家の主として、私の隣で眠る」
「はい?」
隣で寝ると今言いましたか。そう聞こえましたけど、公爵様、話が飛躍しすぎていませんか。
それからの数時間は、まさに怒涛の勢いでした。
「セシル! 今すぐ王都の一流仕立屋を呼び出せ。いや、向こうに足を運ばせるのは時間がかかる。領内の最高級の布地をすべて集めろ」
「承知いたしました、旦那様。リリアーナ様のための宝石商も手配済みです」
「リリアーナ、喉は渇いていないか? これは百年もののヴィンテージ・ジュースだ。君の浄化で味がさらに進化したようだ」
アルヴィン様は、私が少しでも動こうとするたびに危ないからと抱き上げようとしたり、疲れるだろうと高価なクッションを背中に敷き詰めたり。いたれりつくせりって感じに。
おかしい。聞いていた話と違いすぎる!
王都での噂では、アルヴィン様は口を開けば呪詛を吐き、触れるものすべてを腐らせる醜悪な男だったはずです。目の前にいるのは、私の機嫌を伺うように子犬のような瞳で見つめてくる超絶美形な公爵様だった。
しかも、浄化の効果は予想以上でした。窓の外を見ると、さっきまで枯れ果てていた庭園に、色とりどりの薔薇が狂い咲いています。おまけに屋敷の屋根からは、
「キュイー!」
という可愛い鳴き声が。
「あら、あの子は?」
テラスに舞い降りたのは、真っ黒な霧の中の巨大なカラスではなく、浄化されて真っ白な毛並みになった、ふわふわの小さな小鳥でした。鳥にも影響を与えているみたい。
「以前は領地を監視する魔獣だったものだが、君の魔力にあてられて毒気が抜けたらしいな」
アルヴィン様が苦笑しながら小鳥を指に乗せます。小鳥は彼の手を離れ、私の肩にちょこんと乗って、親愛を示すように頬をすり寄せてきました。
「可愛いのね」
「そうだな。君によく似て愛らしい」
アルヴィン様の視線が、再び熱を帯びます。愛らしいだなんて、どう反応したらいいのかな。
彼は私の肩越しに小鳥を撫でるふりをして、指先を私の首筋に滑らせました。
「ねえ、リリアーナ。エリオット王子という男は、本当に君を捨てたのか?」
「ええ。無能で地味で、王家の嫁には相応しくないと言われ、婚約破棄されました」
「くくっ、はははは!」
アルヴィン様は突然、低く艶やかな声で笑い出しました。笑い声にはどこか響きが混じっています。
「愚か者に感謝しなければならないな。こんなにも至高の宝物を、あろうことか自ら手放してくれたのだから。安心するといい。君を泣かせた報いは、私が必ず、徹底的に、地獄の底まで叩き込んであげるから」
「あ、あの、そこまでしなくても」
「いいや。君を傷つけることは、今の私にとって世界で最も許しがたい大罪だ」
彼は私の手を取り、指先に執拗に口づけを繰り返します。まるで、自分の所有物であることを刻印するように。ちょっと恥ずかしいですが。
◆
その頃王都では、エリオット王子が焦燥に駆られていた。リリアーナが去った後、王宮の庭園の花々が急激に枯れ始めた。さらに、彼女が担当していた実務が一切回らなくなり、王都周辺の結界が弱まり始めるという事態になった。
「なぜだ! あんな無能な女、いなくなっても何も変わらないはずだろう!」
エリオットは叫ぶものの、彼にはまだ分かっていなかった。彼が地味だと切り派手に捨てた少女が、実はこの国の安定と平和を一身に支えていた、唯一無二の聖女であったことに。彼女が今、世界で最も恐ろしい男の腕の中で、とろけるような溺愛を受けているということに。
◆
一方、ラザフォード公爵邸。豪華な夕食を終え、私のために用意されたというより、アルヴィン様が私を閉じ込めるために整えたとも思える寝室へと案内されました。横に寝ろと言っていたけど、本当に寝るのかしら。
「今夜はゆっくり休むといい、リリアーナ。何かあれば、すぐに隣の部屋の私を呼んでくれ。いや、むしろ今すぐ一緒のベッドに入ってもいいのだが」
「お断りします!」
「ふふ、冗談だよ。今は、ね」
公爵様は私の額に、おやすみのキスを落としました。まさかこんな展開になるとは想像もしてなかった。唇が離れた後、私は一人でふかふかのベッドに潜り込みます。
婚約破棄されたときは、どうなることかと思ったけれど、今は寝よう。自分でも何が起きたかわからない。
窓の外には、私の魔力で光り輝く美しい領地が広がっています。呪われていた場所が、今は世界で一番安全な場所に感じられました。
でも公爵様の愛が、思っていたよりもずっと重くて熱い。私の幸せすぎて死にそうな毎日は、まだ始まったばかりなのかな。
「明日も、たくさん浄化のお仕事、頑張らなきゃ」
そう呟いて目を閉じた私の唇は、自分でも気づかないうちに、少しだけ和らいで笑みがあった。




