②静かな朝
余古波麻には、世渡の入口があるという。
だから、そこに行くように言われた時、サキは何か運命のような気さえ、した。
しかし、丘の上、鬱蒼とした森に囲まれたそこは、何も聞こえない世界だった。
音が聞こえた時、それは終わりのはじまり。
森の奥からの呼び声。
次の朝。
鳥の鳴き声で目が覚めた…気がした。
けれど、それは間違いで、部屋の中は何の音もしていなかった。時計の秒針が刻む音さえも。
時計を見ると、6時を少し過ぎたところだった。
6時半に朝食が届き、7時半に学園長のところに、と言われているので、ちょうどいい頃だった。
ベッドから出て、重たいカーテンを開けると、眩しいほどの朝の光が、部屋いっぱいに、注ぎ込んできた。
その眩しさに目を細めつつ、外を見ると、眼下に、動くモノが見えた。
押し上げ窓を開けて、少し身を乗り出して見ると、青々とした芝生の上に、子ども?だろうか、散らばって、動いている。
掃除をしているのかもしれない。手元に箒のようなものか見える。
朝早くから、感心な事だと、微笑ましい気持ちでしばらく見ていたのだが…。
昨日から感じている、違和感がまた、心の底から湧き上がってくる。
静かだ。
子どもたちが動いている。それも見たところ、10人以上の子どもが、芝生の上で、竹箒を使って、掃き掃除をしているようなのに、そこから、何の音も聞こえてこないのだ。
「時間です。」
足元から声が聞こえて、弾かれたように、見ると、教師らしい女性が子どもたちを呼び集めていた。
(いけない…。)
慌てて窓から体を引っ込めた。
理由はなかったが、声をかけた教師に、姿を見られてはいけない気がして、身を隠した。
けれど、窓を閉める時間はなかったので、その女性がこの窓を見上げたら、サキがここから、子どもたちを見ていたと、気づいたに違いなかった。
ただ、そのことよりも、集められた子どもたちが、やはり音も無く、行動したことに気を取られてしまうのだった。
その時。
入口の呼び鈴が、チリンと音を立てて、朝食が届いた事を知らせてきた。
そう。朝の集会で紹介されるまでは、子どもたちと会う事を禁じられているので、朝食は部屋に届ける、と、昨日、Aから伝えられていた。
扉を開けると、綺麗な布巾がかけられた大きめなバスケットが置かれていた。
持ち上げると、フワッと鼻先に、焼きたてのパンの香りがした。
窓辺に置かれた古い、でも綺麗に手入れされていて、脚や対になった椅子、その全ての曲線が美しい、丸テーブルの上に、バスケットの中のモノを広げて、ため息をつく。
先ほど、焼きたてだと、香りで知らせてきたフカフカのパンに始まって、これも焼きたてのオムレツに厚切りのハムとベーコン、ソテーされた数種類のキノコたちと新鮮な生の野菜。
さらに蓋付きの器を開けると、クラムチャウダーだろうか、温かいスープも出てきた。
最後にポットを取り出すと、その中には、紅茶がたっぷりと入っていて、温かいミルクも添えられていた。
「なんて…。ありがとうございます。」
思わず、サキは胸元で手を組み、何かに感謝してしまった。
サキは神を持たない。持つことを禁じられてきたのだ。
それでも何か素晴らしいことが起きた時、逆にとんでもないことが起きた時、何か、神ではないが、何かに、感謝の祈りや、助けを乞う祈りをせずにはいられなかった。
今もその、習慣のような、一つの仕草ではあったのだが、
(いけない、誰かに見られたら、何を言われるか、何て思われるか…。気をつけないと。)
と、自分を戒め、手を解いた。
ひとり、ゆったりと食事を楽しむなんて、いつぶりだろう?
