第17話 朝の果実
第17話 朝の果実
公爵邸の朝は、いつもより軽やかで、殺伐としていました。なんでだろう。
「主、おはよう。昨夜はあまり眠れなかったのかい? 目の下に少し影があるよ。ああ、野蛮な公爵が無理をさせたんだね。僕が森の精気で疲れを溶かしてあげよう」
私が食堂へ足を踏み入れるなり、銀髪をさらりと揺らして現れたのは、森の精霊シルヴァンでした。彼は私に近づくと、透き通るような指先で私の目元に触れようとします。
「あ、おはよう、シルヴァン。大丈夫よ、ちょっと寝不足なだけで」
「その汚らわしい指を、妻から離せと言っている」
冷気と共に、背後からアルヴィン様の手が伸びてきました。彼は私の肩を抱き寄せ、シルヴァンの指を鋭い視線で弾き飛ばします。
「シルヴァン、貴様。昨夜、結界と称して寝室の窓の外に一晩中立っていただろう。気配が不快で、どれほど集中、いや、安眠を妨げられたと思っている」
「おやおや、公爵。僕はただ、主を悪い夢から守っていただけだよ。君が主を泣かせているような声が聞こえたから、つい様子を伺ってしまった。僕の主をあまりいじめないでくれるかな」
「いじめてなどいない。愛しているんだ」
朝から響き渡る、公爵様らしからぬ言葉。
私はこっそりとため息をつき、執事セシルさんが用意してくれた紅茶を口に運びました。こんな光景、ここ数日の定番になりつつあります。
朝食のテーブルには、見たこともないほど、美味しそうな果物が並んでいます。領民からかな。
「これは僕からの贈り物だよ、主。僕の本体である大樹の、一番高い枝に実った特別な果実だ。君の魔力を回復させるのに最適なんだ。さあ、僕がむいてあげるから、
「あーんして?」
シルヴァンは少年のように無垢で、どこか色気のある微笑みを浮かべて果実を差し出します。
「あ、ありがとう。でも、自分でお箸、じゃなくて、フォークで食べられるわ」
「遠慮しないで。君が僕を救ってくれたあの日から、僕のすべては君に捧げられているんだ。主が食べ物を口にするお手伝いをするなんて、精霊としては当然の誉れだよ」
「リリアーナ、そんな毒々しい果物を口にしてはいけない。こっちに来なさい。最高級のハチミツをかけたトーストを用意した」
アルヴィン様が、シルヴァンを突き飛ばさんばかりの勢いで私の口元にトーストを運びます。右から精霊、左から公爵。私の口は一つしかないのですが。忙しい朝食だわ。朝食くらいゆっくり食べたい。
「二人とも。私はひな鳥ではありません。朝食くらい、静かに食べさせてください」
私がテーブルを叩いて立ち上がると、二人の最強の男たちは、一瞬で借りてきた猫のように静かになりました。
「すまない、リリアーナ。君が精霊と親しくするのが、どうにも我慢ならなくて」
「ごめんね、主。君を困らせるつもりはなかったんだ。ただ、君が公爵に独占されているのを見ると、僕の胸の奥がざわついて」
二人揃って、しゅん、と肩を落とす姿は、美男子なだけに破壊力抜群です。私は毒気を抜かれ、結局二人の差し出すものを交互に食べる羽目になりました。うう、食べすぎちゃうわね。
朝食後、私は領地内の新しい農地の視察に出かけることになりました。アルヴィン様は当然と言わんばかりにエスコート役を買って出ました。後ろには、空気のように音もなく付き従うシルヴァンの姿があります。
「シルヴァン、あなたも来るの?」
「もちろん。主が歩く場所は、僕が清めてあげないと。石ころ一つ、君の足元を邪魔させないよ」
シルヴァンが指をパチンと鳴らすと、私が歩く先にあった石や雑草が、まるで意志を持っているかのように脇へ避けていきました。
「過保護すぎる。リリアーナ、そんなものに頼らずとも、君を抱えて歩けば済む話だ」
アルヴィン様が対抗して私を抱き上げようとしますが、私は慌ててそれを制しました。いやいや、自分で歩けますよ。
「アルヴィン様、領民の皆さんが見ています。恥ずかしいですっ」
「主、やっぱりあんな野蛮な男より、僕の方がスマートだと思わない? 僕は君の負担にならないよう、精霊の術で君の体を浮かせてあげることもできるよ」
「浮かせなくていいです!」
そんな騒がしい視察の途中、ふとシルヴァンが立ち止まり、北の空を睨みつけました。
「主、気をつけて。また、不快な匂いがする」
シルヴァンのエメラルド色の瞳が、一瞬で鋭い森の王の目に変わった。何かな? 異変があるみたいだな。
「人間の欲が腐ったような、エリオットと同じ、あるいはもっと質の悪い闇が、領地の境界に近づいている」
アルヴィン様も即座に反応し、私を背後に隠します。
「フン、精霊の分際で鼻だけは利くようだな。セシル、騎士団に警戒レベルを上げさせろ。境界線に鼠が紛れ込んだようだ」
「はい」
その日の夜。緊迫した空気が漂う中、アルヴィン様は私を寝室の奥へ移動させました。
「精霊の言う通り、不穏な動きがある。帝国の残党か、あるいは君の力を狙う新たな勢力か。安心してほしい。君の指先一本、誰にも触れさせはしない」
アルヴィン様は私の腰を強く抱き寄せ、唇を合わせました。確かに安心感はあります。口づけは、不安を打ち消すように激しく、君は私のものだという刻印を刻むように熱いものでした。
「私も、あなたの力になりたいです。守られるだけじゃなく、一緒に戦いたい」
「ああ。君の浄化の光こそが最強の盾だ。夜だけは腕の中で震えていてほしい。君を守る特権を、独占させてくれ」
彼が私のドレスの肩紐に指をかけた時。
「公爵。そんなに主を怯えさせてはいけないよ。僕が、寝室の周りに最強の樹木の結界を張っておいた。君の熱すぎる愛で、主を疲れさせすぎないようにね」
窓の外から、シルヴァンの涼しげな声が聞こえてきました。
「シルヴァァァン!! 貴様、覗いているのか!!」
「覗いてなんていないよ。主の安眠を守るために、気配を感じ取っているだけだ。公爵、今夜はほどほどにね。主の魔力は、明日への備えにとっておかなきゃいけないんだから」
アルヴィン様は激昂して窓を閉め、厚手のカーテンを引き絞りました。
「あいつ、絶対にいつか森に送り返してやる」
「ふふ、アルヴィン様。シルヴァンなりに、心配してくれているんですよ」
「君は、本当に罪作りだ。こんだけ制御しきれないほど愛しているというのに、精霊まで虜にしてしまうなんて」
アルヴィン様は、諦めたように溜息をつくと、より深い、より濃密な熱を持って私を押し倒しました。
幸せすぎて、死にそうですね。一人の公爵と、一人の精霊と、二つの巨大な愛に包まれた私の、贅沢な悲鳴。
背後から迫る新たな闇の予感さえ、この二人といれば、浄化してしまえると思う。重なるアルヴィン様の体温を感じながら、静かに目を閉じました。




