第16話 深緑の訪問者
第16話 深緑の訪問者
ラザフォード公爵領が呪いの地から聖なる楽園へと変貌を遂げてから日にちはたった。
平和そのものに見える領地には、未だに人智を超えた存在が息づいていました。
領地の北側に広がる沈黙の古森と呼ばれる森。足を踏み入れた者を精神から腐らせると恐れられた場所に、私はアルヴィン様と共に調査に訪れていました。まだ領地周辺は呪いがあるようだ。
「そばを離れないで。浄化されたとはいえ、森の奥底にはまだ、太古の魔力が生息している」
アルヴィン様はいつものように私の腰を引き寄せ、警戒を露わにしています。今日に限っては、過保護さも頷けました。私にも伝わる魔力。とても危険な魔力が森の奥から、心臓を直接叩かれるような、巨大な生命の鼓動が聞こえていたからです。かなり危険な森だわ。近くにこんな所があったのか。
「大丈夫ですよ、アルヴィン様。むしろ森が私を呼んでいる気がするんです。苦しい、助けてって」
私の力で変えられるかしら。一歩踏み出すと、足元の黒ずんだ土が、みるみるうちに輝く苔の絨毯へと変わっていきます。進んで行くと森の最深部は、巨大な大樹に絡みつくようにして、どす黒い霧を吐き出す巨大な異形の塊が横たわっていました。あれは、何?
「これは精霊? いえ、呪いそのものが受肉しているのか」
アルヴィン様が険しい表情で剣を抜こうとした時、私はその塊に歩み寄っていました。敵意じゃない。怖がる必要はないかも。
「待って、アルヴィン様。長い間、毒を吸い込み続けて、自分を失ってしまっただけかもしれない。力で浄化できるかも」
私はドロドロとした塊に、そっと両手を触れました。私の内側から激しい光が溢れ出します。光は相手を攻撃する力ではなく、すべてを許し、元あるべき姿へ還す慈愛の流れであった。さあ、どうなるかな?
「もう、大丈夫。おやすみなさい、悪い夢は終わりよ」
私が微笑みながら魔力を注ぎ込んだ瞬間、黒い塊がパァンと弾けました。漆黒の霧が霧散し、代わりに森全体を揺らすほどの爽やかな風が吹き抜けます。
光が収まったあとに立っていたのは魔物ではなかった。透き通るような長い銀髪に、森の湖を映したような深いエメラルド色の瞳を持つ、この世のものとは思えないほど美しい青年でした。
彼は彫刻のような顔立ちをほころばせ、ふらつく足取りで私に近寄ると、突然私の手を取り、その手のひらに顔を寄せました。なんて綺麗な顔しているの。
「ああ、温かい。呪いの魂を腐敗から救い出し、形を与えてくれたのは貴女か、我が主」
声は、森のざわめきのように清涼で、聴く者の心を惑わすような不思議な響きを持っていました。主って言ったような、私のことかな。
「主、だと?」
背後から、凍りつくような低い声が響きました。アルヴィン様が、文字通り鬼のような形相で私たちの間に割り込み、精霊の手から私の手を奪い返しました。やっぱりこうなるよね。
「誰の許可を得てリリアーナに触れている。この森の精霊だろうが何だろうが、彼女の所有権は私にある。消えろ、さもなくばここで再び闇に還してやる」
アルヴィン様の全身から、嫉妬という名のドロドロした魔気が溢れ出しています。精霊の青年は、全く動じることなく優雅に微笑みました。ごめんね精霊さん、お別れです。この人は夫で、嫉妬深いからね。
「所有権? 人間の尺度で彼女を測るなど、滑稽だ。彼女は大地そのものの愛。彼女の魔力によって浄化され、彼女を守るために受肉した精霊。名前を、シルヴァンと名乗ろう。公爵、貴殿の澱んだ愛よりも、僕の方が彼女の光を清らかに保てると思うが?」
「貴様、今なんと言った」