どこに呼ばれても、食事は使用人で集まって取るのが、通常だったし、たまに、サキを特別扱いしたい雇い主の妻が、一緒に食事することを強いることもあったが、どちらにしても、ゆっくりすることは出来なかった。
(今日だけのこと、でしょうけれど。)
はっきり聞いてはいないが、今日、この後、子どもたちや、職員に紹介されてからは、きっと、全員で、広い食堂に集まって食事を取るのだろう、と、思っていた。
サキには経験はないが、以前、一緒に仕事をしたことのある、寄宿学校を出た人に、そう聞いたことがあったので、ここも同じであろうと。
食事を終えてから、身支度を整えて、Aの到着を待つ。
サキはまだこの学園の中を、自由に歩くことは許されていないため、Aに連れられて、また、学園長室に向かうのである。
予定した時刻、ピッタリに、入口の呼び鈴が、チリン、チリン、と、二度鳴った。
そう言えば、この呼び鈴の音は、数少ない、ここで耳にする音だ、と思いながら、扉を開ける。
「おはようございます。サキ様。昨夜は良くお休みになられましたか?」
儀礼的なもの、なのかも知れないが、意外にも、そんなことを聞かれて、戸惑いながら、
「おはようございます。ありがとうございます。おかげ様で、とても良く眠れました。今日もよろしくお願いいたします。」
と、明るい声で答えた。
「それは、ようございました。それでは、参りましょう。学園長先生がお待ちです。」
そう言われて部屋を出ると、後ろでカチャリ、と、鍵が自動で閉まる音がした。
「おはようございます。本日から、よろしくお願いいたします。」
学園長室に入ると、すぐに頭を下げて、そう挨拶をした。
「おはようございます。昨日はゆっくり休めましたか。」
Fが、昨日よりも、柔らかい声で、微笑みかけてくれた。
「はいありがとうございます。ゆっくり休ませていただきました。それに、お心尽くしの朝食を、ありがとうございます。
1人で、久しぶりにゆっくり、味わうことが出来ました。」
そこまで言ってしまってから、しまった、時思った。少し本音を話し過ぎたかもしれない。
「それは良かったです。そうですか、それならばこれからも、朝食は部屋に運ばせましょう。」
Fが驚くことを口にして、サキは思わず顔を上げてしまった。
「いえ、でもそれは…?」
「問題ありません。私も、朝食は部屋でとっています。アナタもそうするといいでしょう。」
事もな気に言われ、サキは何も言うことが出来なかった。
「お座りなさい。この学園のこと、これからのこと、ここでのことを、お話しします。ただ、全て、一度にお話しすることは難しいので、まずはこの学園のことと、アナタのお仕事について、お話ししましょう。」
そう言って、Fは、1人がけの大きな椅子に腰を下ろし、サキには向かい側の長椅子をすすめた。
「この学園のことは、この国でごく僅かな人たちしか知りません。」
初めから、Fの語る話は、小さな衝撃をサキにもたらした。
そしてそれは、話を進めるうちに、波のような大きく打ち寄せてきた。
「そして、ここにいる子どもたちは、本来ならば、存在してはならない、そういう子どもたちです。」
そこで、サキが、気付かれない程度に息をのみ、Fはそれを予測していたかのように、言葉を切った。
「そうです。私やアナタと、同じ、そういう子どもたちです。」
Fが再び、言葉を切って、ここでは明らかに、サキの反応、顔色を伺っていた。
「私も、ここで育ちました。」
「え。」
そこまでは堪えていた、驚きが、そこでとうとう、声に出てしまい、慌てて口元を抑えた。
「失礼いたしました。」
「構いません。当然です。」
ここで、計ったかのように、扉がノックされ、Fが招き入れると、Aが香りの良いお茶を運んできて、2人の前に、静かに置くと、音もなく、出て行った。
「どうぞ.温かいうちに。」
Fはそう言うと、ティーカップを取り上げた。
それを見て、サキも、いただきますと、声をかけて、お茶をひと口飲んだ。喉が渇いていたからか、ゴクリと、音がしたような気がして、サキは慌てたが。
その瞬間。
「オホホホ…。」
Fが、突然、声をあげて、笑い出した。