バチバチと火花が散るのを通り越し、周囲の空間が物理的に歪み始めました。シルヴァンという名前の精霊は、夫に対抗してきた。
アルヴィン様の独占欲と、シルヴァンの執着。どちらも私を愛し、守りたいという点では同じですが、性質は正反対。重く熱いアルヴィン様と、清涼でどこか浮世離れしたシルヴァン。
「あ、あの、二人とも落ち着いてください。シルヴァンは助かって良かったですけど、私にはもうアルヴィン様という大切な夫がいるのよ」
「わかりました主。精霊の愛は人間の結婚などという契約に縛られない。貴女が光を放つ限り、貴女の影として、あるいは足元の草花として、永遠に付き従う」
シルヴァンは静かに膝をつき、私のドレスの裾にそっと口づけました。それを見たアルヴィン様の血管がブチ切れる音が聞こえた気がしました。
それからの数日。公爵邸は緊張感に包まれていました。なぜならシルヴァンが家に来てしまったから。シルヴァンは森の維持を理由に、公爵邸の庭園に居座るようになったのです。
「リリアーナ、喉が渇いただろう? 森の露を集めた特別な滴を飲むといい」
「あ、ありがとうシルヴァン。でも、お水ならさっきセシルさんが」
「そんな泥水を飲ませるわけにはいかない。さあ、口を開けて」
「リリアーナに近づくなと言ったはずだ、この寄生虫が!!」
執務室から飛んできたアルヴィン様が、シルヴァンが差し出したグラスを魔力で粉砕します。泥水と言ったけど、水最高級の湧き水です。
「仕事はどうしたんですか、アルヴィン様」
「仕事どころではない! 君の周りに不審なオスの精霊がうろついているのに、座っていられるか」
アルヴィン様は私をがっちりと抱き寄せ、シルヴァンを睨みつけます。シルヴァンは涼しい顔で、砕けたグラスを植物のツタで再生させながら言い返します。
「不審とは失礼な。彼女の魔力を循環させ、疲労を取り除いているだけだ。貴殿のように、夜な夜な彼女の魔力を吸い取って、溺愛し疲弊させている男とは違う」
「貴様ぁああああ!」
執事セシルさんが遠くで頭を抱えています。
「やれやれ。一人でも大変な独占欲の旦那様が、さらにもう一人、美貌の精霊様が増えるとは。リリアーナ様も罪な御方だ」
その日の夜。アルヴィン様は、シルヴァンへの対抗心からか、いつも以上に執拗に私を求めてきました。
「リリアーナ、精霊に、少しでも心を許してはいけないよ。君を救った。君を愛しているのは、私だけだ」
ベッドの中で、彼は私の首筋に何度も印を刻みつけます。精霊シルヴァンに、ここは自分の場所だと誇示するかのような、必死な独占の儀式。私は別にシルヴァンと関係を持とうとか思ってないのにな。勝手に思い込んでいるから困ったものだ。
「わかっています、アルヴィン様。私が愛しているのは、あなただけですよ」
私がそう言うと、アルヴィン様は少しだけ安心したようになる。けれど、まだ満足できないというように私の唇を塞ぎました。やれやれです。
ふと窓の外を見ると、月明かりの下、庭園の木々が不自然なほど美しく輝いていました。
シルヴァンが、私の安眠を守るために、森の結界を屋敷全体に広げているのが分かります。独占欲が強すぎる夫。過保護すぎる美男子の精霊。
私の幸せすぎて死にそうな日常は、どうやら新たな精霊を迎え、さらに賑やかで、とろけるように甘いものになっていくようです。
「もう、アルヴィン様、手が、そこはっ」
「黙って。リリアーナ。今夜は、精霊の気配さえ忘れさせてあげるからね」
公爵邸の夜は、二人の最強の男たちの火花をよそに、どこまでも熱く、更けていくのでした。




